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15.涙羽根主税及不 (なみだばねちからおよばず)

「……何で、こんな事になっちゃったんだろう」
 手記を書いていた手を止め、昌が自室でそっと手に取ったのは、神揚の暦である。
 神揚では一般的な書式で書かれた、さして珍しくもない物だ。そしてそこには、朱書きで赤い丸がひとつ、記してあった。
 その日は……その日こそは、あの夢の中で万里がアレクから思いを伝えられる日だったのだ。
 その日まで、既に十日を切っていた。
 だが、今日からその日まで……今までは穏やかに微笑む万里を見ながら待ち遠しかったその日が……今は余りにも遠い。
「けど、何とかしなきゃ」
「……昌殿」
 部屋の外から掛けられた声に、昌は小さく応じて立ち上がる。
 同性なのだから勝手に入ってくれば良いと何度言っても、いまだ珀亜は昌の部屋に許可があるまで立ち入ろうとはしなかった。
 確か夢の中では、遠慮がちではありながらも入ってきていたはずだが……。
(そういえばクズキリさん、今みたいに剣の達人ってワケじゃなかったっけ……)
 礼儀正しく、穏やかで引っ込み思案な彼女は、むしろ神術を得意としていたはずだ。しかし今の彼女は剣一本を己の武器とし、日常での最低限の神術しか使おうとしない。
「……うん。出られるよ、クズキリさん」
 彼女達の中でもかなり早い段階であの夢を見たという千茅は、万里が死ぬより早く八達嶺軍へと加わった。鳴神がご意見番としてやってきたのも、夢の中よりいくらか早い。
 だが、珀亜はあの夢を見てはいないはず。
 それも世界の違いなのかな……などと思いながら、昌は部屋を後にするのだった。


 薄紫の風の中。
 長い九尾をその風に揺らすのは、万里の操る白狐である。
「万里様。ミズキ組、準備完了しました」
 千茅の報告に「苦労」のひと言を返し、万里はそれ以上は黙ったままだ。
「万里様……」
「……戦うと決まった以上、先頭に立つのは神揚の将の務めだから」
 それが望まぬ戦いでも、戦いたくない相手でも……八達嶺の主としては、そうも言ってはいられない。
 あの時。
 穏やかな森の中で、青年にもっと早く真実を告げていれば……この事態は防げたのだろうか。
 それとも、今はニキ達の元に囚われているあの青年に相談すべきだったのだろうか。
「敵陣には……」
 アレクも、ソフィアも……そして恐らくは、北八楼で彼等と行動を共にしていた多くの者達が将や兵として加わっているはずだった。
「けど、前線に立っていれば防げる事もあるかもしれないでしょう?」
 そうだ。
 後方で報告を聞くだけではない。前線で動くからこそ、切り開ける物もある。
 もう遅いかもしれない。手遅れかもしれないが……もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
「……はい! でしたら、そこまでは必ずお守りします!」
 千茅の言葉に静かに頷き、万里は戦場へと動き出す。


 薄紫の空を舞うのは、長い尾を持つ黒烏。
 それが空にあるとすれば、対となる地底の主も既に配置を終えているのだろう。
「……ロッセ。戦場はここか?」
 そこは、見渡す限りの薄紫の荒野。
 ただの兵や将なら、そんな感慨を抱くだけで済ませるだろう。
 けれどそこは、奉の記憶の中ではまだ十日以上先、二つの国が激突するはずの場所だった所だ。
「彼我の戦力と、作戦の都合から選んだだけです。何か問題が?」
 どこまで行っても荒野が広がる滅びの原野だ。似たような条件の場所なら、他にいくらでもある。
 それらの候補の中からわざわざこの地を選んだ理由は……そんな単純な理由ではないはずだ。
「……リーティから聞いた」
「そうですか」
 奉のそのひと言に、ロッセは全てを理解したようだった。
「そのクロノスは、完全なのか?」
 キングアーツとの小競り合いで、いくらかの動作試験は済ませたと聞いている。だが、本格的な戦闘参加はこれが初めてのはず。
「主機はまだ調整中です。もう少しだったのですがね」
「……そいつの主機とやらには何の仕掛けがある。ただの兵器ではないのだろう?」
 いかに試作型の神獣といえど、神獣そのものの調整にこれだけの期間を掛けるなどありえない。クロノスに仕込まれたその『何か』こそが、これだけの調整期間を必要とする理由だったはずだ。
「ある一族の秘儀を再現した物ですよ」
「……まさか、ヒサ家の」
 ロマ家も帝国武人ではそれなりの名門だが、神術師としてはさしたる実績を持たない。そんな彼が触れ合い、学ぶ機会のあった秘儀ともなれば……おそらくはそこしかないはずだ。
「あのような力、間違っていると思いませんか? 私は、あの捻れを正すために……」
 だが、ロッセがその答えを紡ぐ前に響き渡るのは、攻撃開始を示す神達獣の咆哮だった。
「……話は帰ってからにしましょう。貴方にも、ここですべき事があるのでしょう?」
 既に万里も動き出しているのだろう。
 彼女を護る事は、彼ら馬廻衆として……そして彼個人としても、最優先に位置される事だった。
「くそ……っ。帰ったら全て話してもらうからな! 畜生!」
 後詰めとして後方に残るロッセにそう言い残し、奉はラススヴィエートを自らの配置場所へ向けて走らせ始める。

続劇

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