23.万里 八達嶺の長い廊下を千茅の案内通りに右に曲がれば、その先に待ち構えていたのは先ほどと同じ神揚の兵達だった。 「キリがないな……」 敵の深部に近いという事なのだろう。千茅と二人なら、兵の十や二十に後れを取る事はないだろうが……今は戦っている時間すら惜しい。 そんな彼等の眼前に転がったのは、ぱちぱちと音を立てる白い玉。 「な、何ですか……っ!?」 千茅が言い終わるより早くそれはぼんと大きく爆ぜて、辺り一面を白く濃い霧で覆い尽くす。 「アレク殿! 千茅殿!」 白く覆われた世界の中、鋭く呼ぶ声に従い、混乱する兵達の中を駆け抜ければ……。 そこにいたのは、二人も見慣れた少女の姿。 金の瞳を備えた、鳶色の髪の娘であった。 「沙灯……」 「無事でござったか!」 千茅はそう呼びそうになるが、続いた言葉は昨日会った少女ではなく、いつもの半蔵のものである。 「半蔵……という事は、キングアーツから誰か来ているのか」 半蔵はメガリ・エクリシアに万里の使者として赴いたと聞いていた。ソフィア達を相手に和平交渉が決裂するとは思えなかったから、半蔵がこの場にいるならその先導役以外にない。 「は。ソフィア殿と、ソフィア隊の皆様が」 「…………無茶をする。あれは今は指揮官代理ではないのか?」 「……仰る通り」 ソフィアの性格ならばありえない事ではなかったが、いくら何でも軽率すぎる。いかにカセドリコス王家が常に先頭に立つ事を是とするとはいえ……まさか本当に救出部隊に加わっているとは。 「それより、万里様は? 先ほど部屋に行った時には、既にもぬけの殻でござったが……」 「ミズキさんが助けに行ったはずだけど、ミズキさんもいなかったの?」 「……なら、やはりニキの所だろうな」 今走っている廊下も、ニキがいると千茅が踏んだ屋上の指揮所に続いている。遠く離れた場所に捕らわれた万里がどんなルートを通って来るかは分からないが、最悪、そこで合流出来るはずだった。 「……アレク殿」 「ああ。……半蔵はソフィア達と連絡が取れるか? 私もこのまま万里のもとに向かう」 「屋上までもうすぐですから、ハットリさんも一緒に!」 指揮所になっている目的地まで、後はこの廊下を進むだけ。足止めの技が使える半蔵と一緒なら、一気に走り抜けられるだろう。 「ソフィア殿から通信機を預かっているでござるよ。ならば、この先はご一緒仕る!」 新手の兵が現れたのを確かめて、半蔵は鋭く印を結んでみせる。 「動け……誰か、動くのだ!」 揺れる剣の林の中。沈黙を破るように響くのは、ニキの辺りを促す叫び声。 けれどその叫びをかき消すかのように、静かに響く声があった。 「ニキ将軍」 珀亜ではない。 ただ、そのひと声で、十重二十重に並んでいた剣の林が整然と左右に別たれていく。 その中央に立つのは……一人の少女と、それに従う兎の性質を備えた娘。 「万里…………姫様」 神揚帝家第一王女にして、八達嶺の本来の主。 そして監禁されていた寝所を逃げ出した、ニキの切り札の一つ。 彼女達もまたアレクの予想通り、城内をこの場に向けて動いていたのだ。 「誰か捕らえよ! お前達!」 叫び散らすニキの声に、動くものは誰もない。珀亜の言葉に圧され、万里の視線に制されて……誰一人として、その一歩を踏み出せずにいる。 「クズキリさん。大丈夫?」 「昌殿……」 ここまで万里を導いてきたのだろう。傍らに立つ娘を珀亜は何か言いたそうに見上げるが……昌はにこりと微笑んで、小さく頷いてみせるだけだ。 その意味をぼんやりと解し、珀亜は再び視線を自らの本当の主へと戻す。 「指揮権を、お返し戴けますか?」 「なん……ですと」 「……貴方に指揮を任せれば、私達が何を考え、何のためにキングアーツと同盟を結ぼうとしているかを理解戴けるかとも思ったのですが」 それは、かつての眠れぬ夜に、万里が珀亜に語った言葉であった。 立場が変われば、見える事もあるだろうと。 神揚帝国の十年先、百年先に、どうあるべきか。戦に力を尽くすか、手を取り合って栄えるかを考えれば、どちらが素晴らしいかを……。 それを解して欲しかったのだと、万里は口にしていたのだ。 「もっとあの夜、言葉を尽くして話し合うべきでした」 呟き、小さく頭を下げる。 「全ては、私の浅慮と、力のなさ。……申し訳ありません」 だが、その言葉にニキは刀の柄を握りしめ、その手を震わせたまま黙っているだけだ。 長い長い沈黙の後。 「……ならば、我らの掲げた矛を収めろと、そう仰るか」 「そうです」 押し殺すように漏れたその言葉を、万里はそっと肯定する。 「何故に! 貴方の部下も数多く死んだのですぞ!」 ニキの部下も、万里の部下も。それ以外の将の部下達も、目の前にいる珀亜の兄も。 神揚のために戦い、巨人との戦いでその志半ばに倒れていったのだ。 それを……その無念の想いを受け継ぐなと、そう命じるのか。 「だからこそです」 血を吐くようなニキの言葉を、万里はそれでも肯定した。 「珀亜の言う通りです。誰かが死に、それを悼んだ者が刃を取り、復讐のためにまた殺す。相手が心なき巨人だったならまだしも、同じ人であるならば、向こうでも同じ事が起きるでしょう」 そうなれば、連鎖は加速し、止まらない。双方で怨嗟の声が巻き起こり、やがては八達嶺とメガリ・エクリシアだけではない、その炎は双方の国土全てへと広がっていくだろう。 「……その輪は、どこかで断ち切らねばなりません」 今ならまだ、八達嶺とメガリだけで済むのだ。 「それを我々にしろと仰るか! 我らが同胞を失った怒りを、水に流せと!」 「そうです」 悔しくもある。 万里とて、戦い半ばに倒れた者達の無念を、遺された者の怒りを理解出来ないわけではない。 「我々がせねば、この輪はもっと広がるでしょう」 ……だが、それでもやらなければならないのだ。 「……誰か、刀を」 「はっ」 小さく声を掛ければ、珀亜は小走りに歩み寄り……傍らの兵から預かった鋼の刃を、鞘ごとそっと差し出した。 それを静かに受け取って……。 「そしてそれを我慢出来ぬというならば、その怒り……全て私が受け止めましょう」 鞘を、払う。 「ちょっと! まだ万里は本調子じゃないんだよ!?」 「……それでも、すべき事だから」 八達嶺の主として。 神揚皇家の第三帝位継承者として。 ニキの上官として。 同じく戦友を失った、同胞として。 「……いざ、参られよ。ニキ・テンゲル将軍!」 だがその言葉に、狒々に似た顔をした男は動かない。 「ええい!」 故に。 「貴様が行かぬなら、儂が行く!」 刃を構えた万里に裂帛の気合を向けたのは、ニキの傍らにいた猪の牙を持つ将軍であった。 |