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エピローグ
 1.わたしから あなたへ


 窓の外に響くのは、雨の音。
 暗い空からしとしとと降りそそぐ雨は、いつものガディアの穏やかな雨と違う、どこか陰鬱な色を感じさせるものだ。
「アルジェント様には、ご迷惑をお掛けしました」
 宿の小さなベッドから身を起こし、軽く頭を下げてみせるのは、草原の国の姫君である。
「構わないわ。それより、体は大丈夫なの?」
 普段の見立てなら、ただの疲労と判断しても良いだろう。だが、クローンという特殊な出自を考えれば……何が起こるか、医術の心得のあるアルジェントにも分からない。
「はい。少し……はしゃぎすぎただけなので」
 マッドハッターの襲撃から一日。
 中断された塩田の見学は、ノアの体調や警備の見直し……そして犯人の確保が為されるまで、無期限の延期状態になっていた。今後再び塩田の見学と調査が出来るかは分からないが、少なくとも崩れた体調を戻すまでは、ノアはガディアに逗留する事になる。
「ナナトにも心配掛けたわね」
「ノアがげんきになって、よかった!」
 ニコニコと笑っているナナトに感じたのは、小さな違和感だ。
「……ノア? げぼくじゃないの?」
 ナナトはノアの事は、いつもげぼくと呼んでいた。彼女が聞く限り、ノアと呼んだ事は一度もなかったはずなのに……。
「ええ。今のげぼくは……アルジェント様だと聞きましたので」
「………え?」
 穏やかに微笑むノアの言葉に、アルジェントは言葉を詰まらせる。
「ちがうの?」
「いや……えっと、そりゃ、そうであって欲しいとは思うけど……いいの?」
 確かにナナトと共に在りたいとは言った。げぼくにして欲しいとも。……だが、ノアはそれで構わないのか。
「えっとね……げぼくのじんぎ、なの。ふたまたは、だめなの」
 ナナトの表情は珍しく真剣なものだ。恐らく彼なりに、考え抜いた結果らしい。
「二股ねぇ……」
 ナナトとの関係は恋愛問題とはだいぶ違う。ノアとアルジェント、共にげぼくと呼んだとしても、アルジェントとしてはそれはそれで構わないのだが……。
 仁義などという慣れない言葉を口にするほどだ。
 真剣な表情でじっとこちらを見上げているナナトにとっては、大問題なのだろう。
「それに……私では、この子を護りきれないと思うので」
 そして、小さく呟いたノアの表情も真剣なもの。
 護りきれない。
 即ち、もしもの事が起きるという可能性である。アルジェントがノアの代役を務めていた時には、危機を感じるような事はなかったが……それはほんの数日、それも旅先だけの話だ。ノア自身のそれとは状況が異なってくる。
「………ノアもアルも、こわいかお」
 小さな声に、言われて気付く。
 お互いの顔を見れば、自身とそっくりのその顔は……確かに厳しい表情になっていた。
「ごめんね。別にアルジェント様とケンカしてたわけじゃないのよ」
 穏やかに微笑むと、ノアはベッドの上から手を伸ばし、小さなナナトと抱きしめる。
「ええ。だけど、ナナトがノアを助けたいって思ったら、私も協力するから。……げぼくだしね」
 アルジェントもベッドに腰掛けたまま、小さなナナトに手を伸ばし、同じ顔をした少女の反対側からそっと抱きしめた。
「うん! ナナも、ノアもアルも、だいすき!」
 以前のげぼくと、新しいげぼく。二人の娘の間で、ナナトも嬉しそうに微笑んでみせる。
「そうだ。例の話の続きだけれど……」
 ひとしきり穏やかな時間を楽しんだ後、アルジェントは静かにそう問うた。本当ならもっと楽しい話をしたい所だが、ノアが屋敷に引き取られれば恐らくもう話は出来ないだろう。
「……申し訳ありません。私もあの老人たちには、あまり詳しい話は……」
 ノアもアルジェントと同じく、神降ろしの儀式は受けていた。だが、その『神』が何を意味するのか、何の目的で行うのかは……儀式を行った老人たちに、最後まで教えられぬまま。
「そう。こんな時に悪かったわね。……ナナト、ノアの事はお願いね」
「うん!」
 ナナトを残し、ノアは静かに席を立つ。
「いえ。こちらこそ……ありがとうございます」
 穏やかに微笑むノアとナナトを残し……アルジェントは、静かに部屋を後にする。


 階下の酒場に漂うのは、酒場には似つかわしくない甘い匂いだった。
「……何やってるの?」
 朝食の時間も過ぎ、酒場の客は数えるほどだ。
「忍様が、お菓子作りヲ。秋祭りの前に、お菓子コンテストがありますノデ」
「そうか……もうそんな時期なのね」
 秋祭りで振る舞われるお菓子を決めるコンテストは、ガディアの恒例行事の一つ。街中の菓子を扱う店だけではない、酒場の料理人やそれ以外の料理自慢も参加する、秋祭りの前では最大のイベントだ。
「ってアシュヴィン。あなた、左腕は大丈夫なの?」
「お気遣いナク」
 昨日の騒ぎで左腕が折られたという話も聞いていたが、今の彼は平然と普段の仕事をこなしている。さすがに折れた腕は我慢するわけにもいかないから、大丈夫なのだろうが……。
「試作品ですけれど、アルジェントさんもいかがです?」
 カウンターに置いてあるのは、色とりどりのお菓子である。古代の技術や製法が惜しげもなく使われたそれは、王都の菓子店に並べても遜色のないものだ。
 もっともその試作品の山は、端からカウンターの隅に座った龍の娘の胃袋に消えているわけだが。
「いいわ、太るし。……ダイチは?」
 普段なら、モモの傍らに陣取っているはずの二人の姿がない。
 一人はまだ遺跡の調査に出ているから、いないのは当たり前として……この街にいるはずの、もう一人がいない。
「上じゃ。この菓子も食いに来んとは、重症じゃな」
 小さく階上を指差して、モモは肩をすくめるだけだ。
 シャーロットからの叱責が原因ではない。恐らくは、弟に迷惑を掛けた事と……何より、その前に対峙した男の事だろう。
 とはいえ、それに対しての助言は出来ない。乗り越えられればそれで良し、乗り越えられないなら……冒険者として、そこまでという事なのだろう。
「あ、マハエ」
 そんな時、ふと酒場に入ってきたのは、白髪交じりの中年冒険者だった。
「……何で視線を逸らすのよ」
 アルジェントの顔を見るなりばつが悪そうに視線を逸らす男に、娘は顔をしかめてみせる。
「いや、なんつーか……悪い」
「意味が分からないわ。それより、また剣を教えて欲しいんだけど」
「ジョージに帰ってきてから教わればいいだろ」
 遺跡調査に行ったメンバーも、あと数日もすれば戻ってくるだろう。
 技量もそうだし、教える側としても伸び代がある。ジョージにとっても、良い経験になるはずだった。
「マッドハッターに襲われた時、貴方の剣技のおかげで命拾いしたのよ。縁起くらい担がせてよ」
 神を信じる習慣の薄いスピラ・カナンにおいて、ジンクスや縁起担ぎを重んじる者は多い。
 特に冒険者はその仕事の性質上、顕著な傾向にある。
「…………仕方ねえな」
 聖職者を名乗る者でも縁起を担ぐ事があるのかと思いながらも、そう言われてはマハエも応じるしかないのだった。


 昼を迎える時間になっても、雨はやまぬまま。
「ただいまー!」
 そんな雨を抜けて酒場に転がり込んできたのは、ずぶ濡れの男達だった。
 遺跡調査に向かったはずの、カイル達である。
「わあ! なんか良い匂いがする!」
「試作品ですの。皆さん、お一ついかがです?」
「食べる食べる!」
 ルービィの手を皮切りに、男達の手が次々に伸び、忍の試作品の山はあっという間にその量を減じていく。
「けど、随分早かったですわね。何かありましたの?」
 早朝から遺跡を出立しても、大量の荷物を運びながらであればガディアに着くのは日沈の頃になるだろう。そもそもこれだけ日程に余裕があるなら、雨の日に大荷物を抱えた移動などしないはずだ。
「どうもこうもないぜ忍ちゃん。暗殺竜が乱入してきたおかげで、徹夜で山越えで……」
「どうかしましたの?」
 忍を見て思わず黙ってしまったカイルに、忍は小さく首を傾げてみせる。
「いや、忍ちゃんがこう、すげえ際どい水着を着た夢を見たのを思い出してな」
 これがカナン相手ならフライパンでも飛んでくるような台詞だが、さすがに忍はその程度では動じない。
「うふふ。いやですわ、水着コンテストのあれ、ご覧になってましたの?」
「なん……だと………」
 だが、カイルにとってそのひと言によるダメージは、カナンのフライパンをはるかに凌いでいた。
「写真もありますわよ」
「!!!!!!!!」
 自分は果たして、どれだけ貴重な場面を見逃してしまったのか。
 呆然としたままの表情で、男はへなへなとその場に崩れ落ちる。
「ヒューゴとジョージは施療院に報告に行ってる。留守中に何か変わった事は?」
 そんなカイルをいつもの事と気にする事もなく、黒いルードはルービィの肩からカウンターに音もなく降り立ってみせる。
「まあ、色々と……。それより、そちらも大変だったみたいですわね」
「調査中に暗殺竜が出てきて、何人かやられた。赤髭の爺さんも……」
 付け加えたその名に、店にいた誰もが言葉を失っていた。
 沈黙に覆われた店内に響くのは、外の雨音だけ。
「……看取ったのは、フィーヱか?」
 小さく頷き、取り出したのは拳大の宝珠だ。
 それは男の髭と同じくすんだ赤色を湛え、静かに輝いている。
「そうか。……忍、一杯もらえるか?」
 無言で頷き、忍は小さなグラスに葡萄酒を注ぎ込む。
 マハエだけではない。彼を知る客たちもグラスを取り、赤毛の老人がせめて幸せに逝けた事を祈ってみせる。
「この貴晶石は……どうしたらいい?」
「爺さん家族がいないだろ。……とりあえず、フィーヱの判断に任せようと思うんだが」
 ルードの集落に持ち込むか、他の使い道があるのか。
 それはカイルも良く知らないが、日常的に魔晶石を扱うルード達に預けた方が、より有効な役立て方をしてくれるだろう。
「だな。爺さんもそっちの方が喜ぶだろ」
 ベッドで穏やかに死ぬよりも、冒険の半ば、一人で行き倒れる冒険者の方が圧倒的に多いのだ。そんな中、フィーヱという看取り人が側にいた事は……老爺にとって、いくらかマシな最期だったに違いない。
「……わかった」
 小さく頷き、フィーヱも赤色の貴晶石を元へと戻す。
「で、暗殺竜はどうなったんだ?」
「一匹は色々あって倒せたけど、二匹目は帰り道でも遭ってない。警戒はしといた方が良いと思う」
 暗殺竜は二匹ひと組で行動する事が多い。それを警戒しての、深夜の強行軍だったのだが……幸いな事に、ガディアに辿り着くまでその気配を感じる事はなかった。
「とりあえずちょっと寝てくるわ。……詳しい報告は、また後で良いか?」
 既にルービィなどは、お菓子を片手にうとうとと船を漕いでいる。他の冒険者達も、程度の差はあれ限界なのは変わらない。
「床で良いならその辺で寝てて。忍、フェムトとアシュヴィンを呼んで、みんなでベッドの支度!」
 その様子に、忍たちは慌てて階上へ寝床の支度をしに向かうのだった。


 雨は、静かに降り続いている。
「全く。ルードは繊細なんですから、空ももうちょっと空気読んで欲しいですねー」
 澱んだ空を迷惑そうに見上げながら、呟いたのは十五センチの小さな姿。結い上げた金髪に派手な衣装は、戦士ではなく道化のそれだ。
「……龍まで警護役として居るなんて。運が良すぎるというのも、確かに考え物ですね」
 はるか北方の山岳遺跡まで、たった一日で往復したというのに、道化は疲れた素振りもない。
「老人たちが排除を考えるのも、やむなしという事か……」
「では、どうします? そりゃ精製しても構いませんけど、勝手に重晶石に育ってくれるなら、そっちの方が楽なんですよねー。ぬこたまも、カーバンクルも……」
 言いかけた所で、部屋の扉が静かに開く。
 入ってきたのは、服を着替えた小太りの男である。
「それがマッドハッター?」
 かつて読んだ報告書では、クローン装置を坑道から運び出した時、廃棄したとあったが……。
「捨てたんですけど、半端に色々覚えてて、良い具合に育ってたので使えるかなーと。これで貴女の駒を借りる事も少なくなると思いますよ。……ちょっとは」
 おどけるようなその物言いに、シャーロットは表情を硬くする。
「それで、放浪竜は? 貴晶石は回収出来たのでしょうね」
「ちょっと色々ありまして。倒す事は倒したんですけど、貴晶石は人にあげちゃいました」
「あれだけ私の部下を犠牲にしておいて!?」
 強ばらせた表情から、一気に激昂へ。
 放浪竜の調査や追跡には、彼女の部下が使われていた。無論、音もなく標的に忍び寄る暗殺竜を相手に、払った犠牲も少なくはないのだ。
「そのぶんマッドハッターが使えるって分かったんだからいいじゃないですか。それとも、食われた部下はその前に貴晶石にした方が良かったですか?」
 その口調は、冗談でもおどけているわけでも……ましてや、本気なわけでもない。ただ、呼吸をするように自然に、他人を駒扱いしているのだ。
 くすくすと笑う道化に、侍従長はもはや言葉もない。
「……あまり好き勝手にしていると、処分されても文句は言えないわよ」
「わたしは貴女たち量産品とは違いますから。わたしの力はまだ必要でしょう?」
 ようやく口にしたそんなひと言にも、道化は笑顔を絶やさぬままだ。
 黙ってその場に立っているマッドハッターの肩に飛び乗ると、そのまま部屋を後にする。
「………同じ働き蟻が、何を偉そうに」
 彼等の前では、出自がどうであろうが関係ない。
 いかに存在自体に価値があろうが、彼等にとっての価値がなくなれば……消されるだけなのだ。


続劇

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