16.Girls in Pocket! それにタロが気付いたのは、何の気なしに計器を覗き込んだ時だった。 「…………あれ?」 一度飛ばして進路を定めてしまえば、実のところタロにはほとんどする事がない。ホエキンはほぼ自動で飛び続けるし、空に……しかも薄紫の滅びの原野で障害物がある事などごく希だ。 前さえそれなりに見ていれば雷雲や嵐に突っ込む事もないし、それでさえホエキンは自らの意思で回避しようとしてくれる。 だが、今日ばかりはそんなのんきな空の旅にもならない……かもしれない。 「どうしたでござるか、タロ殿」 「うん。後ろから何か飛んでくるものがいるみたいなんだけど……何だろう?」 半蔵と千茅が覗き込めば、周囲の障害を感知し表示するための盤面には、後ろから飛んでくる小さな影が映っていた。 その速度はホエキンと比べても、はるかに早い。 「ホエールジャックですか?」 「ホエールジャックがこんな所まで飛んでくるはずないんだけどなぁ……」 現状、神揚とキングアーツの間には正式な国交は成り立っていない。そのため、戦争序盤から脅威と目されていた航空戦力は、今でも必要以上にキングアーツ側からは警戒されていた。 和平条約が結ばれればその辺りは緩和されると聞いていたが、今のところ八達嶺以北に航路を取れるのは特別に許可されたホエキン一隻のみ。 ホエールジャック級の船は、イズミルにさえ入る事が出来ない……はずなのだが。 「それにこの大きさだと、神獣かアームコート……」 飛行する点は五つ。既に先ほどよりも随分と距離を縮めている。 明らかに飛行鯨の出せる速度ではない。 「またリーさんとウィンズさんが訓練してるんじゃないんですか? あとは雷帝とか、ミカミさんの新しい騎体とか」 八達嶺でも、飛行型神獣の配備数はそれほど多くない。だが、今日の点はそれよりも多い。 「なのかなぁ……? あの人達なら、こっちに通信してきそうなものだけど……」 挙がった候補はいずれもホイポイ酒家の上客で、タロとも馴染みの仲だ。こういった航行中に訓練に出くわし、声を掛け合った事は何度もあるが……。 制御盤の脇に設えられた通信機は、沈黙を守ったままだ。 もちろんこちらから呼びかけても返答はないし、受信周波数を全域に合わせても会話の断片さえも伝わってこない。 「だったら、まさか……」 千茅の頭に浮かぶのは、先日現れたという謎の敵の話。 定期航路で、いまだ周辺での目撃事例はないと言われていたから、安全だと思っていたが……。 「ふむ……。クマノミドー殿。念のため、後ろで待機しておいてはいただけぬか?」 「分かりました。オーク、出した方がいいですよね」 小さく頷く半蔵に、千茅は奥の間から繋がる貨物室へと消えていった。 「まあ、何かあったら奥の手くらいあるんだけどさ」 「左様でござるか。頼もしいでござるな」 それは、貨物室の改装と同時に施された、ホエキンの奥の手の一つ。けっして多用できる物ではないが、迫る翼の巨人達からも、イズミルくらいまでなら逃げ切れるだろう。 「では、それを使う前に……」 自慢げに微笑むタロの首筋に当たるのは、ひやりとした感触だ。 「……降伏しては、いただけぬか?」 それを、タロはよく知っていた。 いつもは食材を捌く時に使われる物と同じ、研ぎ澄まされた感触だ。寝る前には砥石で磨き、仕上がり具合を確かめる時にはいつも指先で触っている、鋼の……。 濡らした布巾の上にフライパンを乗せれば、辺りにはじゅ、という音が一瞬響く。 「こうやって、粗熱を取ってから……こう」 「………ふむ」 その中にひとすくいのタネを流し込み、再び火にかざしながら手早くタネを広げていく。ちゃんと濾されたタネは途中で淀む事もなく、いつしかフライパンを覆うほどの大きさまで広がっていった。 「どうやってたの? ヴァルは」 「最初はそうやったのだが、濡れ布巾のせいでビシャビシャになってしまってな。二度目からはやらなかったのだ」 一度目はそのおかげで、コンロの火まで消えてしまったのだ。おかげで濡れた火口ではまともに火が付かず、再戦するまでにかなりの時間をロスしてしまった。 「……絞ろう。布巾」 脇にあった料理本にもざっと目を通したが、確かに濡れ布巾を『絞れ』とはひと言も書いていない。果たして料理本を書いた方とヴァルキュリアのどちらが悪いのか一瞬考えたジュリアだったが……大した結論は出そうになかったので、それ以上は考えない事にした。 「あら。良い匂いがするから、何かと思ったら」 「あ、プレセア」 思わずその場に隠れようとしたヴァルキュリアだが、その襟首はジュリアにしっかりと掴まれている。 「ジュリアちゃんと……ヴァルちゃん?」 珍しい組み合わせだ。しかもそれが戦場や練兵場ならまだしも、調理場である。 そもそもヴァルキュリアと調理場という組み合わせの時点で、プレセアの想定外と言っても良い。 「な……何か問題があるか」 「いえ。ヴァルちゃんの匂いもしていたから、まさかとは思ったけれど……」 「私の匂いって、どんな鼻をしているんだ」 思わず腕に鼻を寄せてしまうが、焦げと卵の匂いがするだけだ。そもそも全身義体の彼女にとって、生身の身体の臭いがする場所などごくわずかしかないはずなのに……。 「車椅子に、嗅覚センサーを付けてもらいましたの」 さらりと答えるプレセアの後ろから姿を見せたのは、ククロだった。 「試作品だけどね」 神揚とキングアーツの技術を組み合わせた研究成果の一つだ。作ってはみたものの具体的なテスト事例が見つからずに困っていた所で、プレセアが乗ってきたのである。 「なんでお前までいるんだ、ククロ」 ジュリアはソフィアの護衛で分かるが、ククロはそういった立場にはないはずだ。そもそもククロは、イズミルに籠もって研究や作業に明け暮れているはずではなかったのか。 「俺、まだメガリ所属だよ? ずっとあっちにいるから、こっちの仕事がたまっちゃっててさー」 名目的には、相変わらずの修理部隊の長なのである。 ただこの半年、戦闘らしい戦闘もなく過ごしていたため、実質こちらは開店休業だったのだが……先日の戦闘でいくらかの確認が必要になったため、書類仕事で戻ってきていたのだ。 「ちょっと。それってまさか、私の匂いとかも……?」 「ふふっ。悪い匂いではないから、安心なさいな」 「うぅ……。それなら……ううん。それでも良くないよぅ」 ジュリアも身体の大半が義体とはいえ、生身の部分はヴァルキュリアよりも多い。そもそも義体でも生身でも、気になるものは気になるのだ。 「……とりあえずそれ、男の人に付けるのは禁止ね!」 「だそうですわよ」 「追跡や調査には便利だと思うんだけどなぁ……?」 くすくすと笑いながら掛けられた言葉にも、ククロは首をひねるばかり。 「もう。デリカシーないんだから! 最低!」 ぷぅっと頬を膨らませているジュリアの様子に微笑みながら、プレセアが目を向けるのはもう一人の料理人へだ。 「けど、そう……。ヴァルちゃんがねぇ」 「だ、だから何だその目は!」 その目は、先ほどジュリアが彼女に向けていたものと全く同質のもの。敵意というほどではないが、どことなく嫌な感覚を覚えさせる視線である。 「別に何でもありませんわ。ね?」 「ねー」 どうやらジュリアとプレセアが結託しているのは間違いないらしい。けれど、偶発的な遭遇であるはずのこの状況で、いつどのタイミングで結託し、ここまでの連携を見せているのかはヴァルキュリアには全く理解が出来なかった。 「ねえねえ。これ食べて良いの? お腹空いたんだけど」 「練習のだけどいい?」 「お腹に入れば一緒だから!」 だが、ジュリア達の振る舞いは理解出来なくても、ククロが失礼な事を言った事だけは理解出来た。 「……向こうの失敗作なら食べて良いぞ」 そう言って指差したのは、ジュリアとヴァルキュリアが練習で作っていたものではなく、その前にヴァルキュリアが作って軒並み失敗した物体の山である。 「え。これ焦げてる……」 そもそもクレープと言いがたい物体だ。 正直、食べて大丈夫なモノかすらも分からない。 「腹に入れば一緒なのだろう? 不満なら味覚遮断でもなんでもして押し込むがいい。……押し込んでやろうか?」 「い、いいよ。自分で食べるってば」 しっかりと敵意の籠もったヴァルキュリアの視線を受け、ククロはその山を渋々片付け始める。 |