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幽霊編
 4.幽霊対峙


 夜の闇の中。
 灯る炎は、昏く、緋い。
「………。……………ッ!」
 混濁する意識の中。虫食いだらけの記憶にまみれてゆっくりと身をもたげるのは、己は何かと問う意思だ。
 どこへ征くべきか。
 何を成すべきか。
 己は、何か。
 だが。
 縋り付いた幽かな手掛かりから示されたのは、拒絶の二文字であった。
 どこへ征くべきかも導かれず。
 何を成すべきかも示されず。
 己は何かも教えられずに。
 ただ拒絶。
 ただ拒絶。
 ただ拒絶。
 その先には至れぬ。至ろうとする事も、許されぬ。
 ならば己は、どうすればいい。
 どうすれば。
「………。……………ッ!」
 己が誰かも分からぬままに。
 言葉にならぬ声を上げ。
 そいつは街を、彷徨い続けるのだ。


 眺めていた街の地図を畳み、背中のザックへと放り込む。
「そろそろ行くか……」
 晴れ渡った夏の夜空には、大樹の生えた月が静かに輝いている。動くにはちょうど良い頃合いだろう。
「マハエ。今日はアシュヴィンが手伝うてくれると聞いておったが……別行動か?」
 辺りを見回しても、それらしき姿は無い。あのアシュヴィンが、集合時間を間違えるなどといったことは絶対に無いはずだが。
「上から偵察を頼んでる。あいつなら飛べるから、幽霊がどんだけジャンプしても追いつけるしな」
 昼間なら、ターニャが手伝いに呼ぶ鳥たちでもフォロー可能な領域だが、さすがに夜はそうはいかない。
 飛行能力を持った味方は貴重だ。マハエ達と一緒に行動するより、彼自身の判断に任せた方が良い場面が多いだろう。
「さて。今日こそ幽霊を追い詰めるぜ!」


 見上げれば、空に掛かるのは白い月。
 街の象徴たる大樹の頂。切れ長の瞳をそっと下界に落とせば、そこに広がるのは住み慣れた彼の街だ。
 既に夜も遅い。もともと漁師の多い地域という事もあり、明かりの灯る家は数えるほどだ。
 瞳を閉じれば、内に広がるのはさらなる闇。
 聞こえる音は、彼方からの波の音。
 そして、穏やかな風の音だ。
 静かに瞳を閉じたまま。
 黒服の元執事はまだ、動かない。


 夜の街に響き渡るのは、柏手の音。
 一拍のそれがもたらす余韻を確かめるように、じっと瞳を閉じていたアギだが……やがて小さく息を吐き、瞳を開く。
「ターニャさん。この辺り、反応ありません」
 その音に引き寄せられでもしたか、彼の足元に小さなネコがふらりと姿を顕わし、愛らしい声でにゃあと鳴く。
 ネコは彼の客ではない。
 脇でアギの様子を見ていた、ターニャに用があって現われたのだ。
「そう。海側にもそれらしい人はいないって」
 礼の代わりに小魚を与え、彼女も静かに立ち上がる。
 今のところはマハエの予測通りだ。
 地道な情報収集と、行動パターンの分析。ようやく見えたその法則性。
「今まで歩いてない所に現われる……か」
 幽霊が姿を見せるのは、ガディアの全域だ。
 しかしその現われる箇所は、一度として同じ場所がない。
 まるで、ガディアという場所そのものを知ろうとしているかのように。
「じゃあ予定通り、森側に行ってみましょう」
 今までの出現地点で、ある程度の場所は埋まった。
 残る出現地点の候補は、彼等で張り込むに足るだけの数しかない。


 ゆらりと現われた影に掛けられたのは、静かな男の声だった。
「久しぶりだな、幽霊の旦那」
 ぐるりと頭を巡らせれば、そこに立つのは冒険者然とした男が一人。
「………。………ッ!」
 マハエが一歩を踏み出せば、そいつは聞いた事もない異音を上げて、脱兎の如く走り出す。
「何だ、あいつっ!?」
 その初動を、マハエは捉える事が出来なかった。
 もしその一撃が逃亡ではなく攻撃であれば、避けきれなかったはずだ。かつて対峙した時は、むしろ鈍重そうにすら見えた初動が……今は、見違えるほどに迅い。
「追えば分かる!」
 そう叫ぶディスは、既に全力疾走の体勢だ。
 人通りのない夜の道。換装した脚武装の出力に物を言わせ、超低空を跳躍する。
「でぇいっ!」
 肩に担いだ大剣から放たれたのは、衝撃の刃だ。
 低空を駆けるそれは、幽霊の足元を的確に切り裂き、相手の動きを封じるはずだったが……。
「外れたじゃと!?」
 まるで背後に目があるかのように、幽霊はギリギリのタイミングで大跳躍。そのまま屋根の上へと跳び上がる。
「……この身のこなし、どこかで……?」
 一瞬浮かぶのは、かつて共に戦った男の姿。
 けれどそれを、ディスは一瞬で否定する。
(まさか……な)
 確かにあの男も、似たような体型だった。そのまま老いを重ねれば、この位の年齢にはなっているだろうが……こんな所で幽霊となって落ちぶれるような男ではない。
「大丈夫か、ディス!」
 背後から掛けられた声に余分な思考を投げ捨てて、新たな思考に切り替える。相手の正体を確かめるのは、捕まえた後にゆっくりとすればいい。
「なるほど、確かにこの機動力は厄介よの。……じゃが!」
 無論、幽霊の機動力は折り込み済み。
 故にマハエはボウガンを構え。
 放たれた矢に繋がったロープを掴み、ディスも空高く舞い上がる。


 男は瞳を閉じたまま、いまだ動く事はない。
 彼方から聞こえたのは、力ある柏手の音。
 続いて聞こえたのは、石畳を蹴散らす衝撃波の音。
 屋根瓦を蹴る足音が近付いて……。
 その音が彼の背後に抜け、低くなると同時。
 アシュヴィンは瞳を閉じたまま、体重の向きを前方へ。
 大樹の先端から一直線に落ちるその身を気にする事もない。
 やがて。
 落下速度が限界に達した所で開かれたのは、彼の瞳と背中の翼。
 落下速度をそのまま飛翔速度へと切り替えて、アシュヴィンは追跡を開始する。


 森へ向かうアギ達の前に現われたのは、一頭の大型犬だった。
 並んで走るそいつが、低い声でひと声鳴けば。
「幽霊、すぐそこにいるって!」
 ターニャの言葉に、アギは短く集中。足を止めると同時、柏手をひと打ちする。
「……えっ?」
「どうしたの?」
 怪訝な表情を浮かべるアギに、ターニャも思わず足を止める。
「いえ……確かに気配は感じるんですが、これって……」
「アリスの気配?」
 一瞬で理解出来るほどの異様な気配の持ち主だと聞いていた。アリスが幽霊を探しているのかは分からないが……仮に鉢合わせても、面白い展開になるとはとても思えない。
「違います。この幽霊……人間ですよ」
 感じる気の流れは、ごく普通の人間のそれだ。


 そいつの眼前に舞い降りたのは、黒い翼。
 浅黒い肌と、夜の闇から抜け出したような黒い衣装。
 その中で、瞳だけが愁いを帯びた金色を持つ。
「やはり……旦那様、でしたカ」
 ボロボロの衣装に、血走った瞳。肥満気味の体は飢餓状態が続いたためか奇妙な痩せかたを見せ、今のそいつの持つ異様な雰囲気に拍車を掛けていた。
 それでも、かつて青年が仕えた男の面影は残っている。
「………。………ッ!」
 叫ぶ言葉に、意味を汲み取る事は出来ない。
「……逃がしマセン」
 アシュヴィンの背後には、木々がまばらに生えた林が広がっている。そこに逃げ込まれれば、アシュヴィンの空を飛べる強みは大きく殺されてしまう。
「旦那様……アナタは、本物の旦那様なのデスカ……?」
 半年も前の出来事はいとも容易く忘れてしまう、いつもアシュヴィンの目を盗んで遊びに行く事しか考えていないような変わり者の男だったが……それでも青年は、彼の事が嫌いではなかった。
「………。………ッ!」
 問い掛けの意味を理解しているのか、いないのか。
 男の叫びは、意味を成さぬまま。
「…………」
 本物の主ならば、少なくとも返答に意味は持つだろう。やはり目の前の『これ』は、主の情報を元に作られた複製なのか。
 アシュヴィンに生まれたのは、一瞬の迷い。
「………ッ!?」
 故に、反応が遅れた。
 慌てて伸ばした手の先は、爪一枚分だけ届かない。
(抜かれた!? この、ワタシが……?)
 崩れた体勢を立て直し、翼を拡げようとするが……幽霊が逃げ込んだのはアシュヴィンの背後に広がっていた木々の中。
「アシュヴィン!」
「森の中ニ!」
 ようやく駆けつけてきたマハエ達に地上からの追跡を任せ、アシュヴィンは今度こそ翼を拡げる。
「ちっ。しっかり頭ァ回ってるじゃねえか!」
 林に逃げ込んだのは偶然か、それともアシュヴィンの特性を見極めての事か。
 そのどちらと取るかで、幽霊に取るべき次の一手は、大きく変わってくる。


 男が提げるのは、古ぼけた片手剣と円形の盾だ。
「これ、ホンマに聖別されとんのやろな!」
 刃そのものはそれなりに研がれているようだが、刀身自体にはところどころ錆が浮かんでおり、いかにも心許ないものだ。
 盾の方も似たようなもので、強い一撃を受ければ脆い辺りから砕け散っても不思議ではない……そんな微妙な雰囲気を漂わせている。
「されてるされてる。……多分」
「何か言うたか」
「別にー」
 細かい所だけはちゃんと聞いているらしいネイヴァンのツッコミに、ミスティは心の中で小さく舌を出す。
 聖別した武器があれば幽霊と戦えると言うから、それらしき記憶のある武器を倉庫から引っ張り出してきたのだが。
「あ、いた!」
 そんな事を話しながら街を歩いていると、目の前の林から何かががさりと姿を見せる。
「あれが幽霊!? ただの汚いオッサンやないか!」
 どうやら向こうもこちらに気付いたらしい。慌てて身を翻し、木々の奧へと戻ろうとする。
「って逃がすかぁ!」
 ネイヴァンは構えていた刃を一瞬で左に持ち替えると、大きく振りかぶって何かを幽霊に投げ付けた。だがそれは幽霊に当たることなく、林の奥へと大きく放物線を描いて飛んで行き……。
「ッ!」
 その場を照らし出すのは、真昼の如き閃光だ。
 瞳を灼かれて動きを止めた幽霊に、ネイヴァンは一瞬で距離を詰め。
「ヒャッホオオオオオオオオイ!」
 左の盾を大きく振り抜き、力任せの一撃を叩き込んだ。
「ア…………シュ………………ッ」
 閃光弾で無防備になった所に、全力疾走のスピードとネイヴァン自身の体重を全て注ぎ込んだ一撃である。吹き飛ばされた幽霊は脇の木に打ち付けられて、苦悶の声を上げて崩れ落ちた。
「あんた、なに本気でぶっ叩いてるのよ」
「ナニて、あそこでああ逃げられたら追撃仕掛けてしまうやろ! 冒険者的に!」
 どこからともなくサングラスを取り出して閃光を防いでいたミスティに、やはり瞳を閉じて閃光を避けたネイヴァンは反射的にそう言い返す。
「それに…………峰打ちやで、ちゃんと」
 途中で自分のした事に気が付いたのだろう。申し訳程度に、そんなひと言を付け加えた。
「なんでそこで視線を逸らすのよ」
 そもそもルービィばりのシールドアタックを仕掛けておいて、峰打ちも何もないのだが。
「こっちです!」
「ネイヴァン、ミスティ! ……うお。やったのか」
 やがて森の奥からアギやマハエ達がやってきた。アギの能力で幽霊を追っていた所で、閃光弾の輝きを見つけたという辺りだろうか。
「青髪が聖別された武器ぃ持っとる言うたからな」
「そうなのか……」
 聖別された武器など、余程のツテがなければそうそう手に入るものではないが……何せ相手はミスティだ。そんなルートのひとつやふたつ、持っていても何ら不思議ではない。
「大丈夫なのデスカ?」
 上空から降りてきたアシュヴィンは、既に倒れた幽霊の様子を看始めている。
 幽霊と呼称されてはいるが、実際は実体を持つ相手だ。単に気絶しているだけらしく、呼吸も脈拍も目立った異常は見られない。
「で、こ奴は何か言うておったか?」
「倒れる時に、アシュなんとかって言うとった気がするけど、よう分からんかったな」
 それが意味を持つ言葉なのか、そうでないのか。
 ネイヴァンにとっては、さして興味のない事だった。
「なら、とりあえず起きるまで様子見だな。『月の大樹』の納屋、使って良いか?」
 退治するのは簡単だが、終わらせてしまえばそれまでだ。マハエは不安げな表情を浮かべているアシュヴィンを一瞥し、そうに問いかける。
「……アリガトウゴザイマス」


続劇

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