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−Prologue−
 「全滅……だと……?」  泥沼の畔に立ち、騎士の男は茫然と呟く。  いや、そこは泥沼ではなかった。  ほんの少し前までは。  「馬鹿な……。我が軍の精鋭部隊百騎だぞ……」  泥沼へと一歩踏み出し、言葉を続ける男。使い込まれた軍靴に跳ねた泥が貼り付 き、黒革の軍靴を汚していく。  土色の黒い泥ではなく、鮮血で練られた、紅い泥が。  「それを……たった一人で……だと……」  無数の死体から流れ出た鮮血の泥沼。  その中央に立つのは、深紅の影。それが、ゆっくりと首を動かし……兜の奥の瞳 を、男の方へと向ける。  「鬼……鬼だ……」  ずいぶん遠くにいるはずなのに、男には深紅の影の動きが妙にはっきりと見え た。『影』の表面にこびり付いた返り血が、影のゆっくりとした動きによってボロ ボロと剥がれ落ち、深紅の中に隠された漆黒の甲冑が姿を顕わす所まで、はっきり と。  「お…に……」  もう、恐怖は感じない。ほんの数分の間に繰り広げられた想像を絶する光景とあ たりを漂う激しい血臭によって、そんな感覚はとっくにマヒしていた。  今では、鬼が自分に向かって振り上げている巨大な剣さえ、夢の中の光景のよう に見える。  だが。  「死ね」  鬼の放った一声が、男を一瞬にして現実へと引き戻した。  相手は鬼などではない。  ただの、『人間』なのだ。  「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」  正気を取り戻した男の瞳に映る、漆黒の刃。  自らの姿を映しだしたその刃は、解き放たれた絶叫すらも巻き込み……  男の存在の全てを打ち砕いた。  ぽつり……  (足りない……)  血の泥沼に一人立ち、男は静かに天を仰ぐ。  ぽつり……ぽつり……  深紅に染まった鎧に、水滴の染みが少しずつ増えていく。  (こんな……ものでは……)  ざぁぁぁぁぁぁぁ……  にわかに降りはじめた激しい雨が、辺りに乱雑に塗りたくられた赤を静かに洗い 落とし始めた。つい先ほど繰り広げられた惨劇の光景の面影は、それほど残ってい ない。  (俺は……)  男の鎧も全ての赤を洗い流され、もとの漆黒の色を取り戻しつつあった。  だが、男はそんな事に何の感慨も抱かず、ただそこに立ち尽くすのみ。  漆黒を取り戻した男の仮面にも、雨は容赦なく降りそそぐ。  (俺は………………)  男の仮面は、ただ静かに哭いているように見えた。



魔風
-Ma No KAZE-
(その1)



 「いっけぇぇっ!」
 気合と共に放たれる拳。気鎧の力で加速されたその拳は、狙い過たず一本角の角
が欠けているガーゴイルの腹部に叩き込まれた。
 ざぁぁぁぁっ!
 そのガーゴイルが砂と化して崩れ去って行くのを確認する暇もなく、反対側から
迫ってきた本日23匹目のガーゴイルの額に鋭い蹴打を叩き込む。
 ざざざぁっ!
 「ったく、キリがないわね……」
 24匹目のガーゴイルの爪を気鎧で軽やかに受け流しつつ、少女はぼやいた。
 「俺に愚痴るな、俺に……」
 少女の近くでバカでっかい大剣を振り回していた青年が少女の言葉に応じ、苦笑
を浮かべる。
 ガーゴイル自体はさして強いわけではない。ここのガーゴイルは普段の石製の物
ではなく、砂で構成されているのだ。多少力を込めた打撃を叩き込めば、簡単に打
ち砕くことが出来る。
 だが。
 いかんせん数が多かった。
 青年と少女だけでも、今日だけで既に60匹近くの砂の獣を砂へと還しているの
だ。もちろん戦っているのはこの二人だけではないから、全体では一体何匹のガー
ゴイルがいる事やら見当も付かない。
 「ちっきしょぉぉっ! キリがねえっ!」
 さすがに面倒になったのか、今度は青年の方がキレた。
 振り回していた大剣に乱雑に巻き付けておいたアミュレットを剣を持っている方
の手で器用につまむと、短音節の呪文をいくつか唱える。
 「焔呪……」
 少女の方にはその行為が何をするものなのか、分かったようだ。
 「ば、バカっ! ンなとこで使うんじゃないのっ!」
 慌ててその場にしゃがみこみ、布状の気鎧で自分の身を覆う少女。
 「炸焔陣っ!」
 そして。
 辺りは激しい爆発に包まれた。


 「ったく……。スタックのバカぁ……」
 砂まみれになった少女は、恨めしそうに青年の方を見遣った。夕方にガーゴイル
の群れを吹っ飛ばしてから、ずっとこの調子なのだ。ベースキャンプに戻ってから
も、当然機嫌は悪いまま。
 「いいだろ、別に。お陰でこの辺のガーゴイルは一掃できたんだから……。ユイ
カだって怪我してるわけじゃねえしよ?」
 悪びれた様子もなく、青年…スタックは答える。慣れているのか、少女の冷たい
視線などおかまいなしだ。
 「あーあ。砂漠じゃお風呂に入れないんだから、あーいう砂埃を思いっきり巻き
上げるような迷惑な技はあたしのいない所でやってほしいなぁ……」
 埃っぽい風に銀色の三つ編みをなびかせながら、ユイカは相変わらずぶちぶちと
呟いた。日焼けと日射病防止用のフードの下の表情はよく見えないが、きっと不機
嫌なものに違いない。
 「それにしても、ユイカがこういう仕事するのって珍しいわね。何か心境の変化
でもあったの?」
 先程の戦いの時にはいなかった銀髪の少女が、妙に険悪な場の空気を和ませよう
と全く別の話題を持ち掛ける。彼女は日射病が恐くないのか、フードなどの防暑装
備を全然身に付けていない。その割には日焼けしている気配が少しも見られなかっ
た。
 「別に。朱鳥も知ってるでしょ、もうお金がないって事くらい。ここって結構報
酬が良かったから…」
 そう。いくら好き勝手にあちこちを放浪しているユイカ達でも、それ相応の生活
費は必要になってくる。だから、時には傭兵の真似事もしなければならないのだ。
 今回の仕事は、砂漠に『昼のみ』大量発生するという、魔物の群れの退治。砂漠
を仕事場とする隊商や砂漠付近の街が一緒になって行なうという、かなり大規模な
討伐事業である。既に小さな集落が一つ滅ぼされたという事もあり、スポンサー側
もかなり本気になっていた。
 (けど、ユイカってこういう戦いだけの仕事って凄く嫌ってたような……)
 そこが少女…朱鳥には気になるのだ。お金ごときであの頑固者のユイカが自らの
信念を曲げるとは思えなかった。彼女のやろうとしている事が、さっぱり見えてこ
ない。
 「さて、と。そろそろ寝ましょうか。朱鳥、テントに行くわよ……」


 「そんなにまずい相手なのかい? その、クワイプとか言う輩は……」
 隣に寄り添っている女性の話を聞くなり、男はそう問い掛けた。一日どこかに姿
を消していたと思ったら、いきなり大事な一人娘が危機に陥っていると言いだす始
末。
 彼女のこういう所は昔からの事だから、驚きこそはしないが……こういう事はい
つまで経っても慣れない。
 「まあね。シュウマくらいなら一人でも特に心配はないんだけど、ユイカ一人だ
とちょっと……いくら朱鳥が護ってくれるにせよ」
 よく自分にそっくりだと言われるのだが、ユイカは自分の娘ながら見ていて相当
に危なっかしい娘に育っていた。流石に、育て方を間違えたかしら……とまでは思
わないが。
 「だから、スタック君を……か?」
 あの青年にも、そうとう迷惑を掛けているな……と、男は苦笑を浮かべる。いく
ら幼なじみで家族同様の付き合いとは言え、こうたびたび呼び付けては……。
 「まあ、当分はあの子にも力を貸してもらわないとね。今日も色々と知り合い筋
に連絡は取ってみたけれど……」
 「そうか……」
 今回の彼女はあくまでも裏方に撤する気らしい。ならば、彼女の好きにさせよう
と、男は思う。
 自分は彼女が困った時に、支えてやればいいだけだ。
 「今日はそれだけ。それじゃ、おやすみ。シュウガ」
 「ああ。お休み」


 「ユイカぁ。起きてる?」
 朱鳥は、くっついて眠っているユイカに向かって小さく声を掛けた。砂漠の夜は
極端に冷え込むから、くっついて眠っていても寒いくらいだ。
 「……起きてるけど、何?」
 寝入り端だったのだろう。ユイカは眠そうな声で、朱鳥の呼び掛けに応じる。
 「ユイカさ、スタック様が砂を巻き上げたから機嫌が悪い、ってワケじゃないで
しょ?」
 ユイカとは物心つく前からの付き合いだ。いくらお風呂に入れなくてイライラし
ているからといっても、ユイカはそんな事で機嫌の悪くなるような娘ではない。ス
タックが相手なら、せいぜい彼を2、3発叩いて、それで全てチャラにするハズだ。
 だからこそ、ユイカの変調が心配でしょうがない。
 「当ててみせましょっか?」
 そっと頬を寄せ、ユイカの耳元で呟く。
 「今日、スタック様が治癒呪文使ってたわよね……」
 たった一人で砂蟲と戦っていた傭兵の一人が傷を負ったのを、スタックが治癒し
ていたのだ。それを見て以来、ユイカはどうも機嫌が悪い。
 「もう……おやすみっ!」
 ユイカはぷいとあさっての方向を向くと、それ以来返事をしなくなった。


 「結構うまく動くものだねぇ。動かすのは何百年ぶりかのハズなのに……」
 男は、くすくすと笑みを浮かべつつ呟く。青い月の光の中、長く伸ばした髪の間
から見えるのは、静かな瞳と……額に掘られた、奇妙な刺青。
 男はその手に握られている小さな水晶製の物体に、視線を戻した。連結された二
つの小瓶の間を粒子の細かい砂が流れていく…そんな工芸品だ。
 さらさらさら………………
 一方の瓶から一方の瓶へと、全ての砂が流れ落ちた。
 「もう一回やってみようっと」
 男は水晶の瓶をひょいと引っ繰り返すと、ヴァートの流れをその瓶へと集中させ
る。
 さらさらさら………………
 ズズ……ズ……
 瓶の中の砂の流れに呼応したかのように、辺りの砂がゆっくりと動き始めた。ゆ
っくりだった砂の動きはだんだんとスピードを増し、そして……
 ひゅぅんっ!
 砂塵の鞭となり、夜の冷たい空気を鋭く切り裂く。
 「うんうん。なかなかいい感じじゃない。失敬してきて良かったな、これ……」
 男は機嫌良さそうにその砂塵の鞭を縦横に振るわせる。だがしばらくすると飽き
たのか、砂の鞭はさらさらと崩れ、もとの乾いた砂へとその姿を戻した。
 男は空に浮かぶ月を見上げ、誰に言うでもなくぽつりと呟く。
 「う〜ん。こうなると……」
 言葉の続きは夜の冷たい風にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
続劇
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