4.バカ!
ミスティの店を包み込むのは、沈黙の二文字であった。
マハエの腕を包み込む淡い光を呆然と見つめるアルジェント。
そんな彼女をやはり呆然と見返すマハエ。
そして、魔法を展開したまま、身動きが取れずにいるリント。
誰もが次の言葉を紡ぐ事も、動く事も出来ずにいる。
「マハ……エ……?」
「お、おう…………」
やがて放たれたアルジェントのひと言に、マハエは間の抜けた返事を寄越すのみ。
「これって……どういう……こと?」
マハエの傷付いた腕を包む光が何かなど、治癒術士のアルジェントには確かめるまでもないものだった。
そしてその術を、誰が使っているのかも。
「い、いや、その……何というか、だな」
「さっき、わたしが治癒魔法掛けてあげようかって聞いたら、いらないって言ったわよね……?」
彼女の言葉に、感情の昂ぶりはない。
だが平板に紡がれたはずのそれに、部外者であるリントは逆に小さく身を震わせる。
「それは………」
「わたしより、猫の魔法の方が役に立つって事……?」
「失礼な事言うニンゲンなのだ! ボクもちゃんとした魔法使いなのだ!」
淡く輝く光が消えて、治癒の完成が告げられる。
無論それは、マハエの腕が再び使えるようになった事を示すもの。
「そ、それは……だな……」
「ばかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
だが、マハエが次の言葉を紡ぐよりも早く、アルジェントは店の外へと飛び出していった。
「…………」
後に残るのは、呆然としたままの男達と、扉から響くかすかな残響音だけだ。
そんな残された二人に掛けられたのは、階上からの声。
「…………バカだなぁ、おめぇ」
紙束を抱えた、律である。
「律。何でいるんだよ!?」
「リントの撮った写真の現像。作戦会議であった方が良いだろ」
現像の終わった紙束をぺらぺらと振りながら、律は男達の元へと降りてくる。
「騒がしかったけど、何かあったの?」
そして、律と同じタイミングで倉庫から戻ってきたのは、この店の本当の主。
マハエの注文の品の入ったカゴをカウンターに置き、まだ呆然としているリント達ではなく……妙にテンションの高い律に声を掛けてみる。
「ちょうど今、アルジェントが来ててな」
「来ててって……まさか!」
跳ね上がるミスティの声は、この場にいる誰もが初めて聞く……付き合いの長いマハエさえも、だ……もの。
「しかも、リントが治癒魔法掛けようとしてる所でな」
「ちょっと! 何で呼んでくれないのよ!」
「呼べるか!」
呼ぶような物理的な時間も、心の余裕もあろうはずがない。
「面白そうだったのに……」
呆れて怒鳴り返すマハエに、ミスティはつまらなそうに不平の声を上げてみせる。
「それより、さっさと追いかけた方がいいと思うんだけどよー」
「……追いかけるって、追いかけて何すりゃいいんだよ」
謝るべきなのか、説明すべきなのか。
だが、どこか拗ねたように呟くマハエに向けられたのは、一同の呆れたような視線だけだった。
「な、何だよおまえら!」
「別に」
「別にー」
「別になのだ」
「…………」
視線を合わせずに告げられる投げやりな言葉に、マハエは憮然とした表情を浮かべる事しか出来ずにいる。
見上げるのは、夜の空。
巨大な木の生えた月が照らす北の山々をぼんやりと眺めながら、男は静かに瞳を閉じる。
(今のアレでは、脚の動きをずらすのが精一杯……)
瞬きするほどの一瞬の出来事は、相手の力の感触からこちらの体重移動の向きまで、余す事無く記憶の内へと封じ込めていた。既に千度を超えた状況再現で、その記憶は時を経るごとに鮮明な物になりつつある。
(やはり…………)
だが千度の反復の間に、こちらが使える策を端から当てはめていくものの……そのいずれも、現実以上の成果を見いだせないままだ。
「ヒューゴさん」
「おや、どうかしましたか? 二人とも」
そんな青年に掛けられた声は、細身の青年と小柄な少年のもの。
「これから偵察部隊の交代に行くので」
泰山竜との最初の遭遇で、あの場にいた全員がガディアに戻ったわけではなかった。一部のメンバーは竜の側に残り、足止めとはいかないまでも、竜の動きに新たな物がないかを見張る役目を引き受けている。
「そうですか。泰山竜は危険な相手ですから、気をつけてくださいね。アギさんは確か、初見でしたよね」
「文献では何度か読んだ事ありますし、リントさんの写真も見ましたけど……」
アギの読んだ書物では、確かに山のように巨大だとは書かれていた。しかし、文献が古ければ古いほど、脚色を施したものや、話に尾ひれの付いたものの割合は増えてくる。
実際は暗殺竜の倍か、せいぜい家ほどの大きさだろうとたかをくくっていたのだが……。
「あれは本当に山くらいの大きさがありましたね」
ヒューゴも、傍らのジョージさえも頷いている辺り、誰もが似た様なことを考えていたのだろう。
「それよりヒューゴさん、寝なくて大丈夫なんですか? ネイヴァンさんやアシュ……じゃなかった、グリフォンさんは『月の大樹』で仮眠取ってますよ?」
「ちょっと考え事がありましてね。それより、ジョージさんも寝てないんじゃないですか?」
ヒューゴもジョージも、廃鉱からの帰りにはマハエ達とずっと情報交換を行っていた。ガディアに戻った後も今後の準備などで忙しく動き回っていたはずだ。
「自分は移動中に寝るから大丈夫です。御者はダイチさんが引き受けてくれるそうですから」
答えるジョージに合わせるように、やがて道の向こうから二頭立ての馬車がやってきた。
「おーい、お待たせー!」
その御者台で元気よく手を振っているのは、ダイチである。
「それじゃ、行ってきます!」
馬車に乗り込む二人を見送りながら、ヒューゴはさらに思考を巡らせていく。
自らの求める所に至るまで、あと何千、何万の反復を繰り返そうとも……それを諦めるつもりは、毛頭無いのであった。
石畳に響くのは、山歩きにも適した革靴の音。
それに続くのは間隔の短い呼気と、服の金具が擦れ合う小さな音。
「…………はぁ、はぁ、はぁ……」
自らの呼気を聞きながら、巡らせ続けるのは思考である。
ただ、ヒューゴと一つだけ違うのは……それが突破口の見当たらない、延々と回り続ける物である事だ。
「何で私、あんなこと言っちゃったんだろう……」
浮かぶのは、雑貨屋のカウンターに腰掛けた男と、二足歩行の猫の姿。
リントが魔法使いなのは、彼女も認める所である。医療者も兼ねた彼女とは違い魔法に特化してはいるが、治癒の心得がある事も。
理解、しているのだ。
理解は。
故に、怪我をしたマハエをリントが魔法で癒やす事自体は、何の問題も無い。
はず……なのに。
「はぁ………っ」
走る速度を緩めれば、走っている間には気付かなかった痛みが肺から喉へと駆け上がってくる。
その痛みに、さらに歩を緩めざるをえず……。
「は………ぁ………っ」
やがて、その脚は完全に止まってしまう。
下を向けばさらに苦しいと分かっていながらも、伸ばしたままの膝を掴み、下向きに荒く息を吐く。
「あら、アルジェントさん。どうかなさいましたの?」
思わず見上げたそこにいるのは、『月の大樹』のメイドであった。
「……何でも無いわ、忍」
苦しげに答えるアルジェントに、忍は困ったような表情を浮かべるだけだ。
「何でも無ければ、息を切らして泣きはらしたりはしませんでしょ?」
「…………泣いて……?」
言われて頬に触れれば、確かに指先には冷たい感触がある。
「……汗でしょ?」
「まあ、涙は青春の汗とも言いますけれど……美人のお顔が台無しですわ」
そう言いながら忍が持っていたバッグから取り出したのは、小ぶりな梨が二つ。
「ちょっと、そこに掛けません?」
よく熟れたその果実の誘惑に、乾き痛む喉が抗えるはずもなく……。
続劇
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