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狂気-insanity-
第4話



「マス……ター?」
 少女は、呆けたような口調で言葉を紡いだ。
「リンカ……」
 その少女に向かって、優しくねぎらいの言葉をかける青年。
「よく……やりました」
 少女の顔は青年の目の前にある。文字通り、もう少し近づければ唇を重ね合わせる
事も可能なほどに。
「……マス……ター……あ……あぅ……」
 青年の言葉の意味が分かっていないのだろうか。少女はうわごとのように、意味す
ら成さない言葉の欠片を吐き出すのみ。
 普段ならば、穏やかな瞳で青年を見つめ返すはずなのに。
「わ……わた…し……こ……わ……あぅ……」
 真っ赤な血液に染まった少女の右手が、もがくように宙を彷徨う。少女からはいつ
もの機械のごとき正確さが完全に失われており、その動きは年端の行かない少女本来
の姿を取り戻したかのように弱々しく、また儚げに見えた。
「リンカ……いいのですよ」
 がくがくと震える少女の小さな躯をそっと抱き寄せ、青年は優しく呟く。ずぶり…
…という有機的な異音と共に全身の力が失われていく中、強い意志を秘めた言葉と力
で少女をしっかりと抱きしめる。
 少女の柔らかさと温もりを、自らの体に刻み込むかのように。
「これは、私が望んだ事なのですから」
 青年の腕の中、少女は小さく顔を上げた。涙すら流れぬ硝子の瞳に映るのは、静か
な狂気の光と……
 自らの血に染まった、青年の穏やかな笑顔。
 心臓を貫かれているのだ。
 少女……リンカの、右腕に。
「あ……あぅ………ぅ……」
 だが、少女の心には、青年の言葉を理解するだけの余裕は残されていなかった。自
らの行った行為に対する怯えと激しい慟哭の果てに、少女の心は粉々に砕け散ってい
たのだから。
「ふふ……。今頃になってこんな気持ちが分かるとは……ね」
 怯える少女の恐怖を取り除くように、青年は少女の唇に自らの唇をゆっくりと重ね
合わせた。二人の体を寄せ合わせた分だけ少女の細い腕が青年の胸にめり込んで行く
が、青年はそれすらも既に気にもしていない。
「マス……ター?」
「リンカ……」
 青年が続いて放ったそれは、少女が望んでも望みえなかった言葉。彼に創り出され
てからの数十年、ずっと待ち焦がれていた言葉。
「マスター……。私も……です」
 壊れた心に響き渡るその言葉に、少女は幸せそうな笑みを浮かべる。
「やっと……笑ってくれました………ね。僕の……リン…」
 そして、青年……ミハイル・ウィニフレッドは静かに息を引き取った。


「アンドロイドの上で腹上死……ねぇ」
 白衣をまとった男が、報告書を読みながら苦笑を浮かべる。
「つーか、結局そのアンドロイドの暴走で殺されちまったんだろ? その博士も。何
だかなぁ……って感じだな」
 そのアンドロイドも、暴走して科学者を殺した時点で全ての機能が停止してしまっ
たようだ。科学者の心臓を貫いた拳の一撃はあまりにも正確で、科学者は痛みを感じ
る暇すらない即死状態であったろう……というような事も、報告書には書き加えてあ
った。
 乾ききったどす黒い血の海に静かに横たわっているアンドロイドと、その周りに散
乱する人間の白骨と機械片……目の前に広がる凄絶な光景を見れば、そんな報告書な
ど見なくても明らかではあったが。
「とりあえず、作業を始めるか……」
「……ですね」
 リーダーらしき男の指示に、辺りにいた数人の白衣の男達がてきぱきと仕事を始め
る。こんな陰惨な事件の起こった不気味な場所など、早く仕事を済ませて帰るに限る
……というわけだ。
 白衣の男達は、ある研究所に属する科学者だった。さる科学者の研究所跡に残され
た一体のアンドロイドの回収を、某国から依頼されたのである。
「こんな可愛らしいアンドロイドだったら、手の一つも出してみたいな……なんて思
わないでもないが……冗談だよ。俺にはンな趣味はねえぞ」
 目の前のベッドに横たわっているアンドロイド。その人工の肌に染み込んだ血の跡
を丁寧に拭いてやりながら、科学者の一人が冗談めかして呟く。流石に血だらけのア
ンドロイドというのはぞっとしないからだ。
 しかし、そんな冗談がささやかれるほどに、目の前のアンドロイドは精巧に出来て
いた。躯のあちこちに刻み込まれた機械部品の境目を示す微かなラインさえ気にしな
ければ……普通の女の子と変わりはしないのだ。現代のアンドロイド工学の粋を集め
たとしても、これ程までに人間に近い容姿を持った美しいアンドロイドを組み上げる
事は至難の業と言っても良いだろう。
 その少女の頭部に幾つかのケーブルを張り付けながら、別の研究員が呟く。
「けどよ、こんなモン作ったミハイルって博士、一体何者だったんだ? そりゃ、聞
いた事がないとは言わねえよ? でもよ……」
 ミハイル・ウィニフレッドと言えば、世界でも名の知られたアンドロイド工学の第
一人者である。
 だが、三十年ほど前に自らの研究所に引きこもって以来、その活動はおろか、姿す
ら見た者はいない。彼自身だけでなく、彼の最高傑作と言われた戦闘用アンドロイド、
『リンカ』ともども。
 そんな謎の多い科学者であったから、引きこもった理由に関する噂もかなりあった。
持病であったサイボーグ体との拒絶反応が悪化して動けなくなったという学会の通説
から、リンカと共に享楽の日々に耽っているなどという俗悪なもの、果ては自らの溢
れ出る知性で世界征服を狙っているという荒唐無稽な話まで、それこそ星の数ほどに。
 本人の姿だけが見えないまま謎が謎を呼び、結局数十年が過ぎてしまったのだ。
 そんなある日、話題の張本人であるミハイルの死が伝えられた。
 諜報機関からの報告によると、死因は大方の予想であるサイボーグ体の老朽化では
なく、自らの開発した『リンカ』の暴走による事故死。
 そして、ミハイルの研究所を擁していた某国は、ミハイルの遺したであろう超技術
を我が物にするため、彼の最高傑作である『リンカ』の回収をこの研究所に委ねたの
である。
「ま、天才科学者の末路っていやあ、それらしいがな」
 老衰や病死ではなく、自らの技術……それも、最高傑作であるリンカに殺されたの
だ。端末をいじっていた男は同じ技術者として何か感じる物があるのだろう、何やら
感慨深げに呟いた。
「所長、回収準備、終わりました」
 男の言葉に、リーダーらしき男……所長は小さく頷く。
「では、これより搬出作業を始めるぞ。この世に一体しかない貴重なサンプルだから
な、くれぐれも慎重に扱うように」


 その声は、唐突に響いた。
「……それは、なりませんね」
 響いたのは、静かな、穏やかな声。だがそれでいて、圧倒的な実力に裏打ちされた
凄まじいプレッシャーを与えてくるような……そんな声だ。
「誰だ?」
 所長の知っている限り、作業しているスタッフの中にそんな声質の持ち主などいな
い。それどころか、彼の研究所の全てのスタッフの中にすら、そんな声の持ち主は居
はしないだろう。
「誰だと言っている! 答えろっ!」
 所長の再びの誰何に、謎の声は静かな返答を返す。
「触れる程度ならと目を瞑っていましたが……。僕のリンカを奪おうとするなど……
許さないと言ったのですよ!」
 その声が響いた刹那。
 リンカの傍らで端末を操っていた研究員が、真っ二つに斬り裂かれた!
「ぐあっ!」
 残されたのは、短い悲鳴と立ち上る血臭と……散り逝く生命。
 斬り裂かれた研究員の元へと駆け寄った別の研究員も、謎の『何か』の犠牲となる。
「な……」
 そして、残されたスタッフ達は見た。
 新たな血に濡れたベッドの上からゆっくりと身を起こす、一人の少女の姿を。
「馬鹿な……エネルギーなど、全て失われていたはずだぞ……」
 そう。アンドロイドのエネルギーが残っていない事は確認されていたのに。
「保安班、ヤツを……ヤツを取り押さえろっ!」
 突然の異変に慌てて駆けつけた十体ほどの警備用アンドロイドの後ろに下がりなが
ら、所長はうわずった声を上げる。警備用とは言え、現代アンドロイド工学の最先端
技術が施された最新型アンドロイドだ。たった一体の少女型アンドロイドを押さえつ
けるなど、造作もない事。
 の、はずだった。
 それは、一瞬の出来事。
「な…………」
 十体ほどのアンドロイドだったものを呆然と見つめ、立ちつくす所長。頼みの綱の
アンドロイド部隊は、先程の研究員達と同じく『何か』の力で真っ二つに断ち切られ
た無惨な姿をさらすのみだ。
 その周りには、警備用アンドロイドへの攻撃に巻き込まれた研究員達の死体も無造
作に転がっている。
「後は、貴方だけですね?」
 ぴちゃり……
「く……来るな………」
 ぴちゃり……
 歩み寄るアンドロイドの少女と、退く所長。一歩歩むごとに足下の血だまりが跳ね、
二人の足を鮮やかな朱い色に染めあげていく。
 ぴちゃり……
「来るな……来るな………」
 混乱した所長は、懐から拳銃を取り出した。中には、研究所で開発されたアンドロ
イドをも一撃で破壊する特殊弾が詰まっている。
 目標が貴重なサンプルである事や、依頼主の依頼の事など、既に男の頭には残され
ていない。
「来るなぁぁぁっ!」
 そして、男は引き金を引いた。


「マス……ター?」
 燃え盛る炎の中、リンカは小さな声でそう呟いていた。
 辺りには生きている者などいない。研究所の全ての侵入者は自らの武器……サイ=
プレートで斬り裂き、ミハイルの研究の全てを守るため、研究所には火を放った。
 全て、聞こえてくるミハイルの声のままに。
「マス……ター……?」
 胸元に抱きかかえていた頭蓋骨に愛おしげに頬を寄せ、リンカは再び呟く。その頭
蓋骨には、特徴のある金属の部品が埋め込まれていた。ミハイルの身体制御の一部を
司っていた、補助頭脳だったものだ。
「イエス、マスター」
 嬉しそうに瞳を細め、リンカは翼を広げた。
 愛おしい創造主が自分の為だけに開発し、与えてくれた、白く美しい翼を。
 強い羽ばたきは新たな風を起こし、巻き起こった風は炎に侵された研究所のさらな
る倒壊を誘う。
 こうして。
 歴史の一点に流星のごとき名を残した青年の館は、炎の中へとその姿を消した。



 白く美しい天使の行方は、誰も知らない。
Fin
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