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7.梢狒々郎穢土仁奇 (ちょうひひろうえんどにき)

 二つの月を柔らかく遮るのは、琥珀色の霧。
「……また無断で部隊を動かしたのですか?」
 もう何度目の報告だろう。
 同じ数……いや、それ以上のため息を、狐耳の姫君は静かについてみせる。
「戦闘行動ではありませぬ。あくまでも調査でござる!」
 呆れる万里に憎々しげな視線を向けるのは、狒々の顔をした将軍の一人。
「あの黒い巨人が近付いてきたため、撤退するしかなかったが……くそっ」
 敵の砦に近付き、黒い巨人から手痛い迎撃を受けたのだという。
 彼らが使うのは飛行型神獣ではなく通常の地上用神獣だが、機動力はこちらの方がはるかに上のはず。
 それが被害を受けるという事は、明らかに将軍達に戦う意思があったという事なのだが……。
「……被害は」
 周囲の空気は、黒い巨人に対する怒りがあるだけで、立ち向かった狒々顔の将を責める者は一人もいない。
 ここで万里が彼を問い詰めれば、彼らの怒りはむしろ万里へと向かってしまうだろう。
「我が輩の隊のゴブリンが一体やられた。ヤツ相手にしたならマシな損害とはいえ……くそっ」
「……その者には、十分な恩賞を」
 狒々の顔を持つ将軍の言う通り、黒い巨人を相手取ったなら軽微と言って良い程度の損害でしかない。しかしそれでも、犠牲者は出る。
「ニキ殿」
 だが、その空気の中で、あえて口を開いた者がいた。
「何でござるか。鳴神殿」
「神獣の機動力があれば、あの黒金の巨人どもから距離を置く事は容易いはず。……何故、被害が出る?」
 その問いに、評定の間のあちこちからざわめきが昇る。
 同時に鳴神に向けられるのは、堂々とした物言いに対するどこか冷たい視線の群れだ。
「戦ったからに決まっておろう!」
「戦う? はて、八達嶺の大方針は、面倒な巨人とは距離を置き、様子見に徹しろという物のはず」
「鳴神殿ともあろう武の御方が、兵に尻尾を巻いて逃げろと仰るか!」
 武士の嘘は、武略という。
 方針が戦わぬ事なら、それを守って陣を下げるのは逃げる事ではない……そう、鳴神は考えている。
「そうは言っておらん」
 おそらくは相手も分かっているのだ。
 分かっていてなお、万里を庇おうとする鳴神に牙を剥き、爪を立てようとしている。
「鳴神殿。……ニキも」
 そんな、お互いに平行線にしかならない会話を押し留めたのは、上座に座る万里だった。
「…………出過ぎた事を申した」
 対するニキは、ふんと小さく鼻を鳴らすだけ。
「いずれにしても、あの黒い巨人を何とかせねば、どうにもなりませんぞ」
「民の間にも不安が広がっておる。……姫様」
 そんな評定の間の様子を、久方ぶりに軍議に出席した昌は心配そうに見つめる事しか出来ずにいる。
(不安がらせてるのは、あんた達の暴走じゃない……)
 彼女が夢を見る前、万里を助けるために戦おうと思っていた頃も良い雰囲気ではなかったが、今の八達嶺はここまで状況が冷え込んでいるのか……と驚くばかりだ。
「姫様。やはりここは、全面攻勢を掛けるしかありませぬ」
「あの巨人から見つかった人間という輩から巨人の弱点を聞き出し、一気に攻め滅ぼすべきですぞ!」
 将達のその言葉に、万里は答えない。
「ご決断を!」
 決断をと口々に口にする将達の中、ただ一人それに異を唱えたのは、ずっと黙って報告を聞いていた、黒豹の脚を持つ青年である。
「今はまだ、時機ではありません。それに、巨人から見つかった人間への尋問を鳴神殿にお任せしたはず」
「うむ。……あの者はいまだ記憶の整理がついておらん。思い出すには、今しばらく時間がかかるであろう」
 だが、鳴神のその言葉も、今の場には火に油を注ぐ役目しか持ちはしない。
「もはやそのような者は必要ありませぬ!」
「左様! これ以上あれ一匹に良いようにされるのは、我慢ならん」
「ようやく灰色の巨人を倒したと思ったら、今度はあの黒い巨人が……」
 黒い巨人が現われる前、巨人達の中で一番強かったのは、巨人の群れに時折姿を見せる灰色の巨人だった。
 それは、万里や他の将達の働きで、何とか退ける事が出来たのだが……。そいつがいなくなった途端に、さらなる難敵が現われたのだ。
「何より、ただでさえあの巨人達のせいで開拓が遅れておるのだぞ! これ以上は……」
 口々に声を上げるそんな将達がひととき静まったのは、彼らの上座にある椅子の音が響いたからだ。
「ロッセ。もはや限界。……巨人達を、攻めます」
 神揚の姫として。
 この八達嶺の主として。
 シャトワールの存在もあるが……この場を抑えるには、もはやその選択肢しか存在しないだろう。
「なりません」
 だが、その万里の言葉ですら、ロッセはあっさりと両断した。
「姫様が出るとおっしゃっているのだぞ!」
 机を叩き声を荒げたのは、雄牛の角を持つ将だった。けれどロッセはその威と圧に一歩も怯むこともなく、逆に語気を強めてみせる。
「では諸将がたは、今の八達嶺の戦力であの巨人どもに勝てるとおっしゃるか! 黒金の巨人だけではない、赤い山羊や他の巨人達も多く控えているのですぞ!」
 先日の補充で、さらに多くの巨人達が戦列に加わったという報告もある。確かにこちらにも戦力の補充はあったが、それでも完全に優位に立ったとは思えない。
「その策を練るのが軍師の役目であろうが!」
「それに必要な情報も足らんというのです!」
 情報が足りていれば、献策とていくらでも出来る。
 しかし、敵の総戦力はおろか、主力の規模さえ定かではないのだ。必勝の策を立てろと言われても、組み立てるべき部品が足りなさすぎる今、そんな事は不可能だった。
「若造が!」
「ならば……ッ!」
 黒豹の脚を持つ青年の鋭い言葉に、辺りは声を失った。
 鋭く突き出された指先。
 揃ったそこに生まれていたのは、刃の如き鋭い爪である。
 隠し武器の一種として爪にそういった仕掛けを施すことは、神揚の武人であればさして珍しくもない事だ。しかし軍師たる青年がそんな仕込みをしていようとは……。
 この場にいる誰もが、知らなかったのだ。
「小官にこういった仕込みがある事も、諸将はご存じではなかったでしょう。……これより鋭い刃が、あの巨人の砦には隠されているやもしれんのです」
 静かに爪先の刃を戻すロッセの言葉に、将軍達はそれきり口をつぐんだまま。
 万里でさえ黙り……そのまま、椅子へと腰を落とす。
 本当は、分かっていたのだ。
 今の八達嶺の戦力では、巨人達には勝てない。本国の増援を待ち、今は防護を固めるのが最良の策だという事が。
「タロのホエキンによる定期巡航で、当座の食料や物資は何とかなっています。帝都や各地よりさらなる補充も来ると聞きます。各々方、今しばらくのご辛抱を」
 今のところ、市井の物資統制などは起こっていない。
 それが、せめてもの救いだろう。
 だが、それでいつまでこの場を抑えきれるのか……。
 昌も誰にも気付かれないよう、小さくため息を吐くだけだ。

「……そうですか。任されたお役目が、上手くいかないと」
 黒髪の少女の呟きに頷いてみせるのは、穏やかな言葉だ。
「はい。皆は、私が直接の原因ではないから仕方ないと言ってくれるのですが……」
 あの出会いからしばらくの時が過ぎた。
 穏やかな言葉は、黒髪の少女のぽつぽつと打ち明けた悩みの言葉を……誰よりも共感し、受け止めてくれていた。
「責任感の強い方なのですね、貴女は」
「そんな事はありません……。当たり前の事をしているだけです」
 そう。八達嶺の長として、神揚帝国の皇女として。
 そんな当たり前のことをしているだけなのに……。
「世の中には、そんな当たり前の事も出来ないくせに、人にだけは責任を求める輩も多いのですよ」
 目の前の穏やかな声は、それを褒めてくれた。
「そういった者達と比べれば、貴女は立派だ」
 そう言って、肩を抱いてくれた。
「……」
 小さな唇が、その名を紡ぐ。
 とくん、と胸打つ小さな鼓動。
 顔が熱い。頬が、耳が紅くなっているのが、自覚出来た。
 だから。
「…………」
 瞳を閉じて。
 抱き寄せられたその身を……そっと擦り寄せていく。
「…………少し、こうさせていただいても……いいですか?」
 消え入りそうな少女の願いを。
 穏やかな声は、優しく受け入れてくれるのだった。

 神獣厩舎の一角に組み上げられた、整備櫓。
 そこで作業の進捗を確かめていた黒豹の脚を持つ青年に掛けられたのは、黒装束の青年の声だった。
「調子はどうだ、ロッセ」
「まあまあですね。ようやく実動にこぎ着けましたよ」
 櫓の中央に置かれているのは、三つの犬の頭を持つ人型の神獣だ。
「巨人との小競り合いにも時々混じっていると聞くが……。このクロノス、本当にただの戦闘用なのか?」
「どういう意味ですか?」
「言った通りの意味だよ」
 奉のラススヴィエートも手の掛かる神獣ではあるが、さすがに搬入後ひと月近くを経て、いまだ実動試験中……というわけではない。
 他の神獣達と比べても、あまりにも整備に時間が掛かりすぎている。
「戦力不足の八達嶺で調整作業をさせるのは気に入りませんか?」
「それも気に入らんが……」
 そもそもここまで手の掛かる新型騎を入れるなら、ゴブリンがあと十騎は増やせただろう。整備の機材や予算もだが、何より人手は、ここでは常に不足気味なのだ。
「前に、主機がまだ使えないと言っていたな。このクロノス、本当は何をする神獣だ?」
 奉の問いに、ロッセは口をつぐんだまま。
 やがて、その口が開こうとした瞬間……。
「ロッセ! 北八楼に行ってきます! 奉ー」
 掛けられたのは、櫓のはるか下からの声。
「……分かった、俺もすぐに行く」
「小官に当たらないで下さいよ、奉」
 下へと続く階段を降りようとした奉に掛けられたのは、そんな言葉だ。
「……誰が当たってるって?」
「北八楼には、随分と素敵な殿方がいると聞きましたが?」
 ロッセの問いに、奉は口をつぐんだまま。
「それに、最近離れにも足繁く通っているようですね。姫様は」
「……シャトワールの所か」
 万里がシャトワールやアレクに会うようになって、既に半月の時が過ぎていた。以前は塞ぎがちだった彼女は最近少し元気になったようで、それ自体は好ましい事なのだが……。
 どちらも穏やかな雰囲気を持つ人物だ。万里の性格から、そちらの方が、ロッセや奉よりも悩みなどを打ち明けやすくあるのかもしれない。
「だがな……」
 けれど彼らの反応に、どこか作り物めいた物を感じてしまうのは……男としての偏見というものなのだろうか。
「男の嫉妬はみっともないですよ」
「……そういうんじゃない」
 そういったことではないのだ。
 その、はずなのだ。
 奉はロッセに小さく言い捨てて櫓を降りると、自らの神獣の下へと歩き出す。

続劇

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