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18.束の間の幸福

 紡ぎ出されるのは、ゆっくりとしたペースの呼吸。
 凪いだ湖面の如き心の中。見上げた空を、静かに思い描く。
 うねる空間と、そこに混ざり合う自身の力。
 ゆっくりの呼吸を繰り返す度、曇った空を少しずつ晴らしていく。まるで吹く風で、雲を散らすが如く。
 けれど。
 いくら神の吐息を吹かせようと、曇った空は揺らぐ事はない。心象の空は濁った灰色のまま、どこまでも広がっているだけだ。
「…………っ!」
 弾かれたように瞳を開き、大きく息を吐き出した。
 肩で息をするたび、全身から吹き出した汗が床に描かれた魔方陣に滴り落ち、その集中が極度の緊張を伴うものだと感じさせる。
「やっぱり……ダメなのか、オイラじゃ………ッ」
 魔方陣に拳を叩き付け、そいつはうずくまったまま唇を噛み締めるだけだ。


 眺めていた街の地図を畳み、背中のザックへと放り込む。
「そろそろ行くか……」
 晴れ渡った夏の夜空には、大樹の生えた月が静かに輝いている。動くにはちょうど良い頃合いだろう。
「マハエ。今日はアシュヴィンが手伝うてくれると聞いておったが……別行動か?」
 辺りを見回しても、それらしき姿は無い。あのアシュヴィンが、集合時間を間違えるなどといったことは絶対に無いはずだが。
「上から偵察を頼んでる。あいつなら飛べるから、幽霊がどんだけジャンプしても追いつけるしな」
 昼間なら、ターニャが手伝いに呼ぶ鳥たちでもフォロー可能な領域だが、さすがに夜はそうはいかない。
 飛行能力を持った味方は貴重だ。マハエ達と一緒に行動するより、彼自身の判断に任せた方が良い場面が多いだろう。
「さて。今日こそ幽霊を追い詰めるぜ!」


「姫様。一足す一は」
 掛けられたセリカの声に、ノアは僅かに思考して……。
「二、ですか?」
 答えた所で、目の前の箱がシャッターを切る。
 写真というモノを撮影する、カメラという機械らしい。変わったレガシィもあるものだと思ったが、どうやらレガシィではなく、古代人の知識を元に現在の技術で再現したものなのだという。
「姫様、表情が硬い。もうちょっと笑って」
「え、ええっと……? ナナト、どうすればいいの?」
 周りにいた誰もがセリカの方が表情が硬いと思ったが、当事者のノアはそれどころではない。
「うーん。わかんない」
 困ったように膝の上のナナトに問うものの、『とくとうせき』に座るナナトが的確な助言など出来るはずもなく。
「忍……さん?」
「こうですわ」
「あぅぅ……」
 隣に座っていた忍に助け船を求めるが、忍の答えも極端に漠然とし過ぎたものだった。
 だが、どうしようかと思った瞬間。
「その顔、すごくいい!」
「ふえ……?」
 ぱしゃりと切られるのは、セリカのカメラのシャッターだ。 
「姫様。お隣、ありがとうございました! 綺麗に撮れてたら、焼き増ししてお送りしますわね!」
「ええっと、ありがとうございます。よく分かりませんが、楽しみにさせていただきますね」
 満面の笑みの忍に、ノアもどこか困ったような笑顔でそう返す。
「ただいまー。……ちょおま、何や面白そうな事しとるやん! 俺も混ぜぇ!」
 そんな中、酒場に戻ってきたのはネイヴァン達だ。もちろん撮影会をしているのを目にするや、大股でこちらに駆け寄ってくる。
「あ、良かったらネイヴァンさん達も一緒にどうぞ!」
「そういえば、写真撮られるのは初めてね……」
 忍にカメラを向けられながら、ミスティは今更ながらにそんな事を呟いた。テスト撮影などは何度も行ったが、よく考えれば自分の姿を撮った覚えがない。
 もちろん律達に渡した後は、撮影に関してはノータッチである。
「これ、魂吸い取られたりしないわよね」
「……あなたが作ったんじゃないの? ミスティ」
 そんな危ない機能を備えているなら、暗殺にも使える……。そんな事を考えながら、セリカはさらにシャッターを切る。
 当たり前だが、ミスティの魂は吸い取られたりはしなかった。
「あたしはいい……ってこらネイヴァン、放せっ!」
 そんな中でただ一人、さっさと階上の自室に戻ろうとしていたコウだが……ルード用の通路に飛び乗る前に、するりと伸びてきた手に掴まれてしまう。
 両手ごと押さえられていては、逃げる事も出来ない。
「ええからええから! ほれ、みんないくで! ヒャッホォォォォォイ!」
「え、それ、言うんですか……?」
 場の雰囲気を楽しんでいたノア姫も、その叫びには流石にヒキ気味だ。
「当たり前や! ほれ、せーの!」
 だが、元気よく叫ぶネイヴァンに力任せに押し切られ……。
「ひゃ、ひゃっほ……い?」
 おそるおそる、そう叫んでみせるのだった。


 そんなノアの様子を眺めながら。律が声を掛けたのは、隣の席でワインをちびちびと舐めている少年貴族だ。
「……あれ、いいのか? ダイチ……じゃなかった、タイキだっけ?」
「構いません。あんなに楽しそうにしている姫様は、久しぶりに見ましたから」
 今度は忍がカメラを構え、ノアの隣にはセリカが座っている。ノアも酒場のノリに慣れてきたのか、先ほど硬いと言われた表情もだいぶ柔らかくなっていた。
「本当なら、兄が姫様の側近になって、姫様を和ませてくれればと思ったのですが……」
 もちろん、休みたいと思ったのは否定しない。
 ただ、ナナトが姿を消して以来、ノアが暗い表情をする事はとみに多くなっていた。代わりにシャーロットが連れてきた道化もその表情を晴らす事が出来ずにいたが……楽天的な性格の兄なら、彼女にも良い影響があるのではないかと思ったのだ。
 彼の目論見は結局空振りに終わったわけだが、こうしてノアは笑っているし、結果オーライといった所だろうか。
「兄貴と全然似てないな」
「よく言われます。……たぶん、足して二で割ればちょうどいいくらいになったんだと思うんですけどね」
 苦笑しながら姫君の様子を見れば、今度はカメラマンは二足歩行するネコに変わっていた。
「姫様! 今度はこっちを向いて欲しいのだ!」
「えっと、こうでいいですか? ネコさん」
「完璧なのだ! でも、顔がよく分かんないから、もっとこっちを覗き込んでほしいのだ!」
 持て余し気味のサイズのカメラを構えた様子が微笑ましいのだろう。リントの指示通り笑いながらレンズを覗き込むノアに、リントは力一杯シャッターを切ってみせる。
「こらリント! テメェ、アングルが下過ぎるだろ! 何考えてんだ!」
「そんな事言われたって、りっつぁんみたいに高い所からなんて撮れないのだ!」
 確かにリントの身長的に、上のアングルから撮るのはテーブルの上にでも登らなければ不可能だ。もちろんネコではないのだから、マナー的にそんな事が出来るはずもない。
「つか図々しいぞ! おっちゃんも姫様の写真撮りたいっつの!」
 隣の律も勢いよく立ち上がると、カメラを構えてノア達の所に突撃する。
「タイキ。貴方も撮ってもらいなさいな」
「え、僕はいいですよ……」
 だが、タイキに伸びてきたのは律の腕だ。天候魔術師の細い腕をがしりと掴み、ずるずると引き摺っていく。
「ついでだからお前も撮ってやる! ほれ、姫様とのツーショットだぞ!」
「えええええっ!」
 そんな恐れ多い。
 全力で辞退しようとするタイキだが、力自慢の冒険者と上機嫌のノアの前で、そんな事が許されるはずもないのだった。

「ああ、楽しかった!」
 写真撮影もひと息ついて。席に戻ってきたノアは、グラスに残っていたワインを軽くあおってみせる。
 ワインはだいぶぬるくなっていたが、渇いた喉にはそれでも十分に心地良い。
「良い顔をしておるの」
「ありがとうございます」
 傍らのモモから掛けられた労いの言葉にも、柔らかく微笑んでみせる。既にそこには、先ほどセリカから言われたような硬い表情はどこにも残っていない。
「おっと。一国の姫君に失礼じゃったの。正しい礼を取らぬ非礼、平にご容赦を」
「おやめ下さい。龍族のかたにそんな事を言われては、恐縮してしまいます」
 ノアはごく自然にそう答えるが、モモの方は意外だったのだろう。僅かに目を見開き、ほぅ、と小さく感嘆の言葉を転がしてみせる。
「さすが神を宿すと言われた姫君。……噂に違わず、賢しいようじゃな」
 小さく頭を下げた後……戻した表情は、いつもの不敵なモモのそれだ。
「ならば近付きの印に、一杯どうじゃ? 先ほどの呑み振りからすれば、あの禁酒娘と違うて、そこそこいける口であろ?」
「ふふっ。いただきます」
 向けられた笑顔と差し出されたボトルにノアも嬉しそうに微笑んで、そっとグラスを差し出してみせる。
「じゃが、いつ気付いた?」
「領内で、龍族のかたにお会いする事も多いので……勘のようなものです」
 そんなモモの視線の隅に入るのは、カウンターに置かれたままのディスの本。
 龍とさる国の姫君の辿った、数奇な運命を記す物語だ。
 確かその物語も、こうして酒場での出会いから始まったはずだが……。
(さて。この出会いは、どうなってしまうのかの……)
 そんな事を想いながら、モモもノアから注いでもらったグラスを静かに呑み干してみせるのだった。


続劇

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