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3.月無き空に伸ばす手は

 黒大理に覆われた世界には、昼夜の概念がない。
 ただ時計の針に従って定められた照明が、それらしきものを切り分けているだけだ。
「アンピトリオンの修理は終わっていますよ。ペトラ」
「シャトワールさん……」
 薄暗い照明の下の、夜の時間。
 いまだ調整中の猟犬の騎士。その背に登っていた少年に駆けられたのは、シャトワールの穏やかな声だった。
「必要なら、ゲートも開きますが?」
 しかしその言葉に、ペトラは静かに首を振ってみせる。
「いえ……もう、明日ですから」
 ネクロポリスに辿り着いてから、既に三日。
 奉や千茅、ロッセ達がイズミルとのやり取りや作戦立案に忙しく働いている中、ペトラがしていたのは、ただひたすらにソフィアと剣を打ち合わせる事だけだった。
 ソフィアもペトラも、この時間の人間ではない。外との調整に顔を出すわけにはいかないし、かといって修復中のアンピトリオンではセノーテを探しに出る事も不可能だ。
「ソフィア様の稽古は厳しいですか?」
「僕がどれだけ甘かったか、思い知りました」
 ペトラが過ごした十三年の間、イズミルでは大きな戦いは起きていない。もちろんトリスアギオンを駆り、手合わせや模擬戦程度は行なっていたが……所詮は模擬戦でしかないのだと、ペトラはこの数日で改めて理解させられていた。
「明日の決戦……セノーテは、助けられそうですか?」
 けれど、そんな日々も今日までだ。
 多くの情報を元に、敵の城塞らしき場所の目処は付いていた。
 西の海に浮かぶ、清浄の地。
 ウナイシュと呼ばれるいまだ開拓されていないその地に、敵の隠れ家の一つがあるのだという。既にイズミル側の戦力はウナイシュ攻略を行なうために国元を立ち、西へと向かっているはずだ。
「……わかりません」
 シャトワールのそれは、正面から顔を見据えるような喋り方ではない。けれど正面からの問いでないからこそ、ペトラは素直な気持ちを口にする事が出来た。
「でも……助けてみせます」
 ヒサ家が狙っていたのが初めからセノーテだったなら、ペトラと一緒にイズミルを出た事はきっかけの一つに過ぎないのだろう。しかしきっかけを作ってしまったのは、ペトラだ。
 言葉に籠もる強さに心地よいものを感じながら、シャトワールは穏やかに微笑んでみせる。
「一目惚れというものは、強いですね」
「え、あ……そんなわけじゃ…………」
「恥ずかしがらなくても構いませんよ。……わたしもそうでしたから」
 呟き、思い出すのは、燃えるようなあの日々だ。
 届かない光に手を伸ばそうとして、想いを絞り、足りない物をたぐり寄せ、あがき抜く事が出来たのは……根底を支える気持ちがあったからこそ。
 そしてそれを知ったが故に、シャトワールは今この場に立っているのだ。
「……沙灯さんに、ですか?」
「さあ、どうでしょうね」
 その気持ちが、本当に口にした言葉通りのものだったのかは、シャトワールにも未だ明確な答えが出せずにいた。違うと思った時もあったし、そうだったのかと思い直した事もある。
 けれどそこで生まれた想いと力……そして、彼女と共に過ごす時間を尊いと思う気持ちは、本物なのだと断言出来る。
 それきり二人の間には沈黙が落ち、どちらも言葉を紡がない。
 もともとペトラもあまり喋る方ではないし、シャトワールも長口上は得意ではないのだ。居心地が悪いわけでもなく、かといってその場を離れるほどでもない静寂が、しばらく二人を支配して……。
「シャトワールさん」
 やがて沈黙を破ったのは、ぼんやりと考えを巡らせていたペトラである。
「セノーテ……神王は、ここにずっと住んでいたんですよね」
 シャトワールはその問いに、答えを返さない。ただ、穏やかな沈黙はペトラの言葉を遮ることなく、むしろ穏やかに促してみせる。
「どんな気持ちだったんでしょうか……」
 いつから彼女がこの地で暮し始めたか、イズミルの戦史にも載ってはいなかった。しかし一面の黒に、昼夜すらもはっきりしない、何もない世界だ。
 そこでただ一人、何十年、何百年という刻を過ごすのは……果たして、どんな気持ちだったのだろうか。
 その問いにも、シャトワールは答えない。
「……分かりません」
 答えられない。
「わたしにはする事がありましたし、今は沙灯もいますから……」
 半年ほどは一人でいた時期もあったが、その間はすべき事もそれなりにあったから、寂しいと感じた事はなかった。その後は沙灯が一緒にいてくれたから、なおのことだ。
「神王様の魂も、ずっと眠っていましたしね」
 たまに目覚めている時も神王が喋ることはほとんどなかったし、体の共有で得たのも記憶と感情の欠片が少しだけ。恐らくセノーテとして体を与えたククロの方が、彼女の理解という面ではシャトワールを上回ってさえいるはずだ。
「……神王陛下のこと、頼みます」
 故に口にするのは、小さな願い。
 口にすれば、方向が定まる。方向が定まれば、歩み出せる。
 歩き出せば、いつかは届く。
「彼女も、世界を滅ぼそうとしたわけではないのです」
 けれどその歩みは、何かの拍子に違えてしまう事がある。
 そしてそれに気付かなければ、坂道を転がり落ちる石のように、いつしかどうしようもなくなってしまうのだ。
「何か知ってるんですか? セノーテのこと」
「ほんの少しですよ。……ですがそれは、わたしが話す事ではありませんよね」
 しかし共有で得たそれはシャトワールが感じたものであって、セノーテの真の想いと同じかどうかは分からない。
 もちろん、ペトラがそれをどう感じるかも別の事だ。
「時巡りでどうしたかったのか。この牢獄での時間がどう見えたのか。……それは、セノーテから直接聞いて下さい」
「……そうします」
 ペトラは小さく頷き、ゆっくりと頭上を見上げる。
 既に頭上の明かりは夜のそれから暁のそれへと移り変わりつつあった。
 天地を揺るがす衝撃が死者の都を襲う、その一瞬までは。


続劇

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