穏やかな木漏れ日の差す森の中。
差し出されたのは、小さな箱に収められた銀色のリング。
「これを……私、に?」
それを前にして、どこか茫然と呟くのは……黒髪の少女。
「……はい。我々の国の習慣では、想い人に指輪を贈る習慣というものがありまして」
差し出している黒髪の青年の頬も、珍しく朱に染まっていた。けれどそれが、普段あまり感情を表に出さない青年がどれだけ本気であるかを教えてくれる。
「その……え、あ、でも、それって……」
大きめの帽子がずれ落ちそうなほどの動揺に、必死に帽子を押さえつけ。耳まで真っ赤にした顔で、万里は意味不明な言の葉を撒き散らすだけ。
「万里の国に、指輪に関する良くない風習があるなら他の方法を考えますが……」
そんな少女の様子を心の底から愛おしく想いながら、アレクは穏やかに微笑みかけた。
「そうでなければ、受け取って頂けませんか?」
それは、いつもの優しい笑み。
少女の疲れた心を包んでくれる、あの微笑みだ。
「……アレクさん」
呟く言葉に、青年は言葉を返さない。
ただ穏やかに瞳を向けて、優しく万里の言葉を待っていてくれる。
「私の国では……ですね」
大したことのない内容のはずなのに、思う言葉に出てこない。それでもぐちゃぐちゃな心の中から必死に必要なものを見つけ、選び出しながら、万里は言の葉を紡ぎ出していく。
「指輪を贈る、相手は……」
それでも、アレクはその先を急かさない。
懸命に、顔も首筋も、帽子を押さえる指先まで真っ赤に染めながら言葉を紡ごうとする万里の想いを、ただただじっと待っている。
「……その…………結婚を申し込む相手だと、決まっているのです」
はふ、と漏れた吐息は、ピリオドの代わり。
それを、青年も言葉の終わりだと理解する。
だが。
だから。
続いたのは……。
「いいん……ですか?」
今度は万里からの、問いかけだった。
「万里?」
「もし、アレクさんが……私に友情の証として、その指輪を下さるというのなら……」
受け取れない。
受け取るわけには、いかなかった。
差し出されたそれは、嬉しい。けれど……。
けれど。
「……ならばなおさら、私は万里に指輪を貰って欲しいのです」
その万里の問いを、アレクは優しく否定した。
万里の国での……神揚の指輪のしきたりを理解した上で、その指輪を改めて差し出してくれたのだ。
「じゃあ………」
これ以上、万里の顔は紅く染まらなかった。
頬も、耳も、首筋も。
指の先まで、もう紅い。
「もとより、そのつもりです」
「なら……アレクさん……!」
故に、涙が溢れた。
「アレクとお呼びください」
小さな身体で飛びついて、大きな体を両手で懸命に抱きしめる。
「………アレク!」
たった三文字の言葉を紡ぐのがこんなに嬉しいと、少女は生まれて初めて知った。
「アレク! アレク……っ!」
涙が止まらなくて……それでも構わないと思えるくらいに、嬉しくて。
「嬉しい……!」
「私もです……万里」
いつもは肩を抱いてくれる手が……鎧に覆われたままの無骨な右手が、今日は背中をまるごと抱きしめてくれる。
そして鎧を着けていない左手は、帽子の上から優しく頭を撫でてくれて。万里は狐耳まで構わず撫でるアレクの手のひらに、彼が自身の全て……いまださらけ出す勇気のなかった帽子の下の真の姿まで、受け入れてくれたのだと理解する。
「兄様、おめでとーっ!」
「万里もおめでとう!」
そんな二人の元に茂みから飛び出してきたのは、万里のよく知った声だった。
「ちょっと!? 沙灯!?」
一人は沙灯。物心着く頃から彼女の側にいた、世話係にして護衛役でもある、最高の家族。
「ソフィアも……見てたんですか!?」
一人はソフィア。青年の妹にして、この北八楼に辿り着いてから出来た、万里の一番の友達。
「当たり前でしょ! こんな良い場面、見逃すはずないわよ。万里も兄様も、おめでとう!」
「万里、おめでとう! アレクさんも、ありがとうございます!」
満面の笑顔の二人は、恐らくアレクと万里の関係をずっと見守ってきたのだろう。それにようやく気が付いて、万里は涙でくしゃくしゃになった紅い顔をさらに紅くすることも出来ず……もう、うつむいてしまうだけ。
「ソフィアも……喜んでくれるのですか?」
「当たり前でしょ。……兄様、万里、これから大変だと思うけど、あたし絶対二人の味方だからね!」
どうやら、ソフィアがここまで手放しに喜んでくれるとは、アレクも思っていなかったらしい。いささか意表を突かれた様子の兄に、ソフィアはくすくすと笑っている。
「わたしもです! 本当におめでとう、万里。わたしもずっと、二人の味方だから」
そして、家族のように思っていた沙灯の笑顔の祝福に。
「ありがとう……。ソフィア、沙灯……!」
万里は愛しい人の腕の中で、とうとう声を上げて泣き出してしまうのだった。
○
煤煙たなびくメガリ・エクリシアの街角に響くのは、元気一杯の少女の声だ。
「環! ほらほら、早く来なさいってば!」
エクリシアの居住区……市街地である。
石畳に鋼の足を高らかに鳴らしながら、ソフィアは遅れ気味の青年に楽しそうに苦情の声を投げつけてみせた。
「何でそんなにテンション高いんだよ、ソフィア!」
青年の両手に下がるのは、大量の荷物。荷物だけながら体の大半を義体に換装した身、大したものではないが……朝からずっとソフィアの買い物に引きずり回されていれば、疲れもする。
手足や心肺は疲れを知らない鋼の義体でも、人体の中枢や頭脳は生身のままなのだ。
「だって! 兄様と万里がさ。こんな嬉しい事ってないわよ!」
同じように体の大半を義体化させたソフィアは、疲れの欠片も見せる気配はなかった。同じ義体のはずなのにどうしてこうも違うんだろう……と、環は呆れざるを得ない。
「環も応援してくれるんでしょ? 二人の事」
ソフィアに笑顔でそう言われ、環は自身の疲労の原因をもう一つだけ思い出す。
「……アレクの為だからな。こんな事でもないと、わざわざあんなクソ厚い王室典範なんて調べるかよ」
環はアレクの親友だ。一番の忠臣という自負もある。
故に親友とその相手のために、過去のカセドリコス王家が行った様々な前例を調べ上げる難事業も……ほんの数日でやってのけていた。
「王族と清浄の地の部族の政略結婚って、前例があったのね。だったら二人が結婚するのも、全然問題ないわよね!」
そんな環の活躍もあって、アレクと万里の身分違いの恋……という悲しく切ない関係には、解決の糸口が見えている。
万里が今まで頭を悩ませていた彼女の立場が、今度はアレクとの関係に力を貸してくれるのだ。
「ま、あの二人は政略結婚でも、ちゃんと好き合ってるけど!」
そう呟いて飛び込むのは、通り沿いに建てられた小物屋である。
「あら、姫様。いらっしゃい」
「おばちゃん、こんにちわ! ちょっとプレゼント買いたいんだけど、なんかオススメむぐぐー!」
元気良く店員の老婆に声を掛けたソフィアの口を塞ぐのは、鋼で作られた環の腕だった。
「こら。まだ決定じゃねえんだ。ベラベラ喋んじゃねえ」
前例はあるが、今回の件もまだ決定ではない。
アレクの属するカセドリコス王家の返答もまだだし、万里の属する部族からの答えも来ていないのだ。
キングアーツについては、問題はないだろうが……。
「むぐ……わ、わかったってば」
鋼の腕を乱暴に叩かれて、ようやく環は拘束を解く。
イヤイヤながらもソフィアの買い物に付き合っていたのは……当然ながら、おしゃべりな妹姫の監視も兼ねているのだった。
「あーあ。早く答え、出ないかなぁ。みんな幸せになれるって分かってるんだから、ぱって決めちゃえばいいのに」
無邪気に小物の物色を始めた姫君に、環は小さくため息を一つ。
「そうだな……みんな幸せになれると、いいんだがな」
窓から差し込むのは、琥珀色の霧の向こうから差し込む穏やかな陽の光。
そんな珍しくうららかな日差しの中。
「…………は?」
唐突に出てきたその単語を、黒豹の脚を持つ青年は珍しくもう一度聞き返した。
「結婚……ですか? 姫様が」
どうやらもう一度聞いても、間違いではなかったらしい。
繰り返した言葉に、彼の主は小さく頷いてみせる。
「皇家の記録にも、属する国や楼の部族との絆を深めるため、皇族との婚姻を結んだ事例が多くありました」
「それは珍しい事ではありませんが……」
神揚皇家の歴史は、侵略の歴史だ。
力任せでの制圧も、同意の上での併合も、相手に請われて吸収した事もある。そしてそんな歴史の中で、神揚皇家は多くの国の血筋をその内側に取り込んできた。
「その部族の青年と……ね」
「お願いします、ロッセ。私に……力を貸してください」
それは、万里の属するナガシロ家も例外ではない。
けれど少女は、それを自ら望んで行うというのか。
「神揚北上の要となるこの地の部族との絆を深める事は、帝国の目的にも適うはずです。私が婚姻を結ぶ事で、帝国に属する国々にもこの地の重要性を示す事が出来るでしょう」
万里の見解は正しい。
古から伝わる地図が正しいとすれば、八達嶺周辺は大陸の中央部に相当する。故に八達嶺という巨大な前線基地が置かれ、ナガシロ皇家の第一皇女たる万里がその長として派遣されているのだ。
そこで、皇家の娘と清浄の地たる北八楼の部族に結びつきが出来れば、八達嶺の周辺地域は神揚の中でもさらに重要性を増すだろう。
もっとも、それは建前だ。
「それに……アレクやソフィアの部族が暮すこの地は、常に巨人達の脅威にさらされているのです。……私は、彼らの力になりたい」
青年を見据えて紡がれた言葉は、まっすぐなもの。
正直に告げられた本音は、彼女のロッセに対する信頼を現すものだった。
「頼みます、ロッセ」
「わたしからもお願いします! ロッセさん!」
そんな主の願いと、その傍らに控えた鷲翼の少女からも必死の言葉を投げつけられて……。
「分かりました! 分かりましたから……!」
黒豹の脚を持つ青年は、折れた。
折れるしかなかった。
「それでは!」
「小官は帝国の臣。そこまで帝国の利になると説かれては、説得されぬわけにはまいりません」
ロッセも、沙灯も、そして第一皇女たる万里でさえも、巨大な帝国である神揚にとっては自らの覇を示すための駒でしかない。その前に、個の意思などは存在しない。
だが、その覇を示せるとなれば……帝国は、最良と言える方法で駒を動かす。例えそれが、駒の目論見通りであったとしてもだ。
「ありがとう! ロッセ!」
「……確か、ルビーナには先帝の第一皇女が嫁いでいましたね。上は、その辺りの事例から上手く説得してみましょう」
楼の確保に関する優先順位は、彼ら開拓軍の中でも極めて高い。
そんな滅びの原野のオアシスたる清浄の地を万里の婚姻一つで傘下に収められるなら、神揚にとっては破格の買い物と言っていい。
確かに万里の提案した一手は、帝国にとって極めて都合の良い一手となるはずだった。
「ありがとうございます!」
「姫様がそこまで必死な所など、初めて見ましたよ」
苦笑して呟く青年に、万里は思わず頬を染めてみせる。
「ですが、その前に……」
「……はい」
姿勢を正したその言葉に、万里と沙灯も表情を厳しく引き締めた。
「明日には、全面攻勢の準備が整います。まずはここで戦果を挙げなければ、姫様への協力もなにもありませんよ」
得られた情報は少ない。しかし、本国からの増援はロッセ達の策もあり、何とか合流することが出来た。
今までは、情報不足に加えて戦力不足も理由にして決戦を引き延ばすことが出来たが……こちらの基準で戦力が整った今、もはやそれも限界だ。ロッセとしてははなはだ不本意な状況だが、持つ情報と起こりうる事態を出来る限り予測して、決戦に望むしかないようだった。
「無論です。これでようやく……巨人どもに一矢報いる事が出来るのですね」
神揚のためにも。
ロッセや沙灯、八達嶺の将達のためにも。
そしてソフィアや……アレクのためにも。
明日の戦いは、絶対に負けられないのだった。
続劇
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