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4.闇走朱鞘鷲沙夜 (やみばしりしゅざやしゅさや)

 灯火の術が壁に灯った白木の廊下を歩きながら、狒々に似た顔を持つ男は告げられた言葉に息を呑んだ。
「……先見の術?」
「ええ。あたしの家に伝わる秘儀の一つよ」
 ニキの傍ら、自信ありげな微笑みと共に豊かな胸を張るのは、ニキ側に所属を変えた柚那である。夕刻にその日の軍務の大半を片付け、ようやく挨拶出来ることになった彼に告げたのが……そのひと言であった。
「その術で、バスマルの隊に襲撃があると視えたと……?」
 キングアーツへの特使を命じた、ニキの腹心の一人である。二日後に控えたメガリ・エクリシアへの再訪時に、解答を告げるよりも早くキングアーツ側の襲撃があると、彼女の先見の術で視えたのだという。
「そういうこと。実際、連中が大人しくこちらの下に付くとは思えないしねー。……どう?」
「……優理殿からミカミ家にそのような術があるなど、聞いたこともないが」
 未来予知の術そのものは、神揚でも珍しい術ではない。ただ、その精度は流派によって大きく差があり、その精度に比例して一族の格が決まると言っても良いほどだ。
 確かに神術師の名家であるミカミ家なら、そのような秘術が使えたとしても何ら不思議ではないが……。
「ミカミ家の秘儀なんだから、そう簡単に話すわけないでしょ。……万里にだって話してないんだから」
「……殿下にもか」
 正直な所、怪しくはある。
 けれど、ミカミ家の格が神揚の神術師の中でも高位にある事は違いないし、皇家にすら秘された術を伝える旧い家系があるという噂も、帝都では当たり前のように流れていた。
「……なら、何故に我が輩に話した?」
「あたしは武人だから」
 戦いで相手を制するのが、武の道だ。剣を掲げ、神術を放ち、戦いによって眼前の敵を制す事こそ戦士としての本懐であろう。
「仲良しごっこよりも、力で教えてあげたいじゃない。あたしの姉さんも仕方なく一線を退いたけど、戦いの途中で後方に下がる事をすごく後悔してたもの」
 口角をわずかに歪ませた微笑みは、獲物をいたぶる野獣の如く。
 それはまさしく、戦士としてのそれであった。
「どうする? あたしに指揮を任せてくれれば、バスマル隊を無事に向こうの砦まで届けてみせるけど」
 柚那の問いに、ニキは白木の廊下をしばらく無言で進み……。
「……考えておこう」
 やがて呟いたのは、そんなひと言だ。
「だったら、あともう一つ」
「何だ」
「明日は城内の警戒を強めておいた方がいいかもよ。たぶん、ひと騒ぎあるわよ」
「……分かった。返答はその結果次第とさせてもらおう」
 それきり無言でニキはその先の角を曲がり、政務の間のほうへと消えていった。
「……ふむ。ま、最初はこんなもんでしょ」
 残された柚那は小さくそう呟いて、角を逆方向へと進んでいく。
 先にあるのは、神獣達の眠る厩舎である。
 だがいつもは形ばかりの門番が立つだけのその入口で、何やら揉めている者達がいた。
「どしたの? 千茅ちゃん」
「……ミカミさん。あの……」
 どうやら厩舎に入ろうとした所を止められたらしい。馬廻衆を抜けた柚那はともかく、千茅の所属はいまだナガシロ衆のまま。
 もちろん今のナガシロ衆は、ニキの指示によって厩舎への立ち入りを禁止されている。
「ごめん。ちょっとどいてくれない? ガイアースの様子、見に行きたいんだけど」
 けれど、何か言いたそうにこちらを見上げた千茅に対し、柚那はその脇をするりと抜けて歩いて行くだけだった。当然ながらニキ衆の所属となった柚那を、門番は咎めることはない。
「千茅ちゃんもこっちに来れば? 珀亜ちゃんもいるし、三人で仲良くやろうよ」
 だが、柚那のその言葉に千茅は少し驚いた様子を見せ……。
「…………わたしは、万里様の部下です」
 やがて小さく俯き、ぽつりとそう呟くだけだった。
「そっか。じゃ、がんばってね」
「ミカミさん!」
 門番に遮られた千茅の声に、もはや柚那が足を止めることはない。
「せめて、わたし達の神獣の様子だけでも、教えてくれませんか?」
 千茅としては、それだけが目的だったのだ。
 戦いを終え、追い立てられるように神獣厩舎を出された後は、自身の神獣の様子を見に行くことすら許されていなかった。大きな損傷を受けた覚えはないが、皆の機体は無事なのか、ちゃんと整備されているのか……それだけ分かれば十分だったのだ。
 そんな必死の千茅の声に……。
「後であたしのお布団に来たら、いくらでも教えてあげるよー?」
 柚那はそれだけ言い残し、厩舎の奥へと消えていくだけだ。


 夜も更ければ、城内の明かりはその明るさを一段階下げる箇所がほとんどだ。いかに神術の明かりとはいえ、数が多ければ術者にとっては負担になるし、殊に今の八達嶺では無駄に使える力はそれほど多くない。
 そんな暗がりの中、腰に差した刀の柄を音もなく掴むのは、細身の娘。
 腰を落とし、気を研ぎ澄ませ、狙うは気の練り上げと身体の構えが重なり合う一瞬だ。
 娘の眼前にあるのは、分厚い扉と、そこに落とされた頑丈な木製の閂である。強化の神術によって硬度を増したそれは、木材でありながら、神獣厩舎の床と同じく鋼に等しい強度を誇るもの。
 並大抵の斬撃ならば、容易く弾き返されてしまうだろう。
 故に本気。全力だ。
 まさしくその姿は、獲物を狙う俊敏な肉食獣が構えるかの如く。
 気の高まりと呼吸。全身の筋肉の駆動が重なり合った、その瞬間。
「破………」
「おーい」
 短くも鋭い呼気を放とうとしたその時、その向こうから響き渡るのは、どこか気の抜けた酔声だった。
「…………奉殿?」
 それは、彼女もよく知る声。
 いまは行動を制限されている、万里の馬廻衆の筆頭である。
「珀亜か。……すまん、開けてくれ」
 構えを解いた珀亜が扉に仕込まれた小窓から覗き見れば、確かにそこには墨染めの衣に身を包む、あの馬廻衆の姿があった。
 小さくため息を一つ吐き、珀亜は閂を開けてやる。
「見回りか? 夜遅くまで大変だな」
「…………任務ですゆえ。奉殿こそ、このような所で何を?」
 薄暗がりのそこは、八達嶺の裏口とでも言うべき場所だった。
 概ね人通りは少なく、知る者も少ない場所のため、常設の門番もいない。それ故に、兵達の表沙汰にも出来ない出入りでもよく使われる場所でもあった。
 平たく言えば、夜遊びである。
 もちろん頑丈な閂がかかっているから、通る時にはあらかじめ内通者を用意しておくのが定石なのだが……その内通者を用意出来ない不慮の事態でも、今回のように誰かを待っていれば、大抵の場合は何とかなってしまう。
「……万里達には内緒だぞ?」
 どうやら奉もそんな遊びの帰りらしい。
 珀亜は呆れたように小さく息を吐き、小さく承知と口にする。
 珀亜自身、かつて戦友や部下達と楽しく飲み歩き、この出入り口の世話になった事も一度や二度ではなかったからだ。
「すまんな。助かる」
 彼には珍しく、どこか危うい足取りで珀亜の脇をすり抜けて……。
「……何をしようとしていた」
 すれ違いざまに聞こえたのは、一部の酔いもない冷たい言葉。
「必要な事だと、判断したからです」
 その問いに、珀亜は動じる様子もなく、それきり無言で閂を引き下ろす。
 身の詰まった部材の落ちる音は、それ以上の会話を拒もうとするかの如く、重く固く響き渡る。
「……そうか。邪魔したな」
「奉殿もお早くお休みくださいませ。あまり遅くまで出歩いていると、牢にお連れせねばならなくなります」
 ただでさえ今の馬廻衆は微妙な立場にあるのだ。
 今日見つけたのが珀亜だったから良かったものの、これがニキの息の強くかかった者であれば、果たしてどうなっていた事か。
「今度から気を付ける。お役目、頑張ってな」
 既に先ほどの冷たい声はない。
 闇の中へと去って行く墨染めの衣を見送って……。
 珀亜は再び、腰の刀に手を掛けるのであった。


 店頭に灯る明かりを消せば、辺りを照らすのは琥珀色の空から降り注ぐ二つの月明かりだけとなる。
「ふぅ……。今日も終わりかぁ」
 最後の客を送り出し、タロは小さくあくびをひとつ。
 店の営業は終わっても、明日の仕込みがもう少しだけ残っている。
 だが、今のタロの心配は、そこではない所にあった。
「どうなるんだろうなぁ……これから」
 店の客達……それも軍関係の者が漏らすのは、ニキについての不満がほとんどだった。そしてそれを聞いた軍とは直接関係のない市井の者達も、口々に不安な言葉を口にし始めている。
 たった二日でこれである。
 果たして三日、四日とこの状況が続けば、八達嶺は一体どうなってしまうのか……。
「奉さん達には頑張って欲しいなぁ…………ん?」
 そんな事を呟きながら店の外の片付けをしていると、通りの向こうに見慣れた小柄な姿があった。
 栗色の髪に、細身の身体。
 特に動物の形質を備えているわけでもないその姿は、この八達嶺では逆に珍しくもあるもので……。
「おーい。半蔵さーん」
 けれどその半蔵らしき姿は、タロの声が聞こえないかのように、そのまま通りの向こうに歩いて行く。
「聞こえないのかな? 半蔵さんってばー」
 既に夜も更け、辺りには何の音もない。
 喧噪に包まれた昼間ならともかく、この静寂の中に響くタロの声が聞こえないはずはないのに……。
「……行っちゃった」
 だが、そこで気が付いた。
「あれ。そういえば半蔵さん、いまキングアーツの砦にいるはずじゃ……」
 確か半蔵は今、万里の使者としてメガリ・エクリシアに赴いているはず。彼自身が半蔵から聞いたわけではないが、珀亜に頼まれ、その旅路で使う弁当を用意した事もある。
 もし半蔵が無事に戻ってきたなら、義理堅い半蔵のこと、顔出しついでにその礼くらいは言いに来るはず。
 仮に万里の元に戻ることを優先したとしても、タロの声掛けをまるまる無視するような人物ではない。
「…………見間違いかなぁ?」
 通りの彼方に消えてしまった小さな背中に、タロは首を傾げる事しか出来ずにいる。

続劇

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