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3.潮満玉、潮乾玉 (しおみつたま、しおひるたま)

 神揚帝都の空は、青い。
 はるか北の果て。薄紫の大気に覆われた滅びの原野では、呪われた外気の進入を防ぐ琥珀色の結界を張る必要があるが、さすがに滅びの原野からはるか離れたこの街では、その必要は見当たらない。
 そんな青空に浮かぶのは、神獣達よりもはるかに巨大な物体だった。
「なんと大きい…………」
 巫女装束の娘は上を見上げたまま、そう呟く事しか出来ずにいる。神獣も人と比べればかなり巨大なはずだが、それとは大きさの桁が違う。
「ホエキンってんだぁ。びっくりしたかい、姉ちゃん」
 後ろに誰か来ていたのは、気配で分かっていた。それに驚く事はなかったが……。
「ああ……。だが、これは何を元に作られたのだ?」
 神獣の創造は、神術によって生命の構造を組み替える事を始まりとする。いかに特異な形状、特異な性質を持っていようとも、その大元を辿れば、いつかはこの世界に存在する生物のいずれかに辿り着く。
 けれど頭上の巨大神獣は、珀亜の知るいかなる生物とも違う形状を持っていた。
 博学で書を紐解くのも好きだった『本当の彼女』であれば知っていたのかとも思うが……もはやそれは、『今の珀亜』にとっては知るよしもない。
「滴連のはるか沖には、クジラってぇばかでかい魚のお化けがいるんだ」
 王都から遙か西、帝国の最西端に位置する要塞都市だ。巨人の脅威のない彼の地では、西方の開拓を進めながら、そうした新しい生物の調査も行う余力があるのだろう。
「そうか……。貴殿も神揚に仕える者なのか?」
 神に仕える巫女装束をいまだまとう珀亜も武人に相応しい装いではないが、現われた少年は少女よりもさらに小さく、歳も幼く見える。
「や、オイラはタロ・ホイポイってんだ。武人じゃなくって、行商人だよぉ。軍の手伝いは副業」
 行商人とはいえ、これほど大きな神獣を扱うにはそれなりの経験や繋がりが必要なのだろうが……もともと武人としての生活しか知らない今の珀亜には、それがどういった物なのかは見当も付かない。
「それより、姉ちゃんの名前は?」
「珀……珀亜・クズキリと申す」
 一瞬その名を間違えそうになり、素知らぬ顔で訂正するが、タロがそれに気付いた様子はなかった。
「……なんか堅苦しいしゃべり方する姉ちゃんだなぁ」
「今回は荷物が多いので、ちょうど大揚に来ていた彼に協力を頼みました」
「優理……殿」
 そんな珀亜達のもとに現われたのは、ミカミ家の姉妹である。柚那はホエキンの巨体に驚いているようだったが、姉の優理はさして驚いている様子もない。
「積み込みは終わったかしら?」
「補充ぶんの神獣と部品類と……今は生活物資を積んでるところだよ。昼までには出航出来るかなぁ」
 そうなれば、山を越えての空の旅だ。ゆったりとした飛行速度でも、数日もあれば八達嶺まで辿り着けるはずだった。この規模の隊商が陸路を進むなら、この倍から三倍の時間はかかるだろう。
「珀亜さん。私が出来るのはここまでだけれど、後は……柚那に頼むと良いわ。柚那、色々と力になってあげなさい」
「かたじけない、優理殿」
「可愛い女の子なら、いくらでも力になってあげるからねー!」
 姉の言葉に妹は満面の笑みを浮かべると、頭を下げた珀亜にそっと両手を伸ばしてくる。
「ちょ、ちょっと………! お、おやめくだされ……っ!」
 もちろんそんな言葉くらいで柚那が手を止めたりはしない。細い体をきゅっと抱き寄せ、少し高めの背に比例するかのような豊かな胸元に珀亜の頭を押し付けてくる。
「女の子同士なんだからいいじゃない。スキンシップスキンシップ! うん、やわらかーい! ネコミミももふもふー!」
「虎! 虎です! 虎ですから!」
「子虎ちゃんかわいー」
 もう子供という年齢でもないのに……などとどうでもいいツッコミが浮かぶ珀亜だが、いつしかその抵抗は次第に弱くなっていき……。
「姉ちゃんいいなー。オイラも混ぜておくれよぉ」
「やぁよ。何で男なんか混ぜてやんなきゃいけないのよ」
 ぐったりと動かなくなった珀亜を抱きしめたまま、柚那はタロにべぇっと小さく舌を出してみせる。
「その気持ちは男としてよーく分かるけどさぁ!」
 まあ、見ているだけでも眼福な光景ではあるのだ。それ以上踏み込んで柚那の機嫌を損ねないようにして、タロは女の子二人の睦み合う……ように見える……光景を楽しむ事にする。
「……柚那。お願いだから、万里には手を出さないでね」
「分かってるわよぉ。とりあえず珀亜ちゃんで我慢する」
 そこで変な妥協をしないで欲しい……と珀亜は柚那の腕の中で思ったが、もはやそれを口に出す気力も残ってはいないのだった。

 八達嶺の白木の広間で万里から伝えられたのは、そんなひと言である。
「……奇襲をかける?」
 昌を連れて入って来るなり、それだ。
「うん。ムツキさんが、北の方から来る巨人の群れを見つけたのよねー」
 呟きながら、昌は机の上に広げた周囲の地図に、懐から取り出した飴を包みごと置いていく。赤い包紙のそれが、どうやら敵の部隊を示すコマの代わりらしい。
「で、見に行ったリーティが言うには、どうやら敵の補給部隊みたいでね……」
 巨人達の砦よりも北は、巨人達の警戒が厳しく、現在もほとんど調査が進んでいない。恐らくリーティが空から偵察に向かった経路も、その警戒線ギリギリを飛んでの行動だったはずだ。
「補給……。この間のぶんか」
「ええ。やっと灰色の巨人に手傷を負わせて、巻き返せるかと思っていたのだけれど……」
 先日の戦いは、久方ぶりの勝ち戦だった。
 だが、相手の補給がどの程度の規模かは分からないが……多くの犠牲を払って得た勝利を補給一つでなかった事にされてはかなわない。
 確かに、敵の防衛線に入る前にこの補給部隊を叩きたいという意味は分かる。
 だが……。
「……俺は神獣がないから出られんぞ。珀牙も、優理の後任だっていない。……せめて、こちらの戦力が整うまで待てないか?」
 戦力が足りないのは、こちらも同じ。
 いや、状況はそれ以上に悪いと言って良い。
「…………だけど」
 奉の言っていることはもちろん万里にも分かっていた。
 けれどここで補給を見逃しては、取り返しの付かない事になる可能性だってある。
 黙る万里と、喋らない奉。
「……ロッセさんは、どう思う?」
 故に口を開いたのは、昌だった。
 話を振られた黒豹の脚を持つ軍師も、考えをまとめるかのようにしばらく押し黙っていたが……。
「……行くしかないでしょう」
 やがて呟いたのは、そんなひと言だ。
「本来であれば小官もお伴したい所ですが、小官の神獣もこれと同じくいまだ神揚の空の上です」
「……これとは何だ、これとは」
 混ぜっ返す旧友に小さく笑い返しておいて、ロッセは表情を引き締める。
「ともあれ、ご無理なさいませんよう」
 補給部隊ならば移動速度はそれほど早くないだろう。力で勝る巨人に比べて神獣は速さと身軽さで勝る傾向にあるから、今すぐに出れば叩くことも不可能ではないはずだ。
「分かっています。今回は戦闘そのものよりも……敵の荷物を破壊すれば、それでこちらの勝ちですから」
 万里のその言葉で、方針は決まった。
 ならば後は、一刻も早く実行に移すだけだ。
「すぐ動ける隊は?」
「私の所と……」
 とはいえ、昌の隊はもともと偵察任務に特化した部隊で、直接の戦闘には心許ない面も多い。
「ウラベ組が教練中ですから、彼女たちを使いましょう。後は……半蔵」
「ここに」
 万里が静かに呟けば、性別不詳のその姿は彼女の後ろにいつの間にやら現れている。
「出られますか?」
「御意」
 短い言葉だけを残し、半蔵の姿は既に無い。この場にいる誰にも気取られぬほどの速さで姿を消し、神獣の厩舎へと向かっているのだろう。
「大丈夫なの? クマノミドーさん。いきなり奇襲作戦とか、泣いちゃわない?」
 先日挨拶された時には、良い子ではあったが少々覇気が足りないようにも見えた。そんな彼女をいきなり実戦どころか少数での奇襲作戦に加えるなど、乱暴に過ぎる気がしないでもない。
「……一刻を争います。千茅には悪いですが、これも慣れて貰うしかありませんね」
 そもそも寡兵で戦局を覆さねばならない時点で、下策なのは分かっていた。けれどそれでも、彼女達は、出来る以上の事をしていかなければならないのだ。


 八達嶺の周囲を囲む、琥珀色の霧。
 それはこの呪われた地の薄紫の空気を遮断し、八達嶺を前線基地として保つ、守護の壁とも呼べるものだ。
 その形無き壁に次々と飛び込んでいく神獣の群れを眺めているのは、白い着物をまとった白狐の青年である。
「…………不満ですか?」
 彼の傍らに立つのは、黒豹の足を持つ青年だ。
「不満というか、情けないな。我ながら」
 王族だけではなく、市街地から志願してきたばかりの新兵でさえ戦場に向かっているというのに……大の大人がこうして後方から成功を祈るだけというのは、不甲斐ないにも程があった。
「とはいえ、使える神獣は残っていないのですから。仕方ありませんよ」
 ロッセの言うことも確かなのだ。
 滅びの原野を覆う薄紫の大気は、人が生きることを許さない。彼らの使う神術での対処も出来なくは無いが、それもほんの一瞬のことで、自由に活動するなど論外である。
 それ故に、そこでは神揚の兵達でも主力となる歩兵騎兵の一切が使えず……頼れるのは、神獣とそれを駆る侍達だけとなる。
「この所、だいぶやられたからな……」
 しかしその神獣も、度重なる戦いでその大半が失われていた。神揚各地から援軍も届きつつはあるが、それもいまだ十分とは言いがたい。
「どうしても行きたいと言うなら……ヒメロパか、ビャクなら使えますが」
「……ビャクは珀牙にしか懐かんだろう」
 もし、八達嶺でも屈指の剣の使い手であった彼が未だ健在なら、少しはこの戦況も変わっていたかもしれない。けれど、その彼ももういない。
 夢の中ならいざ知らず、この世界に『もし』や『かも』は存在しないのだ。
「……ヒメロパで出よう」
「正気ですか? 言ってみただけですよ?」
 神獣の制御は、人の身体の延長に等しく、乗りこなすには相応の訓練が必要となる。四つ足の神獣であれば制御を違えても転ぶだけで済むが、飛行型の神獣であればそうはいかないのだ。
「……リーティだってやれるんだ。ここでイライラしてるだけよりは、いくらかマシさ」
 だが、ミズキ衆の空中偵察を司る少年は、鳥ではなく猫の性質しか持っていない。自らに言い聞かせるようにそう呟き、奉は神獣の眠る厩へと歩き出す。
 その奉の背中を、黒髪の青年は静かに見守っているだけだ。


続劇

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