4.ヘデントールからの使者
「ただいまー」
馴染みの酒場で秘蔵のキングアーツ酒を譲ってもらい、三人が城に戻ってきたのは、太陽が西の地平線に消えるか消えないかの頃だった。
「姫様!」
「ご、ごめんってばミラコリ! でも、日が沈むまでにはちゃんと帰ってきたでしょ?」
日没後なら門限破りでお説教だろうが、まだ陽はギリギリ沈んでいない。その前に逃げ出した事については……いつもの事だから、きっと大目に見てくれるはずだ。
たぶん。
きっと。
「……そうではありません。お早く謁見の間に」
けれどホールに現れた双子の表情は、どちらも揃って険しいものだ。いつもの三人のエスケープにお説教をする時のそれとは、明らかに違う。
「殿下とスーダンスも来なさい」
改めて見れば、おかしいのはヒサの双子だけではない。いつもならそのお説教を楽しげに見守っているはずの門番や侍従達にも、どこか緊張したような、不安げな空気が漂っている。
「……何かあったの?」
心の奥に何か重い物を乗せられでもしたかのような空気に、小さく息を呑み。
カズネ達はヒサの双子達に導かれ、城の奥へと連れられていく。
イズミル城の謁見の間に、玉座はない。
二人の女王という存在はあるが、彼女達はあくまでもキングアーツ王と神揚皇帝から信任された代表者という立場でしかない。さらに言えば、この大陸でまともに機能している独立国家はイズミルを含めて三つだけ。
付き合う国が上位の二国しかない以上、彼女達が一段高い玉座から両国の使者を迎えるというのは、外交上で色々と不都合が生じてしまうのだ。
故にイズミルの謁見の間は、幾つかのテーブルとソファーが置かれただけの、各国の前線基地だった時代を色濃く残す作りとなっていた。
「アーレスさんに、リーティさんまで……」
アーレスは夕方会ったばかりだが、細身の青年は確かキングアーツ西部の開拓の手伝うために出向していたはずだ。
「久しぶり。三人とも」
明るく振る舞ってみせる彼も、その行動の端々に緊張の色を隠せずにいる。
今回の非常事態は、それだけ深刻なものなのだろうか。
「それより、何のお話ですか? 万里様」
「ええ。……カズネ、こちらに」
大きめのソファーに身を預けていたペトラの母親は、細い手でカズネを傍らに座らせると、小さなその身をそっと抱きしめた。
「万里様……?」
万里のそんな仕草は、珍しいものではない。母親が留守がちなカズネを彼女は実の娘のように可愛がってくれたし、こうして抱かれる事はカズネも決して嫌ではない。
だが今日のそれは、いつものそれとは明らかに違っていた。ここに来るまでの漠然とした不安と合わせ、胸の奥の嫌な重みが一層増えるような想いに駆られてしまう。
万里は瞳を閉じてカズネを抱いたまま、言葉を放たない。
「カズネ」
彼女の言葉を継いだのは、彼女の夫……万里と共にイズミル統治の実務を担う、ペトラの父親だった。
「ソフィアとタロが、西海に交易に出ていたのは知っているな?」
「はい。メガリ・ヘデントール経由でキングアーツの西側を回る航路ですよね?」
ヘデントールは、この二十年ほどのキングアーツ西方開拓の中で建造された、新しい開拓基地だ。
海と瘴気の濃い山地に挟まれた、陸の孤島とでも呼ぶべきその地も、飛行鯨を使った空路なら比較的楽に行き来が出来る。その航路で交易を行なうのは、メガリ・ヘデントールが出来てからはタロ達にとって定番とも言える通商ルートだったはずだ。
「そのヘデントールの南……ウナイシュ島付近で、タロとソフィア様の乗っていたホエキンが消息を絶った」
アレクから継いだリーティの言葉に、ペトラ達は万里がカズネをずっと抱きしめていた意味を理解する。
「…………っ!」
「……カズネ」
抱きしめられた腕の中。カズネは何を言われたのか分からないのか、ぼうっとした表情をしているだけだ。
「でも、ウナイシュ島ってまだ開拓されてませんよね? ルートもおかしいし……」
メガリ・ヘデントールよりも南は滅びの原野が続くだけで、前線基地も出来ていない状態だ。北の湾を巡るならともかく、商売相手もいない所を行商で巡る意味はどこにもない。
「それは分からないよ。南の滴連までの航路を開拓しようとしてたのかもしれないし……」
常に変化や新しい事を求めようとしていたタロなら、それはありえる話だった。新たな航路を開ければ、それはそのまま新たな商売の機会に繋がるからだ。
「犯人は? 最近は空中海賊や、違法商船もうろついてるって聞きますけど……」
交易が増えれば、それに応じた犯罪も増える。商船を狙う賊や、『大回廊』と呼ばれるイズミル経由の正規航路ではなく、滅びの原野を強引に突破する無許可の商船の話も後を絶たない。
それらの商船は、競合や警備の船を退けるために護衛のトリスアギオンや武装を施しているとも聞く。
「分からん。ヘデントールにいたオレとアーデルベルトで調査に出たが、異変は見つけられなかった。……それが、三日前の話だ」
ウナイシュ島は変わりなかったし、周辺にも戦闘の痕跡は見当たらなかった。
もっとも空戦であれば、戦闘の痕跡などそうそう残るはずもないのだが……。
「というか、皆様……もう少し、声を落として」
議論を戦わせ始めた一同が押し黙ったのは、万里の後ろに控えていたヒサの妹の声を聞いたからだ。
万里の腕の中。ようやく事態を把握しつつあるのか、金髪の娘は小さな金属の腕を握りしめ、ぎゅっと瞳を閉じている。
「……空賊や武装商船なんかに負けるような母様達じゃないわよ……」
やがて誰もが黙ってしまった中、押し殺すようにして紡がれたのは、カズネの言葉。
それは、少女の精一杯の願いだったのだろう。
けれど同時に、それはこの場にいた一同の総意とも言えた。
願い、という意味だけではない。黒金の騎士をまとい、このイズミルの開拓が始まる以前から戦場の最前線を縦横に駆け回ってきた彼女なのだ。黒金の騎士をカズネに譲り、新たなトリスアギオンに乗り換えたとは言え、その腕は少しも衰えてなどいない。
空賊や武装商船を退けたというならまだしも、彼女がそんな戦素人に後れを取るとは思えなかった。
「その話、グランアーツの俺の親父達には?」
「キングアーツ関係の設備を使うわけにはいかんしな。……ひとまず、ロッセ宛に早馬は出した」
王都に置かれたイズミルの大使館に、専用の通信機を置く許可は降りていない。そのため、イズミルと無線のやり取りをするためには、キングアーツの設備を間借りする必要がある。
そんな設備でイズミルの長が行方不明などという事態が相談出来るはずもない。
「それでね、カズネ」
ようやく口を開いた万里の言葉にも、いまだカズネは黙ったまま。
少女の沈黙を是と取って、イズミルの女王は穏やかに言葉を続けていく。
「これを……貴女に、預けます」
その言葉と共に鋼鉄に覆われた少女の指に嵌められたのは、小さな金の指輪だった。中央に月を置き、周囲に無数の星が刻まれた指輪だ。
「これ……!」
「ソフィアは旅が多いから、私が預かっていたの。……ソフィアがいつも付けているのは、レプリカよ」
母親が自分の結婚指輪を娘へと託すような光景に、カズネだけではない、辺りの誰もが息を呑む。
それは、万里の左手中指に嵌まる、太陽の意匠を備えた銀の指輪と対になるもの。
「もしもの場合……。ソフィアのイズミル女王の権限を、全てお前に託す。これは、以前から万里やソフィア、タロ達と決めていたことだ」
彼女の指に輝く指輪は、その証。
このイズミルの女王を示す、金月の指輪。
「アレク様!」
「黙ってろ、ダン」
思わず席を立ち上がったダンを制したのは、テーブルに脚を投げ出して座っていたアーレスだった。
「さっさと決めとかねえと、イズミルは潰れるぞ。……故郷、潰したいのか?」
ただでさえイズミルは、二つの超大国に挟まれた微妙な立場にあるのだ。二人の女王や滅びの原野、大国の緩衝材といった奇跡的な均衡のどこかが崩れれば、それはそのまま国の終焉に繋がりかねない。
それは、誰もが分かっている事だ。
けれどアレクの言葉は、今言うべき事であり……今言うべきではない事でもあった。
「我々も全力でフォローはする。……構わないか?」
静かな問いに、カズネは沈黙を守ったまま。
涙ぐむ万里に背中を抱かれたまま、小さく体を震わせるだけだ。
そして。
「もしもの事なんて……そんなの、分かるわけないよ……」
やがて聞こえてきたのは、微かな、絞り出すような声。
「当たり前だ。……こちらからも、すぐに調査団を出す」
ソフィアはアレクにとっても特別な存在だ。イズミルの発展に力を尽してきた戦友であり、共同統治者であり……何より彼の実の妹でもある。
彼の手も強く握られ、いまだ生身のままの左手にはうっすらと赤い血さえ滲み出していた。
「…………」
アレクが言葉を終えた後に残るのは、重苦しい沈黙だ。彼の言動を責める事など誰にも出来ず、かといって他の話題を切り出す気力も出せずにいる。
その空気に疲れたか、それとも逃げたかったのか。
万里の腕の中から力なく身を起こしたのは、顔を涙で濡らしたままのカズネだった。
「……カズネ」
「……大丈夫です、万里様。万里様は、この後の事もお話があるでしょ?」
伸ばされた万里の手に小さく頭を振り、カズネは後ろに控えていたヒサの妹に支えられるようにして部屋を後にする。
「カズネ……」
ちらりと向けられた恨めしげなミラコリの視線に、ダンやペトラも彼女に続く事が出来ないままだ。
イズミル王城は、キングアーツ王城や神揚帝宮に比べれば格段に小さな城である。もともと小国の城という所為もあるが、二人の女王が城のスペースを必要以上に広く取ることを良しとしなかったのだ。
「……ごめんね、ミラコリ」
いつもなら、走ればあっという間の廊下。しかし今日のそこは、途中で崩れ落ちそうになるほどに長く、辛く感じられるものだった。
「ソフィア様の事ですから。このくらい当たり前です」
ミラコリがいなければ、途中……いや、あの部屋を出る事さえも叶わなかっただろう。
普段から留守がちで、月の半分も顔を合わせないような両親だったが、一緒にいる時は家族の時間を大切にしてくれた。だからこそカズネはソフィア達を誇らしく思った事こそあれ、恨みに思った事など一度もない。
もちろんそれは、ソフィア達の代わりに家族同然に接してくれた万里やペトラ、ミラコリ達の存在もあるのだろうが……。
「それと、小耳に挟んだのですが……」
そんなカズネを支えながら、鷲翼の少女はカズネの耳元に囁きかける。
「姫様がお戻りになる前、リーティ様が……燃えるような翼を持ったバルミュラを見たというお話をしていらっしゃいました」
「燃えるような翼の……?」
バルミュラとは、かつてイズミルを巡る戦いで敵側の勢力が使っていた前時代の巨大兵器……シュヴァリエの名だ。
イズミルで開発されたトリスアギオンにもその名を受け継ぐ機体は幾つかあるが、燃えるような翼を持つ機体など聞いた事もない。
「なら、なんでさっきは黙ってたの……?」
「……それらがソフィア様達を害した犯人と知れば、姫様が飛び出していくとお考えになったのでは」
カズネの性格を考えれば、当たり前の話だ。
ソフィア達の仇が誰か分かれば、カズネは例え一人ででも王城を飛び出してしまうだろう。
「…………燃えるような翼の」
万里達の気持ちは分かる。
その心遣いをありがたいとも思う。
「……バルミュラ」
けれど自身の心に刻みつけるように、カズネは口の中でその言葉を繰り返してみせるのだった。
続劇
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