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 細い繊維を梳いて作られた紙に落ちたのは、大粒の涙であった。
 次々と滴るそれは墨文字を濡らし、滲ませ。やがて震える細い指が、握った手紙の端をくしゃりという音を立てて歪ませていく。
「……あんまりです。お父様」
 押し殺すような怨嗟の言の葉に、彼女の傍らにいた青年は、細い肩を生身の左腕で抱き寄せるだけ。
 彼も帝都から届いたばかりのその手紙に目を通してはいた。けれど北の王国生まれで南の帝国の習わしに疎い彼としては、その手紙の真意を読み取りきる事は難しい。
 ただ彼女の反応に、それが彼が思うよりはるかに重大な事なのだと思いを巡らせるのが精一杯。
「ペトラ……ごめんなさい……。ごめんなさい………っ」
 愛しい夫に抱かれ、狐の耳をあやすように撫でられながら。
 狐の性質を備えた女性の泣き声は、ゆっくりと広間に広がっていく。





〜The last one step〜

第2話 『亡国の王子』




1.目覚めた、その地

 少年がゆっくりと目を開けた時、瞳に映り込んだのは、彼の知らない天井だった。
 先程まで駆っていたトリスアギオンの操縦席ではない。少しくたびれてはいるが、ちゃんとしたシーツの掛けられたベッドの中だ。
 ぼんやりとした意識のまま。暖かく柔らかな感触を右手に気付き……いまだ気だるさの抜けない顔を向けてみる。
「……起きた?」
 掛けられたのは、いつもと同じ穏やかな声。
 黒く長い髪に、黒い瞳。
 彼の手を取り、優しく声を掛けてくれたのは……。
「……母様」
 彼の母親……万里・ナガシロだ。
「ええ。……ペトラ」
 それは、いつもと変わらない光景。
 風邪をひいて寝込んでしまった時。遊び疲れて眠ってしまった時。
 彼女はいつもこうして側に付いていてくれた。
(そうか。……あれは、夢だったんだ……)
 柔らかな手の温もりに感じるのは、そんな思い。
 そうだ。
 あの優しい万里が、自分やカズネに刃を向けるはずがない。ソフィアが行方不明になった事も、両親の異変も、白銀の髪の少女との脱出行も……全ては、悪い夢だったのだ。
「……まだ疲れているのね。ゆっくり、お休みなさい」
 そうだ。
 もう一度眠って目を覚ませば、そこはいつものイズミルの城で……きっと、いつもの穏やかな日々が始まるに違いない。
「……お休み。母様」
 ペトラは小さく呟いて、再びそっと瞳を閉じた。
 彼の手を握る母親が、彼の知る万里よりもはるかに若い事に。
 そして、彼女の黒く大きな瞳から涙が溢れ出した事に、気付くこともなく。


 ペトラが再び目を覚ました時。そこはいつものイズミルの城ではなく……彼がまどろみの中で見た、知らない天井のままだった。
「……夢じゃ、なかったのか……」
 どうやらあの晩の事も、後の脱出行も、まごう事なき事実であったらしい。
(でも、だとしたらあの母様は……)
 それこそ彼の想いが見せた幻だったのか。
 それとも……。
 身体に異常が無いのを確かめると静かに身を起こし、辺りを見回してみる。
 恐らくはキングアーツの流れを汲む施設なのだろう。鋼鉄の壁に覆われた無機的な部屋は、時々遊びに行く北の国境の城塞によく似ていた。
 だが違和感を感じたのは、格子のはめ込まれた窓の外。窓の外の半分ほどは彼も良く知る青い空だったが、その向こうは薄紫の霧に覆われているのだ。
「どうして……こんな近くまで滅びの原野が……?」
 滅びの原野の事は、もちろん彼も知っている。
 人の出入りを拒む、呪われた領域。トリスアギオンなどの大型機なしでは立ち入る事も出来ない、永遠の不毛の地。
 しかし彼の知る国境の周囲は既に浄化を終えており、滅びの原野は窓から見える距離にはない。何よりマグナ・エクリシアは周囲を高く厚い壁に囲まれており、こうして城の一室から外を眺める事など出来ないはずだ。
(キングアーツの他の場所に来た……? そんなバカな)
 もちろんキングアーツ本土であれば、滅びの原野周辺に築かれた城塞もあるだろう。しかしイズミルから歩いてひと晩の距離にあるそれらしい城塞など、北の国境くらいしか思い浮かばない。
 考えていても堂々巡りだ。
「…………開いてる」
 ベッドを降り、どうするべきかと考えながらドアノブに手を掛ければ、鍵の類はかかっていない。
 部屋には誰もいない以上、自分から情報を集めに出るしかないだろう。
 少年は一瞬躊躇するものの、自らの心を奮い立たせ、鋼鉄のドアを押し開けた。


「……やっぱりここ、マグナ・エクリシアなのかなぁ……?」
 細い廊下も鉄製の階段も、彼の知る国境の城塞に似た構造を持っていた。その考えから疑問符が抜けないのは、今まで歩いてきた全ての場所にマグナ・エクリシアの面影がなかったからだ。
 建物の中そのものは歩いた事がなくても、窓から見える庭の様子や建物の形など、そこがマグナだと分かる要素は何かしらあるはず。
 しかしその一切が、ここにはない。
 改装があったとは聞かないし、そもそもマグナ・エクリシアにはカズネ達と昨日遊びに来たばかりだ。
(あの時は、いつものマグナ・エクリシアだった……)
 そんな事を考えながら歩いていると、やがて廊下の向こうに一人の少女の姿が見えた。
「…………セノーテ!」
 白銀の髪に、どこか遠くを見ているような碧い瞳。キングアーツの軍服をまとってはいたが、それは昨晩、イズミル脱出の手伝いをしてくれたあの少女だった。
 滅びの原野に連れられた後、砂嵐の中でいつしかはぐれてしまったのだが……。
「…………え?」
「やっぱり君も来てたんだ!」
 何もかもが分からない中、ようやく知った顔に出会えた嬉しさに、慌てて駆け寄りその手を掴む。
「良かったぁ。ここ、マグナ・エクリシアだと思うんだけど、全然見覚えがなくてさ……」
 ぶんぶんと繋いだ手を振り、感極まって少女の細い躰を力一杯抱きしめる。そんなペトラに、少女は僅かに目を丸くしたままだ。
「あ、ごめん。僕ばっかり喜んじゃって……。神揚では、抱き合ったりはしないんだっけ……?」
 抱きしめていた体を離し、改めて小さな手を取り直す。
 カズネやダンと過ごしていた時のクセでつい抱きしめてしまったが、その手の習慣はキングアーツ側のもので、神揚ではそこまで激しい表現はしないはず。
 幼い頃から神揚の神殿に預けられていたセノーテには悪い事をしたかと心配になるが、目の前の少女は嫌悪の表情も、悲鳴を上げる気配もなく、ただ静かにこちらを見つめるだけで……。
 やがて口にした問いは、たったひと言だけ。
「あなた…………誰?」


続劇

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