2.アヤソフィアの涙 薄紫の荒野を彼方に望む小さな街の一角に響くのは、キングアーツでは聞き慣れない、たゆたうような弦の音だった。 雑踏にかき消されるほどのそれを弾くのは、ぼろ布に身を包んだ小柄な姿。 鳴らし、余韻の響くその場に掛かるのは、細身の影だ。 「…………ッ!」 見上げた次の瞬間、既に弁士の姿はその場にはない。 「奉、見つけたわ! 通りを右!」 消えた弁士を追って走り出しながら、ジュリアは素早く思念を放つ。 メガリですらない、キングアーツの開拓都市だ。どれだけ強い思念を放とうと、盗み聞きされる心配はない。 「応!」 それは向こうも分かっているのだろう。ジュリアの心の声に、すぐに反応が返ってくる。 「今度こそ逃がさないわよ……半蔵!」 灰色の空を望む執務室で息を吐いたのは、キングアーツの青年将校だった。 「……そうか。半蔵はまだ見つからないのか」 あの戦いが終わって半年。 姿を消した神揚の忍びは、商人や旅人の情報網に時折引っかかりはするものの……尻尾が見えても、容易にそれを掴ませようとはしない。 「ええ。ジュリアちゃんもその度に出て行くし、そろそろ見つかって欲しいのですけれど」 「だなぁ……」 ただでさえこの所の配置転換や異動で、イズミルもメガリも人手不足なのだ。 車椅子の美女も出来る限り政務を手伝うようにはしているが、それでも限界はある。車椅子の手は増やせても、それを操るのはたった一つの頭だけなのだ。 「環。客だ」 そんな話をしていると、執務室に入ってくる姿があった。 「ちわー。師匠から、次の会議の書類ッスよ」 「すまんな、リーティ。……何か飲みながら読むか。ヴァル」 八達嶺の使者から書類の入った袋を受け取り、メガリ・エクリシアの司令官補佐はリーティと共に入ってきた白い髪の娘に声を掛ける。 「支度はしてある。すぐに出す」 それに頷くと、ヴァルキュリアは慣れた様子で外のワゴンを運び込むのだった。 泣きじゃくるソフィアが落ち着いたのは、それから少ししての事。 「ごめんね。……ちょっと、寂しくなっちゃって」 セタの腕を離れ、少女は恥ずかしそうに微笑んでみせる。それは弱々しいものだったが、少なくとも崩れそうなものではない。 「みんな、自分のすべき事をしてるんだから、ちゃんと応援しなくちゃいけないのにね……」 「良い。いきなり人が減れば、そう思う時もある」 王族、イズミルの長とはいえ、ムツキからすればまだ年端もいかない小娘だ。イズミル再建の激務に追われてばかりいれば、時には挫ける事もあるだろう。 「そうそう。アークがなくなっても、新しいシステムはもう動いてるんだし……世界は、少しずつ変わっていくんだから」 動かなくなった碑の向こうに建つのは、植物状の構造に覆われた尖塔だ。ニーズヘッグと銘打たれたその装置は、アークに代わってこの領域を浄化する、クロロ達の成果の一つである。 「うん。……ムツキも本国に戻るって聞いたけど」 目の前の老爺は偵察兵として戦線に復帰するまでは、予備役として辺境の開拓任務に就いていたらしい。その知識と経験は、イズミルの再建と開拓にはなくてはならない存在だったのだが……。 「老兵はただ去るのみ……」 そう言いかけた所で、少女の瞳に大粒の涙が浮かぶ様子に息を飲み。 「……と言いたいが、ただの休暇の消化だ。こちらの姫様も意外とうるさくてな」 小声で言い足して、苦笑い。 ムツキとしては大して気にしていなかったのだが、休まないのも問題なのだという。戦時には戦時の、平時には平時なりの問題があるという事なのだろう。 「エレが次は大揚に向かうそうだから、それに便乗させてもらう予定だ。入れ替わりでジュリアと奉も戻って来るだろう」 「今度こそ、見つかればいいけどね……半蔵」 この半年で、もう何度目の追跡行になるだろうか。 半蔵の神獣は数ヶ月前に回収されていたし、いかに半蔵が変装の達人とはいえ、煤煙に覆われたキングアーツの都市部は神揚人には厳しい環境だ。 過ごすなら、機械の余り導入されていない開拓村を点々としているはず……それが、奉達の立てた半蔵の経路予想だった。 「きっと大丈夫だよ。……お茶でも飲むかい?」 呟くソフィアに差し出されたのは、セタが用意していたティーカップだ。 「うん。……あ、昌! 沙灯ー!」 「……ソフィア」 呼び止められた昌は、不機嫌な様子を隠そうともしていない。 「どうしたんだい? 随分ご機嫌斜めのようだけど」 「あはは……。ちょっと、万里とアレク様が来てまして……」 「あー。負けたんだー?」 この半年で何度目になるだろうか。昌は事あるごとにアレクに剣の勝負を挑み、その度に負けを重ねているのだ。 「うるさいククロ! 負けてなんかない!」 他のもっと得意な事で挑めば勝つ事も難しくはないだろうが……それはプライドが許さないのか、昌は頑なに剣の勝負に拘っている。 「はいはい。お菓子もあるけど、どうだい?」 「もう! 今日はやけ食いする!」 差し出された菓子に、昌は不機嫌さを隠さないまま手を伸ばしてみせるのだった。 細い裏通りを右ではなく左に抜け、そのまま走れば……。 「む……謀ったでござるな!」 先にいたのは、黒い装いをまとう、狐の性質を持つ青年だった。 「謀られる方が悪い」 半蔵に思念通信が筒抜けなのは、奉もジュリアも承知の上。だからこそ、あえて思念では間違った誘導を行ない、本来の誘導は小型の無線機でこっそりと行なっていたのだ。 「もう……帰ろうよ、半蔵」 かつての半蔵なら、そんな姑息な手に引っかかりはしなかっただろう。 そんな下策に乗ったのは、この半年で忍びの勘が鈍ったからか、あるいは……。 「そうはいかぬでござる」 けれどジュリアの言葉にも、半蔵は小さく首を振る。 「アディシャヤ殿も責任を取った今、拙者も何らかの責を負うべきでござろう」 半年前の戦いの果て、シャトワールは時の彼方に消えた。シャトワールがそうして自らの処罰を下したのであれば、半蔵も何らかの形で罪を背負うべきだろう。 「それが、終わると言ったら?」 「終わる……? それは、どういう……」 ネクロポリスの転移門は既にない。シャトワールを彼の地へと戻したクロノスも、開発者のロッセなくして修復する事は難しいはずだ。 何よりシャトワールがこちらに戻れば、沙灯と瑠璃はこの世界にいられなくなってしまうはず。 「私たちと来たら、教えてあげる」 呟き、ジュリアは手を伸ばす。 「……だから、帰ろう? ね?」 |