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5.千万裁姫日歩月歩 (せんばんさばきひぶげっぽ)

「万里、元気ー?」
「昌……」
 ひょこりと顔を見せた昌を迎えたのは、いまだ寝所から身を起こしただけの万里である。
「あ。鏡さんも来てたんですね」
 そして彼女の脇に腰を下ろしている、大柄な姿。
 万里もけっして小柄なわけではないが、彼と比べれば大人と子供ほどの違いがある。線の細い彼女の夜着姿ともなれば、なおさらだ。
「ああ。……こんな朝早くから何用だ?」
「タロさんの所で桃まん買ってきたんで……。万里、好きでしょ?」
「ありがとう。……でも、こんなに一日に何度も来て平気なの?」
 昨日も一度の滞在時間こそ長くはなかったが、数刻に一度は顔を見せていた気がする。
「今日はまだ初めてだよ。まあ、番の人には呆れられたけど」
「……珀亜の時だけ入ってきてたんじゃないんだ」
 昌がこっそり入ってきたのは門番が珀亜の時だけかと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。もっとも日にこれほど何度も顔を出すようでは、番が珀亜でも呆れただろうけれど。
「いいんだよ。昨日と同じ人だったからすぐ通してくれたし」
 少なくとも、珀亜以外の番人と顔馴染みになれたことは大きい。おかげで、たった一日でこちらに害がないことを理解してもらえたのだから。
 まさしく粘りの勝利と言えるだろう。
「それより鏡さんはどうしたんです? こんな朝早くから」
「……ニキにもう一度話が出来ないか聞いて頂いたのですが、断られたそうです」
「後はアレクの様子を伝えにな」
「そっか……。アレク様は?」
 当然ながら、仕事のないときは万里の寝所に入り浸っていた昌だ。アレクの様子も気になってはいたが、顔を出すまでは至っていない。
「壮健にしている。ニキも向こうの返事が来るまでは動きようがないし、世話は千茅がしているから平気だろう」
 少なくとも今の彼は、ニキ派にとっても有用な交渉材料だ。無駄に危害を加えてその価値を下げる必要もない。
(……動きが取れないのに、万里に会う気はないんだ)
 指揮権を手に入れた以上、むしろ今は万里に会いたくないというのが本音だろう。少なくともキングアーツ側の返答のある三日が過ぎるまでは、何を引き金に状況をひっくり返されるか分からないのだから。
「それと、おじさま。シャトワールは?」
 そして万里が気にしていたのは、キングアーツからのもう一人の客人の事だった。
 ニキの側に付いたと聞くが、そちらの側に付いてから万里は一度も言葉を交せていない。闇の中にあるその真意も、いまだ彼女の胸の内に小さな棘となって突き立ったままだ。
「ニキから許可を得て、アームコートと言ったか? 厩舎で自分とアレクの騎体を修復しておる。今晩には概ね処置も終わるらしいが……」
 その作業の合間は、さすがの鳴神も声を掛けることは出来なかった。少々慌ただしくはあるが、今日の作業が終わった後か明日の朝にでも話を聞ければ御の字という所だろう。
「そうですか……。二人とも、無事なのですね」
「あとは、ニキを何とかする……前に、万里が元気にならないと!」
「私は…………っ」
 元気だと証明しようと起き上がろうとする万里だが、身体に走った鈍い痛みに思わず顔をしかめさせる。
「ほらほら。テウメッサで無理だってしたんだから、今はしっかり休まないと」
 本来なら、テウメッサの人型に転じる機能は問題も多く、使う事を禁じられていた機能だった。それを無理して使ったのだ。彼女自身の高い回復力や出入りの治癒術士の術を加えたにしても、本来なら十日前後は安静にしておくべきだろう。
 それをほんの数日で治そうというのだから、今は少しの無理もさせられない。
「ですが、ニキはキングアーツに降伏勧告を出したのですよね。……半蔵は大丈夫でしょうか」
 アレクもシャトワールも心配だ。
 けれどそれよりも心配なのは、キングアーツに特使として出向いた部下のこと。何とか八達嶺からは発てたようだが、当然ながらその後の消息はわからないままだ。
 念話よりも遠くの相手に意思を伝える技を身に付けているはずだが、それでも八達嶺とメガリ・エクリシアでは距離がありすぎる。
「…………」
「どうした、昌」
「……ううん、何でもないよ。ちょっとぼーっとしてただけ」
 不思議そうに首を傾げる万里に、昌は取り繕うように元気な笑みを浮かべてみせた。
「彼奴は目端が利く。不利と悟った時点で退くだろう」
 半蔵の隠密としての技量は、鳴神の知る中でも上位に位置するだろう。仮にニキ達の妨害を受けるなり、キングアーツの攻撃を受けるなりして任務が失敗したとしても、必ずその報告に戻ってくるはずだ。
「そうそう。それに向こうにはソフィア様たちもいるんだし、きっと大丈夫だよ」
 ソフィアだけではない。沙灯の夢を通じて細かな事情を知る者達もいる。清浄の地で見せた彼女達の表情に嘘偽りがないのなら、きっと交渉は上手く行くだろう。
「半蔵は良いとして、万里はこれからどうするつもりだ。休養が必要なのは分かるが、いつまでも虜囚で甘んじておる気はないのだろう?」
 ニキとの直接交渉の場は拒まれた。だとしても、次策を練ることはまだ出来る。
「本国に使いを出せれば良いのですが、それでは明日には間に合いませんし……私たちで何とかするしかありませんね」
 本国までの使いは、タロの巨大鯨を使って空から向かったとしても、片道数日はかかる。仮に昨日の時点でタロが即座に出発していたとしても、明日のキングアーツの返答期限には間に合わなかっただろう。
 リーティ達の駆るそれ以外の飛行用神獣でも、ここから帝都までひと息に翔ぶことは不可能だし、それでもやはり三日では間に合わない。
「する事が思いつかないなら、今は休むのが一番だよ。桃まん食べて早く寝ちゃおう。鏡さんも食べるでしょ?」
「うむ。なら馳走になるか」
 持ってきた小箱からまだ湯気の立つ桃饅頭を取り出し、昌はにっこりと笑ってみせる。
 いずれにしても、動くのは明日だ。
 ならば、今日一日は出来る限りの回復に充てるしかない。


 神獣厩舎に続く長い廊下。
「あの……柚那さん」
 掛けられた声に足を止めたのは、白く長い髪を揺らす猫の性質を備えた娘であった。
 声の方を振り向けば、そこにいるのは彼女の見知った娘が一人。
「どうかした? 千茅ちゃん」
 声を掛けるが、千茅は俯いたまま、それ以上の言葉を放とうとしない。ただ顔を赤くして、もじもじとしているだけだ。
「何も言わなかったら、分かんないわよ……?」
 そっと手を伸ばして抱き寄せようとすれば、触れたその身はひくりと震え……けれど、柚那の腕を拒まなかった。
「千茅ちゃん?」
「あ、あの…………」
 いつもの、勢いに任せて無理矢理抱きしめる時とは違う。ゆっくりと触れるその手は、拒もうとすればいつでも拒めるものなのに、少女はそれも拒もうとはしない。
「……その…………」
 代わりに紡ぐのは、あのとその。
 それを何度も繰り返して。振り絞るように出てきたのは、蚊の鳴くほどの小さな声だ。
「…………昨日のお話、なんですけど」
「何?」
 言われた柚那は、その言葉の意味を思い出せずにいる。千茅もそれに気付いたのか、少し困ったような顔をして……。
「わ、わたしが、柚那さんのお布団に行ったら……厩舎のこと、教えてくれるって……」
 そういえば、そんな事も言った気がする。
「ああ。その気になった?」
「……わたし、みんなのために、このくらいしか……出来ないから……」
 奉やタロのような情報収集の手管も、昌のように万里のもとに押しかけ続ける力もない。幸か不幸かアレクの傍にはいられるが、それだけだ。
 鳴神や珀亜とは初日以来出会う機会が作れなかったし、恐らくこの先に待ち受ける戦いのために、千茅は何が出来るのか……。
 たまたま廊下を歩いていた柚那を見つけ、昨日の事を思い出したのだ。
「あらあら。可愛いこと言っちゃって。ホントに食べちゃおうかなー?」
「…………ひっ」
 抱き寄せられた手に、身を震わせる。
 いつもは優しく、甘い匂いのする柚那の手が、今日は不思議と恐ろしかった。
(うぅ、なんていうか、ごめんなさい……っ。お父さん、お母さん……っ!)
 硬くした肢体が抱きしめられ、唇を包むのは甘い呼気。
 息の掛かる距離まで近付いていることを理解して、固く目を閉じる。
 そして、熱を帯びた何かが千茅にさらに距離を詰め……。
「…………なんてね」
 言葉と共に鼻先を突いたのは、柚那の細い指だった。
「……ふぇ?」
「泣いてる子って趣味じゃないのよ。好き好き言ってくれる仔を鳴かせるのは楽しいけど」
 柚那にもその手の前科は山ほどあるが、少なくともどれも同意の上だ。征服する事も嫌いではない……むしろ大好きだが、泣きながら身を捧げられても後味が悪いだけで、けして気持ちよくはならないだろう。
「そ、そんなぁ……」
 これでも必死の覚悟だったのだ。それをあっさりと拒まれて、千茅の身体はその場にへなへなと崩れ落ちる。
 そんな身体をそっと抱きしめ、柚那が囁きかけたのは……。
「みんなの神獣は無事よ。手を回して、ちゃんと整備もさせてるから安心して」
「柚那さん…………ありがとうございます!」
(……ま、このくらいは役得があっても良いわよねぇ)
 首筋に抱きついてきた千茅を立たせてやりながら、柚那はその背中を優しく撫でてやるのだった。

続劇

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