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幽霊編
 3.波打ち際の歪むスガタ


 街を漂うのは、一人の娘の名前だった。
 ノア・エイン・ゼーランディア。
 隣国から来たという、神を宿すと称される姫君だ。
 上手く回らぬ唇と舌で、その名を声に出してみる。
「…………。…………………っ」
 口に出たのは、半ば意味を成さぬ音だけだ。
 何度も何度も口にしても、それは正しい発音には至らない。
 だが、頭の中をよぎる名は、そいつには正しく認識されている。
 あの屋敷に住まい、今もこの街にいるのだという。
 口にする。
 思い描く。
 何度も何度も異音を口にしていれば、近くを通りがかった犬がじろりとこちらを睨み付けてきた。
「………………ッ!」
 叫びに混ざる強い意思を解したのだろう。犬はびくりと身を震わせて、その場を一目散に後にする。
「…………ノ……………ア………ッ」
 異音を止めぬ唇と、その瞳に宿るのは、淀みの色だけでは……もう、ない。


「アリスに会ったぁ?」
 昼の喧噪の落ち着いた『夢見る明日』に響き渡るのは、そんなターニャの驚きの声だ。
「アリスってあれだろ? ルードの貴晶石を盗って回ってるっていう」
 確か先日『月の大樹』で動作を停止したルードが追っていた、お尋ね者のルードだったはず。
「よく無事だったわね……」
 一歩間違えれば、ディスのそれも同じ目に遭っていただろう。無事であった事は運が良いとしか言いようがない。
「日頃の行いが良いからの」
 だが、彼女のそれに返されたのは、どこか冷ややかな視線の群れだ。
「……冗談じゃ。コウがおらなんだら、危なかった」
 そう呟いて視線を寄越すのは、店の隅で外を眺めているルードの少女である。何か考え事でもしているのか、向こうはこちらに気付く様子もない。
「助かって何よりですが……何なんです? 『あれ』」
「あれとは……アリスの事か?」
 皿洗いを終えて戻ってきたメイド服の少年の表情は、素直にディスの無事を喜ぶターニャ達とは明らかに質の違うものだ。何か恐ろしい物を思い出すような様子で、少年は小さく頷いてみせる。
「はい。僕もそのルードの近くまで行きましたけど……。まるで、ルードが何百人もまとめて居るような……」
「………どういう意味じゃ?」
 アギが周囲の気配を感じる技を身に付けているのは知っていた。それを使えば、隠れている相手やルードさえも見つける事が出来るのだと。
「ちょっと説明しにくいんですが、貴晶石の気配が何百個もあるというか……そんな感じで」
 レーダーで、たった一点に数百の反応があるという感覚だろうか。ディスだけは何となく理解するが、そのどちらも使った事のないマハエ達は不思議そうな表情を変えないままだ。
「わらわ達の胸には、貴晶石は三つしか入っておらぬぞ。あ奴も、そう何百も持っておった様子はないし……」
 道化の服は確かに派手だったが、貴晶石を幾つも持っていたならいくら何でも分かるだろう。ましてや数百も持っているなど、あり得なかった。
「だから、分からないんです……」
 ルードの胸に納まっている貴晶石と、持っているだけの貴晶石では、放つ力の質が明らかに違う。ただ持っているだけなら、あの時のような異様な存在感を示すはずがない。
「それだけ、あたし達ルードの怨念に包まれてるって事じゃないのか? 一体どれだけルードの貴晶石を抜き取ってきたんだか」
 古代の超科学の結晶であるルードにしては随分と非科学的な物言いだが……いま一行が追っているのは幽霊である。ルードが化けて出るのかどうかはこの際置いておくとして、コウの言い分もあながち冗談ともいえないだろう。
「考えても分からぬ事は、誰かに聞くしかなかろうな。で、マハエの方はどうじゃった」
 霊媒師も死霊術士もいないのだ。謎の存在感の件は、どれだけ考えても答えは出ないだろう。ディスが問うたのは、別行動を取っていたマハエである。
「ガキどものイタズラだった。ネイヴァンに追っかけられまくって、もう二度とやらないって泣いてたけど」
 子供たちは遊びかもしれないが、こちらは生活が掛かっているのだ。それで仕事がなくなっては、たまったものではない。
「じゃあ、幽霊の正体は……」
「あいつらはただの便乗犯だよ。本物は別にいるみたいだ」
 実際に昨晩も、別の場所での目撃証言はある。街の地図には、新たな証言の得られた場所にも既にピンが打たれていた。
「行動が読めねえな。こないだまでは高台の周辺をウロウロしてたんだが……」
 最近の目撃情報は、別の場所に移っている。昨夜の便乗犯もそのおかげで捕まえる事が出来たのだが……彼等も高台周辺には足を伸ばしていないと言っていたし、そちらは別の便乗犯なのか、本物が出現場所を変えただけなのか。
「ねえ。この跳躍する影ってのは……?」
 昨日の目撃情報の一つだ。街の屋根の上を物凄い勢いで駆け抜ける影が見えたのだという。
「……僕ですね。たぶん」
 昨日のアリスから逃げる時の事だろう。見られて特に困るものではないが、幽霊扱いされるのは微妙に忍びない。
 たぶん幽霊を追う別の冒険者達の間では、幽霊の新たな行動パターンとして認識されているに違いなかった。
「さて。片付けも終わったし、ちょっと海にでも行ってこようか」
 表にCLOSEDの看板を掛け、ターニャは小さく伸びを一つ。ディナーの営業時間まで、しばらくは休憩時間である。
「……浜辺でコンテストだっけか」
 そういえば、『月の大樹』で何かイベントがあると聞いたような……。
「おお、そうじゃ。忍に行くと約束しておったのじゃった」


 降り注ぐ陽光。
 飛び散る波濤。
「ヒャッホォォォォォイ!」
 海はまさに、今が最も熱く遊び倒せる時期であった。
「いやだーっ! いやなのだーっ! 海なんか入ると溶けちゃうのだー!」
「バカ言いな! こないに楽しいの、楽しまん奴は勿体ないで!」
「いーやーなーのーだー!」
 ……若干、全力投球で嫌がっているのもいたようだが。
「おー、やってるやってる!」
 砂浜には既に巨大な門とも看板ともつかぬものが運び込まれており、後は開始を待つだけらしい。
「何なんだ? 水着……コンテスト?」
 革細工職人を巻き込んだ水着の品評会なのだろうか。実行委員長は忍だと聞いていたから、古代に行われていたイベントの一つなのだろうが……詳しい事は、マハエにもよく分からない。
「あら。マハエも見に来たの?」
「………!?」
 その声に振り向けば、そこにいたのはミスティとアルジェントだったが……マハエはそこで、返す言葉を失っていた。
「あ、えっと……」
「あぅぅ………」
 慣れぬ水着姿に戸惑っているのだろうか。
 マハエの視線にアルジェントは口の中でもごもごと何か呟くと……そのままぱたぱたとどこかへ駆けて行ってしまう。
「……いくらアルジェントが美人だからって、あんまりじろじろ見るのは失礼でしょ」
 苦笑するミスティも似たような格好だが、マハエや周囲の視線に動ずる気配もない。いつも通りにビーチチェアに身をもたせかけ、ゆったりとくつろいでいるだけだ。
「そ、そんなんじゃねえや。ビックリしただけだよ」
「着やせするタイプみたいだしねぇ」
「だーかーらー」 
 そもそも水着というのは、水中の防護服的な道具ではなかったのか。ミスティやアルジェントのそれはどちらも呆れるほどに小さく、防具と言われても誰も信じはしないだろう。
 だが。
「あら。マハエさんも来て下さったんですの!」
「いや、俺はディスとアギを連れてきただけ…………」
 コンテスト会場からこちらに駆けてきた忍の姿に、マハエは今度こそ言葉を失っていた。
 もはや防具でも何でもなかった。
 たぶん、下着と言われても信じないだろう。
「……忍。水着コンテストってのは……こういう事なのか?」
 忍の余りの破壊力に、あからさまに視線を逸らしながら。マハエは口の中でもごもごとそう問いかけるのが精一杯だ。
「こういう事って……他に何が?」
 古代人の考える事は分からない。
 そう思いながら、マハエはとりあえずその場を離れるのだった。


 会場を少し離れたマハエに掛けられたのは、ディスの声だ。
「準備出来たぞ!」
 ディスはまあいい。ミスティやアルジェント辺りとほぼ同じ格好だから、ある程度慣れていた。
 そもそも十五センチのルードがどんな格好をしていても、さすがに動じるマハエではない。
 だが。
「アギ……お前、何て格好を……」
 アギが着ているのも、ディス達とほぼ同じデザインの物のようだった。
 ようだった……というのは、上はフードの付いたパーカーを着ており、上半身がどうなっているかよく見えなかったからだ。裾からちらりと覗くパレオはミスティ達のそれと同じデザインだから、上も恐らく揃いなのだろうが。
「なんか変ですか?」
「脱がんで良い! 脱がんで!」
 先ほど海岸でネイヴァンが着て遊んでいたのは、全く違うデザインの水着だった。それが男物だとすれば、こちらは女物なわけで……。
 それは黙っていた方が、アギのためだろうか。
「でも、これも街にお客さんを取り戻すためだって……。忍さんやミスティさんが、これなら勝てるって」
 何に勝つのかは正直微妙な所だったが……それが口実だという事だけは、百パーセント明らかだった。
「それに……遊ぶアピールも大事だと思いますし……」
 誰かが楽しく海で遊んでいれば、それが呼び水になるだろう。そこから少しでも海水浴客を取り戻せれば……という思いも、アギにはある。
 故にこうして、忍のイベントにも協力しているのだ。
「分かった。分かったからその格好でもじもじすんな……」
 何というか、忍のそれとは別ベクトルでの破壊力があった。そんな嗜好はないはずなのに……と、マハエは内心頭を抱えてみせる。
「えっと、確かこういう時に古代の風習ではこうするんじゃよな!」
 マハエの様子に困ったような表情を浮かべるアギの背後に回り込んだのは、十五センチの小さな影だ。
 熱い砂を強く蹴り、広がる裾からパーカーの内側へ鋭い跳躍をしてみせる。
「ポロリもあるよ!」
 高らかな叫びと共にアギの胸元からはらりと落ちたのは、女物の水着のトップだ。
「ひゃぁぁっ!」
 湧き上がる周囲にアギは慌ててパーカーの前を寄せ、反射的にその場にうずくまってしまう。
「って、僕男なんですってばぁ!」
 もちろんそんな悲痛な叫びは周囲の歓声にかき消され、誰の耳にも届く事はない。
「いいからその格好でもじもじすんじゃねえっ!」
 古代人どもの考える事は本当に分からない。
 マハエは今度こそ、その場で頭を抱えるのだった。

「エントリーナンバー一番、アルジェント・レインさんですーっ!」
「よろしくお願いします」
 ようやく始まった水着コンテストを、観客の群れから離れた所で眺めながら。
「ミスティ。そういや、例の写真ってどうなったんだ?」
 マハエが問うたのは、コンテストの司会から出されていた依頼の事だ。確かミスティも、技術面でそちらに協力していたはずだが……。
「さあ。朝、律が来て現像作業してたみたいだけど」
「みたいって……鍵くらい掛けろよ」
 みたいという事は、良く知らないのだろう。
「ウチに盗みに入るような度胸のある奴なんかいないって」
 盗賊の最も大事な仕事は、事前の調査である。そこで安全かつ確実に盗める見込みが立って、初めて行動を起こす。
 まともな盗賊なら、普段から爆発だの魔法の暴走だのを平然と起こすような場所に入りたいとは思わないだろう。
「仕掛けてある罠の効果も見たいから、入ってきてくれていいんだけどね」
「……そういう意味じゃなくてだな。ってか罠仕掛けてるのかよ」
 呆れたように小さく呟けば、ステージから聞こえてきたのは元気の良い声だ。
「四番、ターニャロッタ・フォルセル! 一曲うたいまーす!」
 一応は水着姿のようだが、抱えている楽器のおかげで格好がほとんど分からない。
「……ターニャの奴、演芸大会と間違えてねえか?」
 それでも拍手と共にターニャは一曲しっかり歌い終え。
「続いてエントリーナンバー五番、ネイヴァン・アスラーム・ジュニアさんうぃずネコさんですわ!」
 次に上がってきた、なぜかネコを抱えた青年に起こったのは、壮絶なブーイングの嵐だった。
「男も……っていうか、ネコも出られるのか……」
 そういえば、年齢や性別の制限も特に無かった事を思い出す。
 よく考えれば司会兼運営委員長が忍なのだから、何でもありと考える方が自然だった。
「お主も出れば良かったの、マハエ」
「そんなんじゃねえよ」
 エントリーナンバー三番として出ていたディスの言葉に、苦笑いをしてみせる。
 そもそもマハエが出たら、ネイヴァンのブーイング程度では収まらないだろう。そのくらいの自覚は、ある。
「あ! マハエー! 聞いてくれよ、酷いんだぜ!」
 そんなマハエに掛けられたのは、知った顔の声だった。
「………お前」
 律である。
 それはまあ、いい。友人だから、声くらい掛けられても当然だ。
 昼過ぎに『夢見る明日』に行った時にはいなかったから、非番だったか、朝か昼の交代が終わった後に遊びに来ていたのだろう。
「この格好じゃ出場禁止って言われちまったんだ。ひでえと思わねえか!」
「……それは、審査員が正しいと思うぜ」
 だが、ひらひらした真っ赤な腰布を正面から垂らしている律の姿に、今このタイミングではあまり声を掛けて欲しくなかったとため息を吐く。
「ネイヴァンさんとネコさんは、何か一芸をして下さるとか!」
「いやなのだ! 放すのだ! 放さないと死ぬのだ!」
「おう! ってそこブーイングすんなや! こいつは見所満載のネタなんやから!」
 ネコを抱えた力強いネイヴァンの言葉に、延々とブーイングを続けていた観衆たちも少しずつその声を落としていく。
「お前らも聞いた事あるやろ! 『岩場を力任せにガツーンてやったら、魚がプカーて浮いてくる』現象!」
 辺りに漂うのは、聞いた事があるという共感が半分、何を言っているのか分からないという困惑のどよめきが半分といったところか。
「……海の国辺りの漁法じゃったかの」
「あたしは初耳ね」
 マハエの回りも、反応はそれぞれだ。もちろんマハエは漁港の民、噂くらいは聞いた事があった。
「それを今から、見せたるで!」
 高らかな叫び声と共に取り出したのは、手のひらに乗る小さな樽だ。
「あら。あれ……」
 ミスティがそう呟く間もなく、ネイヴァンはリントを抱えたままステージを駆け出し、二つに割れた観客の間を駆け抜け、サンダル履きで岩場を蹴って高らかに跳躍する。
「セット! オン!」
 岩場に設置された樽に灯るのは、時限発火の小さな炎。
「ネイヴァン。それ、火薬を限界まで入れた強力な奴だから、扱いには気を付けてねー」
 確か補充で作った中で、余った火薬を全部詰め込んだ物のはずだ。追加の爆弾の中でもかなり奥の方に置いてあったはずだが、なぜよりにもよってネイヴァンが持ち出しているのか。
 それもピンポイントで。
「放すのだ! っていうかボクはネコじゃないのだ! 訂正するのだー!」
「ミスティ! 何か言うたか! このネコの悲鳴で聞こえへん!」
 何か言っているらしい事は見えるのだろう。けれど、その先の言葉は明らかに分かっていない。
「だーかーらー!」
 ミスティのその叫びと、導火線が根元まで焼き切れるのは全くの同時。
 岩場に、真っ赤な火柱が上がり。
「なあ………」
 やがて。
「………うむ」
 岩を伝った衝撃で気を失った魚たちが、辺りにプカーと浮かんでくる。
「うみが……ばくはつしたのだ………」
 ついでに、真っ黒焦げの男とネコの体も、プカーと浮かんでくる。
「では続いてエントリーナンバー六番!」
「無視したな」
「無視したわね」
「無視したのう」
 もちろんステージから遠く離れたこの場の声など、司会の忍には聞こえるはずがない。
 ステージの上。ギャラリーの視線を一身に受けながら、忍は次の出場者の名を高らかに口にする。
「アギ・アヒトさんですーっ!」
「…………知らないってのは、幸せな事だよなぁ」
 もじもじと現われたアギに空前の湧き上がりを見せる観客たちを眺め、マハエは疲れたようにそう呟くのだった。


続劇

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