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4.巨人砦北合戦 承一 (きょじんとりできたかっせん そのいち)

 眼前に広がるのは、見渡す限りの雲の原。
 通常の神獣では航行不可能なその高さを優雅に舞うのは、空前の大きさを持つ巨大神獣である。
「……ホントに、ちゃんと覚えてるのねぇ」
 そんな巨大神獣の中。客間として設えられた一角で、柚那は感嘆のため息を吐いた。
「軍規も覚えてるし、あたしが教える事なんて何もないなぁ……」
 本来ならば戦場に出る前に多くの教練や座学が必要な所を、優理を通した特例として軒並み免除された珀亜である。それ故に、足りていないだろう実務的な部分を少しでも補うべく、柚那が講師となってホエキンの中で教える事になったのだが……。
 どうやらその講義の一切は、必要ではないようだった。
「巨人の生態も、概ねは兄からの手紙で」
 もちろん、珀牙がそんな手紙を書いた事は残念ながら一度もない。
 今の珀亜が実務や座学部分を端から習得しているのは、一度目の生を終えるその瞬間まで、彼が最前線で戦う武人だったからにしか過ぎない。
 そんな、あまりに教え甲斐のない弟子の様子に、柚那は小さくあくびを一つして……。
「またおねーさんと、気持ちいいコトでもしよっか?」
 代わりに浮かべるのは、どこか蠱惑的な微笑みである。
「い、いや、それは結構……っ!」
 しゅるりと伸びてきた長い尻尾が珀亜の頬を優しく撫でて、肉感的な肢体も細身の身体にのしかかってくる。
「あー。また楽しそうな事してるなぁ。オイラも混ぜておくれよ」
「だからー。男はどっか行きなさいよー」
 不満げにそう言いながらも、柚那は慌てて珀亜から離れるような事はしない。逆に見せ付けるようにさえしながら、僅かに尖った八重歯で少年を可愛らしく威嚇してみせる。
「しょうがないなぁ……お昼ご飯できたけど、それもいらない?」
 そう言った彼が持っているのは、お玉と大きめの鉄鍋だ。その中からは、いちいち解説するまでもなく、良い匂いが溢れ出していた。
「あ、それは食べる」
 あっさりと珀亜を解放し、白猫の娘は食事のための卓へと向かう。
「八達嶺、楽しみだなぁ。オイラ、八達嶺の清浄の地に行ってみたいんだー」
 ようやく気まぐれな白猫の拘束から逃れられた珀亜は、小さくため息を吐きながら、タロの言葉に首を傾げてみせた。
「……北八楼なら、一般人の立ち入りはまだ禁止されているはずだが?」
 彼女の知っている時点から戦局が大きく動いていなければ、恐らく彼の地はいまだ神揚の支配下には置かれていないだろう。そして珀亜や柚那達が増援として向かう事からして、状況は膠着状態が続いている事は想像に難くない。
「そうなの!? あーあ。だったら、二人には頑張ってもらわないとなぁ」
 タロのその言葉を柚那は軽く聞き流し、珀亜は重々しく頷いてみせるのだった。

 暗い暗い闇の中。
 辺りに一切の明かりのない大地の底に響くのは、無数の振動である。
 はるかはるか底、大地の奥の底の底から響く音もある。
 けれどその大半は、彼のいるよりはるか上。地表から届く音がほとんどだ。
 闇の中。
 しかし普段から視覚を絶っている男にとっては、そこは普段の世界と何ら変わりのないものだった。
「いたぞ、小僧」
 口に出した声は思念となり、駆る神獣を介してはるか大地の上、天空を舞う少年へと至る。
「こっちも見つけたッス。だいたい爺ちゃんの言ってた通りッスけど、ちょっと進行が遅いかなぁ」
 先ほどから巨人達の足音が鈍り気味なのは、どうやらそれが原因らしい。
(ふむ。こちらを警戒しておるか……襲われることを気付いておったか?)
 この世界が男の見た夢の通りに進むとすれば、万里と黒金の騎士は荒野でその剣をまみえることになる。
 もし、それが分かっていてこちらを警戒していたとなれば……。
「爺ちゃん。聞こえてる? 爺ちゃーん!」
 そこで、男の思考は入ってきた意思に妨げられる。
 その事を考えるには、いくら何でも情報が少なすぎた。足りない情報から組み立てられた予想は危うく、得てして的外れなことが多い。
 思考をそのまま棚に上げ、男は少年の声と眼前の出来事へと意識を集中させる。
「おう。姫様達も出たようだな。……が、ちと少なくないか?」
 スピードが命の奇襲戦とはいえ、テウメッサに従う神獣は四、五体といったところか。
「人手不足なんだってば。オレ達も戦う?」
「儂らが参じた所で知れておるわ。それより、お主は周囲を警戒せい。……足音が増えたぞ」
 巨人の砦辺りに生まれた足音の群れが、一つ……二つ。
 一つはまっすぐ輸送部隊へ。けれどもう一つの一団は、全く違う方向……へと進んでいる。
(このままでは姫様達にぶつかるか……)
 それは、八達嶺を出発した万里達を先行で迎撃するような動きだ。もちろん動きを把握している以上、思い通りに迎撃させてやる気はないが……。
(…………おう?)
 そこで、男は気が付いた。
 もう一つ、地上に降り立った巨大な震源がある事に。
 他の神獣や巨人達よりもはるかに大きく、力強いそれは……。


 薄紫の大地を蹴立てて進むのは、九尾の白狐を先頭に、人に似たもの、獣の姿をしたもの、四つ足のものと様々だ。
「敵の護衛が?」
 上空から神獣を介して飛んできた念話を受けて、万里は九尾の白狐の中、僅かに眉をひそめてみせる。
「うん。敵の迎えらしい部隊が、もうすぐ来るんだってさ」
 こちらの動きを感知したにしては、いつもと比べて随分と早い。それだけの偵察技術を手に入れた……にしては、以前戦った時はそれほどの素早い対応はしてこなかった。
 それに今しがたリーティ経由の連絡で回避した迎撃部隊も、こちらを背後から追いかけてくる素振りもないままだ。
「どうする? 万里」
「……そうですね」
 どうしよう、とは聞けない。
 それをどうするかを決めるのは、彼女自身だ。
「ンだよ。ここまで来といて戦わねえとかねえだろ!」
 だが、一瞬の迷いを打ち砕いたのは組頭の放った力強い言葉。
 そのシンプルなひと言に、彼女が周囲の反対を押し切ってまでここに来た理由を思い出す。
「……美峰の言う通りですね。まずはひと当てしてみて、厳しいようなら下がりましょう」
「承知!」
 この補給を止められなければ、八達嶺はさらなる危機にさらされてしまうのだ。ならば、無理を押してでも戦うしかない。
 戦わないなら、そもそも出撃などしなければ良かったのだ。
「さっすが姫様。話が分からぁ!」
 力任せに地を駆ける、大猿に似た神獣の姿を頼もしく思いながら、万里は素早く担当を決めていく。
「半蔵と昌は敵部隊の撹乱を」
「承知」
「りょうかーい」
「美峰は千茅と一緒に、陽動を頼みます」
「暴れりゃいいんだな」
「あ、あの……わたし……!」
 美峰に少し遅れるように返ってきたのは、どこか不安げな少女の声。
 この最前線で居住区から志願してきた新兵だ。初歩的な訓練こそ受けているが、まだ神獣での戦い方にも慣れておらず、走らせる様もどこか危なさの残るもの。
「美峰と一緒にいれば大丈夫です。落ち着いて、訓練通りにやれば問題ありません」
「は……はいっ!」
 やがて、目標となる丘が見えてきた。
 身軽さを信条とする個体の多い神獣達にとって野戦はそれほど得意ではないが、それでもこの一戦を落とすわけにはいかないのだ。
「リーティ、ムツキと一緒に周囲を警戒しててね! マズそうなら教えて!」
「もう少し大丈夫! 爺ちゃんも変化があったらすぐ教えるって!」
 砦からこちらにまっすぐ向かってくる一団も、神獣に比べて足の遅い巨人達だ。合流までにはもう少し掛かるだろう。
 その足の速さの差が、今回の戦いの明暗を分けることになる。
「では、行きましょう!」
 万里の鋭い掛け声と共に。
 戦いは、始まった。


 眼前に広がるのは、薄紫の世界。黄金の翼を悠然と羽ばたかせて荒野に力強く降り立ったのは、巨大な竜であった。
 今は神揚の空を悠然と舞うホエキンほどではないが、通常の神獣と比べても桁外れに大きい。そして何よりホエキンと違うのは、その竜が純然たる戦闘用神獣だという事だ。
「……この辺りだと思ったが、違ったか」
 そんな巨竜の中。周囲にやはり竜の意匠を備えた神獣を従えてのんびりと頭を掻くのは、かつて神揚の皇帝と酒を酌み交わしていた、あの巨漢である。
「それとも、河岸を変えたが……まあ、夢だしな」
 それは、奇妙な夢であった。
 鳴神を含めた、この先の物語。万里と、その側仕えの少女……そして巨人を駆る異国の民の数奇な定めと、二つの国の全面戦争に至るまでの経緯。
 鷲翼を持つ神術師の娘の死とその術の解放で、夢は幕を閉じていたが……。
(ヒサの家が皇帝の直下にあるのは、あの神術の所為なのだろうな……)
 気にはなるが、それもナガシロ家の秘事に関わるものであれば、うかつに口を滑らせるわけにはいかなかった。
「……まあいい」
 とはいえ、差し向き今は夢の出来事でしかない。
 時刻がずれたか、場所がずれたか。皇家お抱えの予知の神術とて当たらぬも八卦というくらいだ。夢での予想に至っては、むしろそのまま当たる方が珍しいだろう。
「……久しいの。鳴神の」
 さてどうするか、と思った所に頭の中に響き渡るのは、唐突な声であった。
「誰だ……?」
 神獣を媒介とした思念通信だ。それ自体はさして驚くものでもない。
 けれど鳴神を呼び捨てにし、なおかつ『久しい』などと声を掛けてくる者など知れている。
「忘れたか小僧。儂の声を」
 一瞬調子を下げたその声に、背筋に冷たい物が走るのが分かった。
「…………教官殿」
「壮健であったか、鳴神殿」
 忘れはしない。
 忘れられる、はずもない。
 いや、正確には二度と思い出したくなかったのだが、どうしても忘れることが出来なかった……といった方が正しいか。
「はい。……ですが、教官殿は二十年ほど前に退役されたとお聞きしましたが?」
 そうだ。もうはるか昔に一線を退き、どこかで隠遁生活を送っていると聞いたではないか。
 そのはずがなぜ、こんな辺境の戦場にいるのか。
「……まあ、その事は良い。少々使いを頼みたいのだが、構わんな?」
「何でしょう」
 さらりと流されるが、そこに突っ込むことなど出来はしない。その上、自然と敬語など口にした事など……神揚皇帝にすら非公式の場では敬語を使わぬこの男が、である……それこそ何十年ぶりだろうか。
「大した事ではない。その辺に面倒な動きをしておる巨人どもがおってな。適当に潰すか、引き留めておいてくれ」
「万里達は?」
「姫様はもう少し北で戦っておる。芳しくはないが、そこに合流されても厄介な数だからな。……雷帝で暴れるのは得意であろう?」
 その思念に割り込んでくるのは、周囲に従っていた彼の部下達からだ。
「……ちょうどこちらも向こうを見つけたようです。その件、承知仕る」
 万里も今は八達嶺の総大将。
 彼女の手並みを見ると同時に……こちらはこちらで、出来る事をすれば良い。
(………何でまだ生きてるんだよあのクソ爺ィ)
 思念が切れたことを確かめて悪態を一つ吐き、思考を一気に切り替える。
 鬼教官にしごかれていた頃の小僧ではない。
 かつての王であり、今は一軍を預かる旗本のそれへとだ。
「我が鏡家に仕える猛者どもよ! まずはあそこの巨人どもで新たな敵の小手調べと行こうではないか! 八達嶺での初陣、無様を晒すでないぞ!」
 放たれた檄に喊声が木霊し……この一局でも、戦いの火ぶたは切って落とされるのであった。

続劇

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