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7.キングアーツであるために

 意識を取り戻した少女が感じたのは、穏やかな温もりだった。
 それは風呂のようでも、オルエースの客室でヴァルキュリアの娘達と一緒に眠っている時のようでもあり。
「……生きてる。あたし」
 ゆっくりと瞳を開けば、一面に広がるのは布とレースの天蓋だ。
 イズミルにも、マグナ・エクリシアにも、もちろんオルエース号にも、そんな豪奢なベッドはない。
 あるとすれば……。
「目が覚めたかね、カズネ」
 ここがどこかに思い至った時、掛けられたのは穏やかな声だった。
 そちらにゆっくりと首を動かせば、眼鏡越しの碧い瞳と目が合った。
「カイトベイ……伯父様?」
 それは、メガリ・イサイアスの長にして、キングアーツ王家第三王子。カズネからすれば、ソフィアの兄……伯父にあたる男性だ。
「イズミルからの連絡で、空中海賊にさらわれたと聞いて心配していたのだよ。……無事で良かった」
 眼鏡越しの瞳は穏やかで、ソフィアよりも兄のアレクに近いものを感じさせる。その様子からは、とてもメガリ・イサイアス……そしてキングアーツ南部方面軍を統轄する大将という肩書きは結びつかない。
「他のみんなは!?」
「他の……? 犯人達は取り逃がしてしまってね。目下、捜索中だよ」
 良かった、と口にし掛けて、慌てて喉元で押し止める。
 カイトベイはこのメガリ・イサイアスの長なのだ。エレ達との関係を変に探られて、彼女達やイズミルを不利な状況に持っていくわけにはいかなかった。
 とはいえ、何が有利に働いて、何が不利に働くかはカズネにはまだ分からない。だから、ただ黙っておこうとだけ心に決める。
「連絡って……アレク様から?」
 代わりに口にしたのは、無難な問いだ。
 豹変したアレクと万里がそんな情報をカイトベイに流すとは考えにくい。それとも、自分をイズミルに取り戻すため、あえて弟王子に流したのだろうか。
「いや。アレク達の補佐官のドゥオモ・ヒサからだね」
「ドゥオモ……」
 万里とアレクの豹変や、足止めに残ったペトラやアーレス達の事ばかり気になっていたが……万里の若き補佐役であるヒサの双子も、どうやら無事だったらしい。
「随分と心配しているようだったよ」
「そうですか……」
 幾つかの言葉を口の中で繰り返しながら、カズネが考えるのは、今の自分に出来る事だ。
 カイトベイと直接会えたのは、危機であると同時に、好機でもある。……少なくとも、彼の姪であるカズネだからこそ、こうして彼と会う事が出来たのだ。
 彼女に出来る事は、必ずあるはず。
(そうだ)
 握りしめた手の中に感じるのは、鋼の指にはまる、小さな指輪の感触だ。
 彼女に出来ること。
 すべきこと。
「……伯父様。私のお願い、聞いて下さいますか?」
「……なんだい? 言ってごらん」
 唐突なカズネの言葉にカイトベイは少し面食らったようだったが、やがて穏やかに微笑み返してくれた。
 それに少しだけ安心して、カズネは小さく息を吸い。
「イズミルとの戦争の支度を、やめてくださいませんか?」
 ひと息にそう、言い切った。


 ダンやプレセアのように難しい会話は出来ない。
 エレのように状況を見定める嗅覚も、彼女にはない。
 彼女に出来るのは、まっすぐな振る舞い一つだけ。
 けれど、返されたのはたったひと言。
「……どうして?」
 疑問の問いかけだった。
「どうしてって……え?」
 一笑に付される事や、拒絶の言葉。怒りを買う可能性はカズネも漠然と考えていた。
 しかし進言が疑問で返される場面は、カズネの想像の中にはないものだった。
「もともとあの清浄の地は、キングアーツの物だよ。それを取り戻す事を、どうして止める必要があるんだい?」
「え……? だって、イズミルは……」
 キングアーツと神揚の間に生まれた公国であり、双方の国から信任された女王が統べる、この大陸第三の国だ。だとすれば、その地はキングアーツの物などではなく……。
「形式上は公国と認めてはいるがね。所詮はキングアーツの属国だよ」
 カズネが口にしようとした言葉を、カイトベイはあっさりと両断した。
 穏やかな瞳で。
 拒絶するわけでも、怒るわけでもなく。
 幼い子供に説いて聞かせるように。
「カズネは、王家の役割が何だか知っているかい?」
「……王家の、役割?」
 突如切り替わった話題に、カズネは即座に応じる事が出来ずにいる。弱々しい声で繰り返した言葉にカイトベイは小さく頷き、それきり言葉を紡がない。
 カズネの答えを待っているのだろう。
 穏やかな微笑みを絶やす事なく、ベッドの傍らに置かれた椅子に腰掛けたまま。
「国を……守る事?」
 伯父の言葉を考え、やがて口にされたカズネの答えに、男はゆっくりと首を振る。
「自らの国を守るのは、義務だね。それ以前の問題だよ」
 横に。
「王の役割は……国を豊かにすることだ」
「国を、豊かに……」
 それは、イズミルでも同じ事だ。
 多くの力を集め、大回廊の交易を管理し、二つの国の交差点となる事で、イズミルはゆっくりと確実に豊かになっている。ただの交易都市ではなく技術者達の研究都市としての側面もあるし、最近は周囲の土地をより効率よく開墾することで、食生活も豊かになった。
 それはどれも、指導者たる万里やアレクの導きがあってこそだ。
「新たな土地を開拓し、民に多くの土地を与え、富ませること。……それがキングアーツ王家に課せられた、使命なのだよ」
 そこまで言った所で、カイトベイは穏やかだった表情を僅かに曇らせる。
「しかし、この十数年……西方の開拓は進まないし、南部ではイズミルが独立した」
 もともと開拓と併合による領土拡大で栄えてきたのがキングアーツという国だ。
 領土拡大が行き詰まり、それに対する国民の不満は少しずつ高まっている。このままの状態が続けば、キングアーツ王国は大変なことになってしまうだろう。
「なら、我が国としてはどうすればいい?」
 キングアーツが、キングアーツであるために。
 表情を穏やかなそれに戻し、カイトベイは再びカズネに問いかけた。
「西方の開拓を……頑張る?」
「それでは、国民は我慢しきれないだろうね」
 二十年ほど前から本格的に始まった西方の開拓は、西部特有の濃い瘴気の影響もあって、一向に進んでいない。ヘデントール地方が広大な平野ではなく細長い半島であった事も、開拓熱を冷めさせた。
 王国の研究者の見立てでは、今の技術と開拓ペースではヘデントール半島を開拓し終わるまで、あと三十年はかかるとさえ予測されている。
 もちろん、それだけの時を待つ余裕がキングアーツにあるはずもない。
「他にあるじゃないか。もっと広くて豊かな土地が」
「それって……まさか!」
 キングアーツは、大陸北部を占める大国だ。
 そしてそれと同じだけの清浄な世界を支配する国が……大陸南部には存在する。
 大回廊のイズミルを隔てた向こう。
 神揚帝国。
「キングアーツが領土を広げるのは、宿命なんだよ。……少なくとも、この大陸全てを手の内に収めるまではね」
 だからこそキングアーツは大陸中央部に進出し、メガリ・エクリシアを造り上げたのだ。イズミルなどという独立国家を建てるためではなく、キングアーツ拡大のための、滅びの原野開拓の楔として。
「じゃあ、イズミルとの戦争を止めるには……」
「神揚に代わる土地でもあれば別の判断をするかもしれないけれど……それが出来れば、苦労はしないよね」
 平然とそんな事を口にするカイトベイの表情は、先程までと一切変わらない。
「でも、それじゃ……大陸全てを制圧したら、どうするんですか?」
「さあ? ……海の底でも持ち上げるしかないかな?」
 野心があるわけでも、世界に混乱をもたらそうと考えているわけでもない。彼としてはごく当たり前のことを、ごく当たり前に口にしているだけだ。
「伯父様は……間違っています」
 そうであるが故に。
「カズネも大きくなれば分かるよ。……国というのが、どういうものか」
 カズネの否定を正面から受けても、その言葉に表情を変える事さえもない。ただ穏やかに微笑んで、まだ世界が何かを知らない小さな姪っ子の言葉を流すだけ。
「さて、久しぶりに話が出来て嬉しかったよ」
 ベッドサイドの椅子からゆっくりと立ち上がり、カイトベイは広い寝室を後にする。
「食事と風呂を用意させるから、今夜はゆっくりするといい。明日は妻や息子達にも紹介しよう」
 最後まで、穏やかな笑顔を崩さないままで。

 カイトベイが寝室から姿を消した後。
「……疲れたぁ」
 ベッドにごろりと横になり、カズネは大きなため息を吐いた。
 やってきた侍女達に寄ってたかって風呂と食事の世話をされ、開放される頃には目覚めた時以上に疲れ切っていた。
 イズミルにいた時でさえ、カズネは食事や身支度で他人の手を借りた事はないのだ。そんな状況で食べた料理は何の味がしたかも分からなかったし、無理に着せられた絹の寝間着も落ち着かない。
 けれど、そんなクタクタの体のはずなのに、カズネはずっと眠る事が出来ずにいる。
「…………伯父様」
 考えていたのは、カイトベイとの話の事だ。
 自らの領土を広げるために、イズミルを……そして、神揚を相手取る。恐らくはそれが、プレセアの言っていた『キングアーツだから』という意味なのだろう。
「やっぱり、それは間違ってます」
 小さく呟き、左の中指に嵌められた金の指輪を見遣る。
 万里達も、プレセアも、こんな事が起こらないためにずっと頑張ってきたのだ。イズミルを作り、交易をし、二つの大国の緩衝材として立ち回ってきた。
 その全てを無駄にするキングアーツの動きも、彼の地にイズミルを差し出そうとする何者かの考えも、阻まねばならない。
(どうやって、逃げればいいかな……)
 そのために必要なのは、この場から逃げる事だ。
 カイトベイの様子だと、素直に逃がしてはもらえないだろう。カズネの剣は服と一緒にクローゼットにそのまま置いてあったが、脱出するためには足が必要だ。
 せめて馬、理想を言えばトリスアギオン。
 考えが浮かばない中で、出たのはあくびが一つだけ。
「まずは、体力回復が先か……」
 疲れた頭では良い作戦も浮かばない。
 必要なのは、睡眠だ。
 明日はカイトベイが家族に紹介してくれると言っていた。部屋を出れば、逃げられそうな場所や工廠の位置も分かるだろう。
「先……なんだけどなぁ……」
 寝なければならないのは分かるが、広すぎる部屋も、広すぎるベッドも落ち着かない。備え付けのクローゼットさえ、イズミルのカズネの部屋と同じくらいの広さがあるのだ。
「……やっぱり、クローゼットで寝ようかな」
 分厚い羽布団を抱えようとした所で、外から吹き込む風が変わった事に気がついた。
「……誰?」
 殺気でも、市場で嗅いだ嫌な気配でもない。
 クローゼットの剣を持ってきておけば良かったと僅かに後悔しながら、気配を窺うようにそちらに足を向ければ……。
「あなた……なんで……!」
 そこに立っていたのは、一人の少女。
「助けに来ました」
 月光に白銀の髪を弾く、細身の娘だった。
「セノーテ・クオリア……」
 ソフィア達を襲い、今までカズネを付け狙っていたはずの娘だ。それがどうして、カズネを助けるなどと口にするのか。
「質問は受け付けません。……服を取ってくる時間だけ、待ちます」
 彼女の背後に翼を広げるのは、燃えるような翼を備えた、半人半鳥の異形の姿。


 カイトベイの寝室に姿を見せたのは、その日の警備を担当していた武官だった。
「どうした。こんな時間に」
「申し訳ありません。城に賊が……」
「……神揚の密偵でも紛れ込んだか?」
 盗賊の類であれば、わざわざカイトベイの所にまで報告には来ないだろう。それが何かの見当は付いたが、あえて男は見当外れの意見を口にしてみる。
「いえ……それが、鹵獲したハギア・ソピアーと……」
「……カズネが逃げたか。損害は」
 そのうち逃げ出すだろうとは思っていたが、想像以上に動きが早い。先程の様子を見た限りでは、脱出を手引きするような協力者がいるようにも思えなかったが……。
「格納庫が少し破られましたが、兵や設備にそれ以外の被害は出ていません。追跡隊を編成して……」
「捨て置け」
「……は?」
 メガリ・イサイアスの長の言葉を、武官は思わず聞き返した。
「放っておけば良い。これで、イクス商会にも一つ貸しが出来た」
「はぁ……」
 もともとメガリに閉じ込めていても、それほど有効な使い方のない娘だったのだ。だとすれば、好きに泳がせた方が何か面白い事になるかもしれない。
「……カズネ。お前の描く世界、見せてもらうぞ」
 怪訝そうな顔をした武官を下がらせ、キングアーツの第三王子は心地よい気分のまま布団に身を委ねるのだった。


続劇

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