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2.裏斬無情妹剣 (うらぎりのむじょういもうとけん)

 琥珀色の空に浮かぶのは、神獣と呼ぶにはあまりにも巨大な物体である。はるか南方の海を泳ぐ海獣を元に作られたというそれは、数日後に控えた王都への定期便のため、その腹に荷物を積み込んでいる真っ最中だ。
「そうか。兄君がそのような事を……」
 そんな光景を眺めながら呟くのは、狒々に似た顔をした将の一人。
 この八達嶺にて少々はばかられる手段を使い、暫定的に戦力を掌握している男である。
「はい。何かあった時は、ニキ殿にお頼りするようにと」
「珀牙殿も良い武人であった。少々堅苦しい所はあったが、いずれにしてもあの撤退戦などで倒れて良い男ではなかった」
「あの戦の指揮は?」
「……撤退の指揮はロッセ殿だったな」
 だが、その撤退戦の原因となった戦闘でキングアーツ相手に大敗を喫したのは、確かに目の前の男だったはずだが……。どうやら男は、それを口にするつもりはないらしい。
「いずれにせよ、志半ばで倒れた事は残念としか言いようがない」
 それが彼の本心からの言葉なのか、それともただその場で合わせただけなのか。言葉尻から判断する事は、武一辺倒に生きてきた少女にとって容易い事ではない。
「確かに珀牙殿の件があるなら、和平など許す事は到底出来んだろうな。……よろしい。貴公にも我が軍の戦列に加わって頂こう」
(……我が軍か)
 心の中で呟いたのは、そんなひと言だ。
「どうした? ナガシロ衆では礼法の一つも教わらなんだか?」
「はっ」
 けれどそれを口にする事もなく……珀亜は小さく、頭を下げてみせるだけだった。


「そうか。万里は無事なのだな……良かった」
 畳敷きの広間に腰を下ろした青年の言葉に、男は静かに首を振るだけだ。
「それで、ここからが本題だが……和平は難しいか?」
 キングアーツには床に直接座る習慣はないと、以前別の捕虜から聞いていたが……青年の座り方はこの地に来てほんの数日にしては、随分と慣れたものだった。
 そんな青年は、男の問いに険しい表情を崩さないまま。
「難しいとは言っていない。ただ、メガリ・エクリシアは既に司令官代理が立てられているだろうからな。判断の権限が今の私にないというだけだ」
 現場の指揮権の事もあるし、本国の意向もある。おいそれと口約束をして守られなければ、キングアーツ側の立場を悪くしてしまうだけだろう。
「今の砦の司令官っていう事は、ソフィア様ですか?」
 そんなアレクの言葉に疑問を口にしたのは、二人の傍にちょこんと座っていた娘だった。
「あ、すみません! 余計な口出ししちゃって……」
 だが、思わず口にした言葉の意味に気付いたのか、娘は慌てて言葉を散らすように両手をぶんぶんと振ってみせる。
「構わん。……だが、どうして千茅がこんな所にいるのだ。お前は万里の麾下だと思っていたが……貴様までニキに鞍替えしたか?」
「いえ……その……鏡さん……」
 もちろん彼女としては、そんなつもりはない。万里に力を貸したいと思う気持ちも、この状況を彼女の側に好転させたいと思う気持ちも持ち合わせている。
 けれど……。
「……わたし、ニキ将軍達には使用人だと思われてるみたいで」
 確かに武人にしては覇気がないと言われるし、同期の珀亜に比べて武の腕前でも二歩も三歩も譲ると自覚もしている。
 影が薄いんですかねぇ……と寂しげに呟く少女に、男は思わず苦笑いを浮かべるしかない。
「……そういう輩が一番恐ろしいのだがな」
「はい?」
 そんな千茅だったから、ぼそりと呟いた鳴神の言葉の意味に首を傾げる事しか出来ずにいる。
「奴らに見る目がないだけという事だ、気にするな。……それより、指揮官代理なら誰が着くと思う」
「……まあ、ソフィアだろうな」
 外に候補は幾人か思い当たるが、いずれも前に出て権勢を振るいたいと思うタイプではない。王族会議が絡んでくれば、ほぼ間違いなくソフィアが司令官代理を任されるだろうし……彼女もそれを望むだろう。
「噂の妹姫か。……だとすれば、どう動くと思う?」
「今のあれは和平の事しか考えていないだろう。愚かで情に流されやすいが、そのぶんまっすぐな娘だ」
 魔物の正体を知らない頃は、キングアーツのために魔物を倒す事しか考えていなかった。それ故に魔物達の一大攻勢の中で万里に戦いを挑み、つまらない整備ミスで一度はその命を散らしてしまったのだから。
 けれど魔物の正体を知った今なら、共に歩く事を考えるだろう。
「後は、副官がどう動くかだろうな」
 ソフィアの補佐に誰が付いたかは分からないが、実務的な所からすれば補佐に着けるだろう人物は一人しかいない。
「……ジョーレッセさんですか?」
「ああ。私の考えを分かっている男だから、ソフィアにも協力してくれるだろう」
「でもジョーレッセさん、アレクさんに何かあったら……」
 あの夢の中で、環はアレクが死んだ後、少しずつおかしな挙動を取るようになっていった。その最たるものが和平会談で万里に振るった凶刃であり、最後の決戦でソフィアの命と沙灯の両手を奪ったハギア・ソピアーの滅びの光でもあったのだ。
「そうか。千茅は沙灯の巻き戻しに居合わせたのだったな」
「……ここで夢の話などしても仕方なかろう」
 呟くアレクに、鳴神はぴしゃりとそう言い放つ。
「貴様らは夢の話に振り回されすぎだ。夢は夢、現は現よ」
 全てが夢の通りに進んでいるわけではない。一時は確かに夢のままに事態は推移していたが、多くの者達の行動の果て、既に夢の流れは過去のものとなっている。
 今見るべきは過ぎてしまった夢などではなく、現実だ。
「それに、俺も別に八達嶺の指揮権を持っているわけではない」
 だが、八達嶺の目付役の役目を果たすためには、相手の本当の考えを知っておく必要がある。例えそれが、アレク個人の理想であってもだ。
「私に指揮権が戻れば、神揚との和平はすぐにでも進めよう。だが、今の状況で約束は出来ん」
「十分だ」
 今は、それでいい。
 あの夢の中で、アレクは既に戦火に散った。
 だが、今の彼はこうして敵陣ながらも生きている。
 生きてさえいるならば、この一歩が後の本当の和平への一歩となる可能性は……まだ十分に残っているのだから。


 閉ざされた襖に施されているのは、神揚では一般的な施錠の術式である。いつもならただ襖で閉じられるだけのそこに外側からの施錠が施されているのは、その奥に座する者を閉じ込めておく必要があるからだ。
「やっほ、クズキリさん」
 そんな閉ざされた間に姿を見せたのは、昌である。
「またいらしたのですか? ミズキ殿」
 今日だけでもう何度目だろうか。珀亜が昼前に番をしていた時にも顔を出していた気がする。
 その時には交替の兵も居合わせていたため、そのまま追い返されていたが……幸か不幸か、今の番は珀亜一人しかいない。
「うん。万里の所に行っていい?」
「ニキ殿からは止められているのですが……」
 奥の寝所に控える万里と彼女の身辺にいた馬廻衆やナガシロ衆とは、ニキの指示で面会は禁止されていた。今の彼女達の微妙な立場を考えれば、当たり前の事だろう。
「堅苦しいこと言わないでさぁ。私とクズキリさんの仲じゃない」
 とはいえ、珀亜もそこまで非情に徹しきれる物ではない。
 部屋の中からは時折嗚咽らしきものも聞こえてきていたし、彼女の力になりたいという昌の気持ちも良く分かる。
「……交代が来るまでには出て行って戴けるなら」
「やった! クズキリさん、大好き! お礼にこれあげるね」
 そう言って昌が差し出してきた小さな菓子を受け取って、教えられていた解錠の言葉を口にする。
 ニキとしても今の所は本気で万里を監禁する気はないのだろう。何度もかけ直しの出来る術だから、後で戻しておけば誰にも気付かれはしないはずだ。
「それにしても、ナガシロ衆も寂しくなっちゃったね……」
 かちり、という僅かな手応えに重なるのは、ため息交じりの昌の言葉。
「クズキリさんもいなくなっちゃったし、クマノミドーさんはアレク様の使用人扱いだし。馬廻衆だって、知ってる人はもう奉さんしか残ってない」
 その言葉に、珀亜の胸もちくりと痛む。
 けれど彼女……いや、彼にもまた成すべき事がある以上、感傷だけで動くわけにはいかないのだ。
「けど、今は残ってるみんなで何とかするしかないよね」
 大義のために小義を捨てる。それがけっして正しいとは思わないが、それでもなお、それが必要な事もあるのだと……彼は自らの死を通して理解していた。
 そしてまた、万里を支えるという大義の前には、少々の命令違反には目を瞑るという小義が必要な事も、だ。
「……交代まで、あまり時間もない。お早く」
「ありがと!」
 襖の隙間からするりと中へと滑り込む昌を見送り、珀亜は襖を何事もなかったかのように閉じてみせるのだった。

続劇

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