9.闇、嘲笑う
目の前でゆっくりと崩れ落ちたのは、九尾の白狐と灰色の騎士。
「おい……どした!」
倒したわけではない。掩護の兵達が何かの神術を使った気配もなかった。
「母様!」
「待て万里、危ねえぞ!」
だが、アーレスが制止の言葉を放った時には、既に赤い猟犬は白狐のもとへと駆け寄った後だ。
「母様!」
固く閉じた首筋の入口を開き、ペトラがその内から引き出したのは、長い黒髪をまとめた女性剣士だった。幾度か揺すり、青ざめた頬を軽く叩けば、やがてそこにはうっすらと赤味が差し……。
「……ペトラ?」
泣き顔で顔を覗き込む少年の名を、擦れた声で呼んでみせた。
「母様……。父様は!」
「こっちも無事だ。ちゃんと生きてやがる」
先代ライラプスの頭に寄りかかった壮年騎士も、アーレスに支えられながらこちらに向けて弱々しく手を振っている。
「昌と珀牙から連絡。イズミル軍の戦ってた連中が、いきなり元に戻ったって」
「誰かが操ってた奴を倒したのか……?」
何かを操る神術であれば、術者が気を失うなり術を解くなりすれば、対象は動く力を失う。それと同じ原理と考えれば、誰かが万里達を操っていた者を倒したという事になる。
昌か、珀牙か。それとも、戦場に忽然と現れた金月の女王が成し遂げたのか。
「イズミル軍は全員金月の女王に投降するってさ! こっちも投降でいいんだよね?」
いずれにしても、戦いは終わったのだ。
「うん。徳勝門の全軍、金月の女王に投降する」
頭上からゆっくりと降りてきたリーティに小さく頷いて、反乱軍の頭目は高らかに投降を宣言した。
イズミルと、徳勝門。
どちらが勝ったわけでもない。
「やれやれ……テメェとの勝負はまたお預けか。アレク」
けれどそれは、清々しい敗北だった。
大地に置かれた巨大な胴の一部は、既に再生を始める事もない。
「ドゥオモ! ミラコリ!」
深緑の装甲板を黒金の騎士の手で乱暴に引き剥がし、カズネは中にいた二人に懸命に声を投げかける。
「姫……様……?」
繋がり合った二つの席に身を委ねたまま、ヒサの双子はぼんやりとこちらを見上げていた。
「……良かった。二人とも、無事で……」
「私たちは……姫様……!」
恐らく、今までの記憶も持っているのだろう。傷だらけのエイコーンを見上げる目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ねえ、いつものドゥオモとミラコリなの……?」
二人の様子からは、少なくとも先程までのような暗い感情は感じられなかった。空賊流に言えば、匂いが違うというやつだ。
「姫様……何とお詫びして良いか……」
「……悪い夢だ。そういう事で、いいじゃねえか」
「そうだよ。……あれ?」
そんな二人の元に向かおうとして、エイコーンの操縦席が開かないことに気が付いた。先程までの激しい戦いで、開閉装置が故障してしまったのだろうか。
「ねえ、ダン。……ダン?」
いつものダンなら、カズネが妙な声を上げた時点で「どうかしたか」と声を掛けてくるはずだ。しかし伝声管の向こうからは、呼びかけてさえ何の答えも返ってこない。
「がぁああぁぁぁっっ!?」
その代わりに響いたのは、伝声管を揺らす絶叫だ。
「ダン!? ちょっと、どうし…………」
聞いたこともないパートナーの悲鳴にカズネは慌てて声を投げかけるが、それは途中で凍り付いてしまう。
伝声管。
セットで運用されるエイコーンとケライノーのために特別に設えられた、専用の連絡装置。
そこから、ごぼりと溢れ出してきたのだ。
黒い何かが。
水のように。
「何、これ……っ!」
伝声管から、既にダンの声は聞こえてこなかった。
代わりにそこから溢れる闇は、ゆっくりと人の……ダンの容を取り。
「ドゥオモ…………」
反射的に外に目をやり……その先に、見た。
イズミルの浄化された大地の上。
こちらを見上げる、黒い影の姿を。
顔は闇の中で、見えないまま。しかし勝ち誇ったかのように口角を歪ませたのが、はっきりと分かる。
そして。
「たすけ…………」
操縦席に流れ込んだ闇は、固定されて動けないカズネを音もなくその内へと呑み込んだ。
続劇
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