薄紫の風の中。
ぶつかり合うのは、鋼の音。
剣と、刃と。
爪と、盾と。
その一合の結果も、先刻と同じ。
互いの動きに疲れの色は見えないが、どちらも同じように打開の一手を見いだせずにいる。
黒金の騎士が片手半を構えた。
九尾の白狐も白鞘を構える。
動きが停止したかに見えるその光景の中……周囲の景色は、薄紫に染まったまま。
比喩ではない。
実際にそうなのだ。
滅びの原野。
かつて起きた災いで薄紫の霧に汚染され、人の住み得ぬ地と化したその地を、いつしか誰もがそう呼ぶようになった。
そこを闊歩出来るのは、かつては大陸の覇者として君臨した人類などではなく……この場に居合わせる、異形の存在だけである。
やがて。
黒金の騎士は大盾を捨て、片手半を構えた。
片手ではない。
両手持ち。
片手剣の軽快性と、両手剣の破壊力。
その相反する特性の中間に位置するのが、騎士の携える片手半だ。
もはや対応速度が求められる様子見の動きではない。
全力の破壊力を叩き込む、必殺、の構え。
それに応じるかのように、九尾の白虎も白鞘を噛み構えたまま、さらに姿勢を低くする。
薄紫の風の中。ゆらりと浮かぶのは、幾つもの灯火だ。
相手の意を感じ、武器を操り、騎士の武技にさえ応じる賢き狐がさらに得ているのは……超常の力。
ぽう、ぽう、と灯火が灯るたび、金の瞳が鋭さを増す。
互いに無言で得物を構え、術と気を高め合い、最後の一合をぶつけ合おうとしたその時。
薄紫の大空に響き渡るのは、巨大な翼を広げた化鳥の金切り声だった。
○
それから、わずかな時が過ぎた。
薄紫の空に大きく広がるのは、獲物を提げた大鷲の翼。
だがそれは、本物の鷲ではない。鷲の胸部は女性の胸、鷲の頭は女性の頭という、半鳥半人の怪物だ。
そもそも滅びの原野の薄紫の空に本物の鷲が紛れ込めば、こんな深部まで辿り着く事もなく、その身を腐らせてしまうだろう。
「姫様! あんまり無茶、しないでください!」
優雅に空を舞う半鳥半人の怪物が、かぎ爪に提げた白い何かに向けたのは、意思の声。外の世界には聞こえぬ、けれど何かには届くその声は、年端もいかない少女のものだ。
「私が見つけたから良かったものの……。一人で巨人に奇襲してただなんて、ロッセさんに何て報告すればいいんですか!」
呆れたような、疲れたような……そんな調子で、大きなかぎ爪で吊り下げた九尾の白狐にぼやいてみせる。
無論それは、半鳥半人の獲物などではない。姫様という呼称からも分かるように、半鳥半人の怪物が敬うべき相手だ。
「ですが……あの鉄の城にさらに補充が来ては、こちらの苦戦は免れません」
そして、怪鳥に吊り下げられた九尾の白狐から返ってきたのも、どこか凜とした……怪鳥と同じ年の頃だろう少女の声だった。
「それは分かりますけど……」
言い分は分かる。
巨人。
滅びの原野の奥深く。未だ彼女達の到達し得ぬ領域から姿を見せた、鋼鉄に覆われた異形の敵。
偵察から即座に奇襲に切り替えた白狐の判断は……無謀でこそあったものの、けっして理解出来ないわけではない。
「とにかく、一度八達嶺に戻りましょう。このまま飛びますよ、姫様」
見下ろす薄紫の地平の彼方には、やがて小さな霧の塊が見えてきた。
そして、その合間に見えるのは……緑の木々だ。
滅びの原野に生える薄紫の怪植物群ではない。
彼女達の故郷と同じ、琥珀色にたゆたう霧に包まれた、神仙の森である。
「ええ。それと沙灯、今は……」
その光景を見て少し落ち着いたのだろう。どこか甘えるように呟く姫狐の声に、半鳥半人は小さくため息を吐き。
「……もぅ。心配ばっかりさせないでよ。万里」
それから、さらに一刻ほどの後。
戦いを終えた黒金の騎士が静かに立つのは、巨大な石造りの城塞の中であった。
回収された黒金の盾も、必殺の一撃を放とうとした黒金の片手半も、今は脇に設えられた架台に預けられ、騎士もひとときの休息を求めるかのようにその場に立っている。
重厚な面頬の奥にある視線の先。城塞の窓の向こうに見えるのは、薄灰に煙る空である。
先刻戦っていた薄紫の世界ではない。
蒸気と煤煙に覆われた、騎士達の住まうべき世界。
「遅かったなー!」
そんな騎士の足元から掛けられたのは、声だった。
青年、である。
軍服だろうか。黒地のすっきりと整った装いに、短めの銀の髪。元気良く振る手の様子と、いまだ幼さを残した表情が、まだ青年が少年をようやく抜け出たばかりの年齢である事を示していた。
だが。
青年は、決して小柄というわけではない。
相対する騎士が、大きすぎるのだ。
その身の丈は、青年のおよそ三倍以上。
その青年を前にして……九尾の白狐にすら一歩も引けを取らなかった黒金の騎士が、がくりと頭を垂れてみせた。
それだけではない。蒸気の漏れる、ぶしゅ、という音と共に、真紅のマントを外されていた巨大な背甲が大きく開く。
鈍色の蛹から羽化する華麗な蝶の如く。
その内から抜け出してきたのは、大きく流れる金の色。
黒い甲冑を彩る深い金とは対照的な、明るく輝く金の髪だ。
少女、である。
鋼色の手足に繋がれた幾つものケーブルを手慣れた様子で引き抜くと、その手を眼下の青年に大きく振り返してみせる。
「久しぶり! 環!」
黒金の騎士の肩を軽く踏み、身の丈の四倍近い高さをひょいと跳躍。空中でくるりと一回転し……危なげなく着地すれば、鋼色の膝頭から吐き出されるのは小さな排気の音である。
「……相変わらずだな。階段くらい待てないのか? ソフィア」
頭を垂れ、主を失った黒金の騎士には、既に幾人もの作業兵が取り付き、それぞれの作業を始めていた。本来なら、彼らが使っている整備用のタラップこそが、この騎士の主たるソフィアの正しい通り道のはずなのだが……。
「だって、自分で降りた方が早いもの」
悪戯っぽく微笑み返し、ソフィアは自らの足を軽く叩いてみせる。
鋼色に覆われた、細い手と細い足。
それは、着用している鎧ではない。少女の手足の延長。サイズの差こそあれ、黒金の騎士のそれと同じ構造を持つものだ。
「前に見た時と違う。新調したの?」
「……もう何年前の話よ。あたしだって日々成長してるんですからね。手足だって取り替えるわよ」
ソフィアの言葉にそれはそうだと環は苦笑し、下げていたマントをそっとソフィアに掛けてやる。
そんな環の両手も、少女と同じ鋼色に覆われていた。
義体と呼ばれる機械の体を生身の体と交換する事は、彼女達の住む世界では……殊に戦に身を投じる軍部の人間ともなれば、さして珍しい事ではない。
現に、黒金の騎士の周囲で作業をしている兵達も、その手足の多くは鈍い鋼色に輝いている。
「アレクも待ってる、行くよ」
そんな振る舞いにも慣れているのだろう。鋼の手足を持つ少女は、うむ、と鷹揚に頷いてマントを掛けてもらうと、整備場の出口に向けて優雅に歩き始めるのだった。
琥珀色の霧を打ち。
ゆっくりと上空から舞い降りるのは、半鳥半人の怪鳥だ。
かぎ爪の拘束を緩めて先に九尾の白狐を地面に下ろし、やがて自らも開ききったかぎ爪で地上に優雅に降り立ってみせる。
「万里様! 沙灯!」
それを不機嫌そうな声で迎えるのは、緩く足元まで届くローブをまとった、長身の青年だ。
無論、長身とは言え怪鳥や白狐よりははるかに小さい。そんな矮小な人間などひと口で食い尽くしてしまいそうな二匹の怪物相手にも、青年は強めた語気を緩める気配はないようだった。
「……万里様。我らの事も少しはお考えください!」
青年をちらりと金の瞳で一瞥すると……白狐は青年の事など歯牙にも掛けぬ振る舞いでうずくまり、金の瞳を静かに閉じる。
そんな白狐の背中から静かに身を起こすのは、小柄な娘。
いまだ白狐の体組織に包まれたままだった細腕をそっと引き抜き、白狐との繋がりを解除した。体の一部が失われたような独特の感覚にほぅと小さく息を吐いて、頭上にひょこりと伸びた狐の耳と、お尻の大きな狐の尻尾を手櫛で軽くなでつける。
傍らの既に丸まった怪鳥の背中でも、万里と呼ばれた娘よりも小柄な娘……沙灯が軽く伸びをしている所。
やがて沙灯の背中に大きな鷲の翼が広がって、宙へと舞い上がった彼女はゆっくりとこちらへとやってくる。
「姫様!」
伸ばされた手に捕まって、万里も空へ。
そのまま白狐の背から、青年の待つ地上へと舞い降りる。
「あの巨人達の合流を許してしまいました。すみません、ロッセ」
ぺこりと頭を下げる万里に、ロッセは小さくため息を一つ。
「仕方有りません。姫様とテウメッサを失うよりはマシです」
青年はローブの裾から伸びた黒豹の脚で軽く地面を数度蹴り、諦めたようにもう一度ため息を吐く。
「ですが、先行はほどほどにしてくださいませ。姫様」
万里の行動の意味は分かっているのだ。
そしてそれが、彼らの為である事も。
故に補佐役であるロッセも、主たる万里の行いに強く言い切る事が出来ずにいる。
「……ロッセ。この地の奥には、あの古の巨人どもがさらにいるのでしょうか」
「調査に向かった者達も戻って参りません故、何とも」
少女達の国の伝説は伝える。
遙かな昔、世界を破滅の危機に追いやるほどの大いなる災いがあった事を。
そして、この薄紫の死の大地……滅びの原野を生むに至ったその災いの中で、鋼で作られた巨人達が死と破壊を縦横に振りまいていた事を。
恐らくはその鋼の巨人達の末裔こそが、いま彼女達の眼前に現われた巨人達なのだろう。
「ですが、我らが神揚のため、あの巨人どもは駆逐せねばなりません」
領土拡大……そして、滅びの原野の再生のために北上を続ける、彼女達の帝国のため。
「ええ」
そのために万里達は、この広い大陸の最南端から、この地までやってきたのだ。
この、滅びの原野のただ中へ。
「……ともあれ、今は少しお休みください。湯と寝所は用意させています。沙灯は姫様のお世話を」
「では、テウメッサとヒメロパは任せます。ロッセ」
一礼を返したロッセを見届け、万里は沙灯と共に奥の間へと下がっていくのだった。
続劇
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