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 19.アスディウスの死

 マッドハッターは、拳の速度や連打の間隔に関しては、実際の所そう大した相手ではない。どれも普通の相手なら、アシュヴィンにとって苦も無く受け流せるはずの攻撃だ。
「く……ッ。ディス様!」
 けれどただ一つ違うのは、放たれる拳の一撃一撃が必殺の威力を持つと言うこと。
 一度のミスが致命傷に繋がるというプレッシャーは、いかなアシュヴィンとて……いや、普段そこまでの相手と戦う事の少ないアシュヴィンだからこそ、感じた事の無いものであった。
「もう少し待て」
 マッドハッターの戦い方を見定めると言ったディスは、二人の戦いを黙って見据えているだけだ。アシュヴィンの度重なる催促にも、表情一つ変える様子はない。
 おそらく十五センチの小さな彼女は、今のアシュヴィンのような戦い方を日常的にこなしているはずだ。故に、普段とは桁外れのプレッシャーの中で戦っているアシュヴィンにも、危機感を覚えないのだろう。
(動きそのものはあれのものじゃな……)
 拳打の構えは、若い頃に見たダンプティの動きそのものだ。
 動きだけは。
(あれそのものでは、ないな)
 その拳に宿る意思……そして動きに伝わる理念は、当時の彼とは全く違うもの。年を重ねて経験を積んだり、心変わりしたなどというレベルの物ではない。
 記憶した形だけをなぞっている、上辺だけの動き。
(そしてその上辺だけの記憶に方向を与えたのは、アリスか……)
 方向を持たないが故に、与えられた知識に容易くすがる……いや、すがるしかなかったのだろう。
 例えそれが歪み、間違った方向だったとしても、空っぽの彼には間違っていると判断する経験も、知識も無いのだから。
「ディス様!?」
 そんなマッドハッターの迫る拳の前に飛び込んだのは、十五センチの小さな姿。
 触れれば即死の一撃を文字通りの紙一重で躱し、その額にカウンターの蹴りを叩き込む。その無謀とも言える動きの中には、即死に繋がるプレッシャーも怖れも、欠片ほどにも感じられない。
「ダンプティ!」
 強く呼んだその名に、マッドハッターからの反応はない。
「そこまでの記憶は欠片も無いか!」
「ディス様、危ないッ!」
 そんな彼女に向けて振りかざされるのは、迷い無き拳。
 叩き付けられた一撃が、二人をまとめて吹き飛ばす。


 目が合った巨竜がその場で回頭するのは、ほんの一瞬のこと。
 普段のアギなら高速移動で、相手の進路を躱すのは造作もないことだった。しかし今日の彼がその力を使えるのは……恐らく一度、それも一瞬あるかないかだ。
 使うべきか、次の瞬間に掛けるべきか。
 その逡巡が、戦場では命取りとなる。
「アギ!」
 迷ったその一瞬に、暗殺竜はこちらに向かって跳躍し、巨大な顎を開いている。
 こちらも左右か後方に飛び下がろうとするが、いずれも相手の跳躍の間合と比べれば微々たるものだ。低い軌道は、正面への回避の道も塞いでいる。
 待ち受けるのは……。
(……しまった)
 甘かったのは自身の判断か。
 それとも……。
 唇を噛んだ瞬間、響き渡るのは竜の絶叫だ。
「……え?」
 眼前で踏み込んだ左前脚を吹き飛ばされているのは、アギではなく飛びかかっていた竜の方。竜鱗どころか鋼の大剣さえ弾く強固な斬撃器官が、跡形もなく砕け散っている。
 一瞬だけ振り返れば、そこで杖を構えているのは……アルジェントだ。
「何の……魔法なのだ……?」
 炎でも、氷でもない。杖の先から放たれた細い光条が当たった瞬間、竜の前脚が半ばまで吹き飛んだのだ。
 ただの光にそんな破壊の力があるはずもない。
 それは明らかに、リントの知る魔法体系の中にはない特性であった。
「アルジェントさん……?」
「いいから! アギ!」
 片足に痛打を食らったとはいえ、竜はいまだ健在なままだ。
 アギは怒りの声と共に立ち上がろうとする竜のもとへと駆け寄ると、血飛沫を上げる左前脚にその手をそっと触れさせた。内側に流れる気の流れを力任せに乱してやれば、残された頑強な筋肉が内側から歪み、変形し……破裂する。
 いまだ致命傷ではないが、暗殺竜の片腕を文字通り奪ったのだ。飛翔力も跳躍力も、今までとは比べものにならないほどに落ちているだろう。
「今です! 兄さん!」
 さらなる悲鳴と共に倒れ込む竜から離れつつ、アギは兄の名を呼んだ。


 十五センチの小さな体を抱え込むのは、その十倍以上はある長身の細身だった。
「大丈夫デスか、ディス様」
「アシュヴィン。おぬし……」
 マッドハッターの拳は、いかな龍族とて痛打に匹敵する一撃のはずだ。それをあえて受けるなど、無茶をするにも程がある。
「ワタシはトモカク、ルードのディス様があれヲ受けタラ、本当に無事では済みマセン」
 立ち上がろうとするアシュヴィンだが、体に残ったダメージが大きいのか、その身はおぼつかないままだ。そんな彼を護るように、ディスは立ち上がり、武器を構える。
「さて。こっちは、後はあなた一人ですか」
 彼女の目の前に立つのは、マッドハッターとアリス。
 アリスと戦っていたネイヴァンやフィーヱ達も、彼女の猛攻を前にあえなく地面に伏していた。動ける者を先に全て倒しておく考えなのか、貴晶石にされた者がいないのがせめてもの救いだろうが……。
「実力差は分かっているでしょう? 大人しく負けを認めれば……そうですね。貴晶石にするだけで済ませてあげます」
「どちらにしても殺されるのではないか。願い下げじゃな!」
 サブアームに大剣を構えさせて斬撃を叩き付けるが、そんな一撃に当たるアリスではない。
「今の貴女の力でわたしに挑んでも、勝てるわけないじゃないですか。貴女ほどの使い手が、見苦しいですよ?」
 少なくとも、先日の仲間を使っての引き際は見事だった。あの判断力があるなら、これ以上の戦いは無意味であることも分かりそうなものだが。
 しかし。
「……そうでもないぞ? 例えば……こういうな!」
 不敵な呟きと共に大剣型のビークの中央に生まれたのは、拳大の貴石であった。
「……へぇ」
 絶望的な状況に自慢の判断力が鈍ったか、はたまたそれ以上の策があるのか。
 いずれにせよ、この局面での絶技の発動はアリスの予想の外にある。
「まさかその体力で、絶技を使うとは思いませんでしたよ。……どんな技を使うのかは知りませんけど、たぶんわたしにもマッドハッターにも当たりませんよ?」
 それは、自信でも過信でも無い。
 彼女達の実力差を前にした、厳然たる事実である。
「どうかな? ……おぬしら! 巻き込むが上手く避けろよ!」
 振りかざす刃と共に放たれるのは、黒銀の輝き。
 生まれた光の一つ一つが剣の形を成し、疾風の如く吹き荒れる。しかもそれは一度きりの物ではなく……消え去った大剣の貴石の後を継ぐように、次々と新たな貴石が生まれ、さらなる剣風が吹き荒れる。
 やがて風は疾風となり、さらには嵐の如き奔流となって、辺り一面を覆い尽くす!
「ディス! やめろっ!」
 剣の嵐の中、フィーヱの声は届かない。
 絶技の特性は、ルードなら誰でも知っている。そしてそれが、どうして絶技と呼ばれ、禁じ手とされているのかも。
 さらにその技をこれだけ連続で使えば……いかに威力がある技だったとしても、無事に済むはずがない。
「その技は初めて見ましたけど……残念でした!」
 吹き荒れる剣の嵐に抗すべく放たれるのは、やはり無数の光鞭だ。
 ディスの切り札が言葉以上の大技である事はアリスも認める所だが、通じる技かどうかは別問題だ。圧倒的な剣風は無数の光鞭を潜り抜け、アリスの眼前まで至る事もあったが……それでも、光鞭の根幹にあるショートソードより先に抜ける事はない。
 もちろん傍らのマッドハッターも、腰に手挟んでいた槍を縦横に振り回し、剣の嵐を端から受け止めている。
 だが、アリスとマッドハッターに通じないと分かってもなお……ディスが浮かべるのは、勝ち誇ったような笑みだった。
「オマエガナ!」
 その視線の先。
 アリス達の背後。
 高らかな勝利宣言と共に響き渡るのは、断末魔の叫び。
「……まさか!」
 そこにあるのは……。
 アギの兄の大剣と、無数の刃に貫かれて息絶えた、暗殺竜の躯であった。


「いくらおぬしが万能でも……命が尽きれば、貴晶石に……する事は、出来……まい。残念……じゃった、な」
 魔晶石は、相手に残る生命エネルギーを結晶化する事で生まれる貴石だ。
 故に生命エネルギーが失われれば、結晶化することは出来ない。
 単純な理屈だ。
「そういう勝ち方ですか……忌々しい」
 アリスの目的は、暗殺竜の貴晶石を入手することにあった。
 もちろん竜が二匹居たのは偶然だったから、一つ入手した今の段階でも失敗とまでは言えないが……かといってここまで目論見を邪魔されて笑っていられるほど、出来た性格というわけでもない。
「ついでに、言えば……わらわの……寿命も……ここまで、のよう………じゃ。ハハハ。悔しかロ……が……勝ち逃ゲ………じゃな………?」
 ディスが浮かべるのは、最後まで不敵な笑み。
 その表情のまま、小さな体がぐらりと傾ぎ……音も無くその場に、崩れ落ちる。
「ディス!」
 フィーヱの叫びにも、黒いルードはもう言葉を返す事はない。
 アリスは黒いルードを見下ろしたまま、しばらく黙っていたが……。
「……そうだ。そこの貴女。名前は知りませんけど」
 そう言いながら、倒れて動かなくなったディスの躯を、軽く蹴って仰向けに転がしてみせる。
「フィーヱだ。それより、死んだものの躯を粗末に扱うな」
「そういうお説教はいいんですよ。それより、前に言った事を覚えてますか? ルードとビークの正しい使い方をお勉強してくださいねって」
 どうやら相変わらず名前を聞く気はないらしい。
「そこから見えますかー? 見えなければ、首根っこを引き摺ってここまで連れてきてあげますけど?」
「……十分見える。それより、何をするつもりだ」
 死者を冒涜する気なら、黙って見ている気などない。突貫などという愚行をする気は無いが、まだ光の鞭に打たれて動かぬ体に、無理矢理に力を込めていく。
「良い機会だから見せてあげますよ」
 そう言ってかざしたのは、中央に穴の開いたショートソードだ。先程までは絶技の発動媒介となり、光の鞭を解き放つ解放技を乱発していたそれは、彼女自身のビークである。
 軽く縦横に降ってディスの衣装を引き裂き、胸元を露わにすると、手慣れた動作でそこを覆うパネルを開いていく。
 色あせた三つの貴石が収まるそこは……ルードの最も大事な処。
「まさか……」
 一瞬生まれた考えを、フィーヱは慌てて振り払う。
 禁じ手どころの騒ぎではない。
 それは明らかに、ルードという種族の存在意義を揺るがすような考えだったからだ。
「考えた事はありませんでしたか?」
 アリスが手に持つ刃は、生命力や魔力を結晶化させる力を持つ。それが人間や魔物を含む生物であれ、ゴーレムのような魔法構造物であれ、だ。
「ルードにビークを使ったら、どうなるかって……」
「やめ……っ!」
 フィーヱの制止も間に合わない。
 振り下ろされたショートソードは、ディスの胸のパネルの中央にかちりと当たり……。
 生まれるのは、魔物から魔晶石を取り出す時のような、強い光。
 ディスの胸元に収まっていた色あせた貴晶石が、その色を完全に失い……その代わり、アリスが胸に触れさせたビークの中央に、新たな一つの貴晶石が結晶化する。
「……やっぱりこの程度の力しか残ってませんか。もう一回精製すれば、ちょっとはマシになりますかね?」
 だが、ビークの中央に生まれたそれを見て、アリスはため息を一つ。
「これは持って帰らないと怒られるから……仕方ないですね。自腹はあんまり切りたくないんですけど」
 やはり慣れた様子でディスの胸元にビークに生まれた貴晶石を戻し、どこからともなく取り出した貴晶石を二つ、ぽっかりと開いた穴に放り込む。パネルを元に戻し、耳元に何かを囁きかければ……死んだはずのディスの躯が、やがてぴくりと震えてみせた。
「あ、う………かはっ」
 詰まっていたような咳を何度か繰り返し、ディスはゆっくりと瞳を開く。
「再起動しましたね。では、もう一度……っ!」
 無事に目覚めた様子を確かめて、アリスは再びショートソードを振りかざす。
 だが次の瞬間、彼女は振り下ろすショートソードの軌道を変えて、さらにその身を翻してみせた。
 宙を舞うのは、小さな左腕と、もっと小さな貴晶石が一つ。
「悪いな。貧乏冒険者なんで、勉強会のお代はこれで勘弁してくれ」
 不意打ちでアリスの腕を吹き飛ばしたのは、漆黒の光条。
 放ったのは、フィーヱである。
「……まあ、あんたにもらった貴晶石だけどな」
 無理な体勢から放ったせいか、それとも貴晶石で強引なパワーを出したせいか、彼女が腕に構えたビークからは所々から火花が散っていた。
 それでもフィーヱはアリスに対し、ディスの如き不敵な笑みを向けてみせる。
「……あなた、名前は?」
 ショートソードで軌道を逸らしても、左腕までは庇いきれなかった。それほどまでに早い発動と、不意打ちの一撃。
 隠し通した切り札の使い所としては、ベストではないにせよベターではあったろう。
「悪いね。後ろ暗い所はないけど、名前は教えない主義なんだ」
 勝ち誇ったようなその答えに、アリスは少しだけ憮然としていたが……やがて背後にいた男の肩に飛び乗って、腹立たしげにひと言呟いた。
「マッドハッター。『ハートの女王』に会いに行きますよ。帰りましょう!」


続劇

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