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ノア編
 7.ひとときの不幸、束の間の幸福


 フードをゆっくりと取ったアルジェントを見て、ノアは静かに息を呑んだ。
 白い肌、銀色の髪、紅の瞳。
 向かい合わせに立つのは、彼女自身と同じ顔。驚くのも無理はないだろう。
「そうですか。……貴女だったのですね」
 しかしノアの表情は、単純に驚いたというよりも……どこか諦めの色の漂うものだ。
「今は、アルジェント・レインと名乗っております」
 だが、ローブの女性の名乗りに、ノアは僅かに眉根を寄せる。それは、自身と同じ顔を見た瞬間よりも驚いているようにアルジェントには見えた。
「アルジェント? この屋敷に運び込まれている『三人目』が目覚めたのかと思いましたが……違うのですか?」
「三人目?」
 次が三人目なら、目の前の彼女は二人目という事か。
(なるほど。だから、大丈夫だけど、大丈夫じゃない……)
 恐らくナナトが看取ったのは、『一人目』なのだろう。記憶のやり取りは何らかのレガシィか、魔法の儀式でも行ったに違いない。
「それもご存じないのですか? ならば、記憶の受け継ぎもまだ……」
「記憶の受け継ぎはしていません。『神を宿す』為の儀式は受けましたが……プリンセスもやはり、神を宿して?」
「それはオリジナルのノア姫の話だと聞いています。複製の私には、残念ながら神は宿りませんでしたから」
 そこまで言って、ノアは言葉を止める。
 記憶を受け継いでいない、自らと同じ顔を持つ存在。だが、神を宿す儀式の事まで知っているということは……。
「……まさか、貴女は」
 だが、その問いを遮るように聞こえてきたのは、屋敷の外からの喧噪だ。
「殿下とはゆっくりお話ししたい所ですが、そういう状況でもないようです。……もし殿下さえ宜しければ、信頼出来る味方を用意しています。しばらくナナトと共に、街に身を隠していただきたいのですが」
 アルジェントの言葉にノアは僅かに表情を輝かせるが……それだけだ。
 僅かにうつむき、小さく首を振ってみせる。
「もしそれが叶うなら、ぜひこちらからお願いしたい所です。……しかし私も、複製品とはいえ草原の国の未来を預かる身」
 ノアがガディアまで来たのは、ただの視察やバカンスではない。草原の国の運命を左右すると言っても過言ではない、製塩の技術を学びに来たのだ。
 ナナトとの穏やかな時間を過ごせるというのは、彼女にとっても魅力的な提案ではあったが……それを秤に掛けるほど、彼女は愚かではなかった。
 故に、アルジェントは静かに膝を折る。
「無論、視察までにはお戻り下さいませ。それまでの間は、この私めが代役を引き受けましょう」

 そうしてノアとナナトを送り出したのが、昨日のこと。
「……大変なのね、姫様というのも」
 ここは出先だから、領内にいる時よりもすべきことは少ないはずだ。けれど間断なく訪れる来客の対応や次々と生まれる雑務に追われ、アルジェントは休む暇もない有様だった。
 草原の国の姫君は、父王たる遊牧王に負けない程に領内を歴訪していると聞いていたが、普段はこれよりも忙しいという事なのだろうか……。
「どうかなさいましたか? 殿下」
 そしてさらなる問題は、目の前にあった。
 草原の国は遊牧民の国であり、当然ながら食事もその流儀に則ったものだ。故にテーブルの上に並ぶのは、彼の地の主食である羊肉やチーズが基本となる。
 それは菜食が基本の彼女にとって、拷問に等しい。
「……今日は食欲がありませんので、部屋に戻っても構いませんか?」
「長旅でお疲れでしたら、何か食べやすい物を用意させますが」
 草原の国の基準の食べやすい物と言われても、乳粥や馬乳酒あたりしか浮かんでこない。確かに栄養はあるのだろうが、アルジェントにとっては言うほど食べやすい物ではなかった。
「不要です。……そうだ、シャーロット」
「何でしょう」
「私のオリジナルというのは、どういう方だったのです?」
 ノアの話しぶりでは、彼女が二人目である事は、邸内の主要な人物は知っているようだった。
 恐らく目の前の彼女も、真実の一端を知る者のはず。
「私がお仕えしたのは、先代の殿下からだったのは……ご存じでしょう?」
「それはもちろん覚えていますが」
 先代の殿下とは、『一人目』の事だろう。ガディアに来ている二人目のノアにも、その記憶は受け継がれているはずだ。
「……幼い頃に神降ろしの儀式を受け、その後に行方不明になったとしか」
 無言で続きを促すノアに根負けしたのか、シャーロットはそれだけ呟いて小さく首を振ってみせた。彼女が知る所も、そこまでで限界……という事なのだろう。
「神……私には宿らなかった神とは、どんな神だったのでしょうね」
 内なる声は、自身の事を語ろうとはしない。
 漠然と『神』という認識はあるが、どこからやってきた、いかなる由来を持つ神なのかは……今もってなお、アルジェントも知らないままだ。
「それも何とも。あの老人達から儀式の説明を受けた姫様の方が、よくご存じなのでは?」
(あの老人達が何も説明をしなかったから、聞きたいというのに……)
 老人達というのは、儀式を執り行った術師達の事だろう。だが彼等は、アルジェントに儀式を施した際も、彼女に何も教えようとはしなかった。
「…………部屋に戻ります。タイキ」
 そう言い残して静かに席を立てば、脇で待機していた天候魔術師が椅子を引き、そのまま出口までの案内をしてくれる。
「タイキ。塩田視察のある明日の事は分かっていますね」
「はい。お任せ下さい」
 食堂に残ったシャーロットに一礼し、タイキは静かに扉を閉めた。


 ノアの屋敷は、ガディアにかつて居を構えていた貴族の屋敷を流用したものだ。典型的な木立の国の建築様式で建てられたそこは、一階は食堂やホールなどの公の場所、二階は住人の部屋などの私の場所として分けられている。
 階段を上がり、ノアの部屋に至る長い廊下を中程まで進んだ所で、ノアは前を歩く少年を小さな声で呼び止めた。
「……タイキ」
 一瞬遅れてタイキは足を止め、不思議そうに振り返る。
「……後で『月の大樹』に行って、アシュヴィンに何か料理を作ってきてもらって頂戴」
 唐突にノアの口から出た言葉を、タイキは一瞬理解出来なかった。いや、もう一度その言葉を頭の中で確かめても、理解出来なかったのだが。
 当たり前だ。
 なぜノアの口から、『月の大樹』どころかアシュヴィンの名まで出てくるのか。
 頭を抱えているタイキの様子に小さくため息を吐き、ノアはタイキに顔を寄せる。
「……私よ、私。アルジェント」
「はあああああああ!?」
 驚いたのはアルジェントの方だ。慌ててタイキの口を押さえつけ、回りに異変がないか確かめる。
 とりあえず、周囲に気付かれた様子はないらしい。
「……うるさい。気付かれるでしょ、ダイチ」
 ダイチが落ち着いたらしいのを確かめて、そっと押さえていた手をどけてやる。
「つか、え、なんで? 本物の姫様は!?」
「色々あるのよ。アシュヴィンは事情を知っているから、とりあえず何か食べる物をもらってきて」
 もともと目立った振る舞いをしていないアルジェントだから、姫が周囲に気付かれる事はないだろう。旅の治療術士という性質上、街の医者の手に余るような事件でも起きない限り、無理矢理に駆り出される事もないはずだ。
「てか、なんでオイラってバレたの!」
 真顔のダイチの問いに、アルジェントはさらにため息を一つ。
「草原の国の料理をあれだけじっと見てれば、嫌でも気付くわよ……」


「姫様。一足す一は」
 掛けられたセリカの声に、ノアは僅かに思考して……。
「二、ですか?」
 答えた所で、目の前の箱がシャッターを切る。
 写真というモノを撮影する、カメラという機械らしい。変わったレガシィもあるものだと思ったが、どうやらレガシィではなく、古代人の知識を元に現在の技術で再現したものなのだという。
「姫様、表情が硬い。もうちょっと笑って」
「え、ええっと……? ナナト、どうすればいいの?」
 周りにいた誰もがセリカの方が表情が硬いと思ったが、当事者のノアはそれどころではない。
「うーん。わかんない」
 困ったように膝の上のナナトに問うものの、『とくとうせき』に座るナナトが的確な助言など出来るはずもなく。
「忍……さん?」
「こうですわ」
「あぅぅ……」
 隣に座っていた忍に助け船を求めるが、忍の答えも極端に漠然とし過ぎたものだった。
 だが、どうしようかと思った瞬間。
「その顔、すごくいい!」
「ふえ……?」
 ぱしゃりと切られるのは、セリカのカメラのシャッターだ。 
「姫様。お隣、ありがとうございました! 綺麗に撮れてたら、焼き増ししてお送りしますわね!」
「ええっと、ありがとうございます。よく分かりませんが、楽しみにさせていただきますね」
 満面の笑みの忍に、ノアもどこか困ったような笑顔でそう返す。
「ただいまー。……ちょおま、何や面白そうな事しとるやん! 俺も混ぜぇ!」
 そんな中、酒場に戻ってきたのはネイヴァン達だ。もちろん撮影会をしているのを目にするや、大股でこちらに駆け寄ってくる。
「あ、良かったらネイヴァンさん達も一緒にどうぞ!」
「そういえば、写真撮られるのは初めてね……」
 忍にカメラを向けられながら、ミスティは今更ながらにそんな事を呟いた。テスト撮影などは何度も行ったが、よく考えれば自分の姿を撮った覚えがない。
 もちろん律達に渡した後は、撮影に関してはノータッチである。
「これ、魂吸い取られたりしないわよね」
「……あなたが作ったんじゃないの? ミスティ」
 そんな危ない機能を備えているなら、暗殺にも使える……。そんな事を考えながら、セリカはさらにシャッターを切る。
 当たり前だが、ミスティの魂は吸い取られたりはしなかった。
「あたしはいい……ってこらネイヴァン、放せっ!」
 そんな中でただ一人、さっさと階上の自室に戻ろうとしていたコウだが……ルード用の通路に飛び乗る前に、するりと伸びてきた手に掴まれてしまう。
 両手ごと押さえられていては、逃げる事も出来ない。
「ええからええから! ほれ、みんないくで! ヒャッホォォォォォイ!」
「え、それ、言うんですか……?」
 場の雰囲気を楽しんでいたノア姫も、その叫びには流石にヒキ気味だ。
「当たり前や! ほれ、せーの!」
 だが、元気よく叫ぶネイヴァンに力任せに押し切られ……。
「ひゃ、ひゃっほ……い?」
 おそるおそる、そう叫んでみせるのだった。


 そんなノアの様子を眺めながら。律が声を掛けたのは、隣の席でワインをちびちびと舐めている少年貴族だ。
「……あれ、いいのか? ダイチ……じゃなかった、タイキだっけ?」
「構いません。あんなに楽しそうにしている姫様は、久しぶりに見ましたから」
 今度は忍がカメラを構え、ノアの隣にはセリカが座っている。ノアも酒場のノリに慣れてきたのか、先ほど硬いと言われた表情もだいぶ柔らかくなっていた。
「本当なら、兄が姫様の側近になって、姫様を和ませてくれればと思ったのですが……」
 もちろん、休みたいと思ったのは否定しない。
 ただ、ナナトが姿を消して以来、ノアが暗い表情をする事はとみに多くなっていた。代わりにシャーロットが連れてきた道化もその表情を晴らす事が出来ずにいたが……楽天的な性格の兄なら、彼女にも良い影響があるのではないかと思ったのだ。
 彼の目論見は結局空振りに終わったわけだが、こうしてノアは笑っているし、結果オーライといった所だろうか。
「兄貴と全然似てないな」
「よく言われます。……たぶん、足して二で割ればちょうどいいくらいになったんだと思うんですけどね」
 苦笑しながら姫君の様子を見れば、今度はカメラマンは二足歩行するネコに変わっていた。
「姫様! 今度はこっちを向いて欲しいのだ!」
「えっと、こうでいいですか? ネコさん」
「完璧なのだ! でも、顔がよく分かんないから、もっとこっちを覗き込んでほしいのだ!」
 持て余し気味のサイズのカメラを構えた様子が微笑ましいのだろう。リントの指示通り笑いながらレンズを覗き込むノアに、リントは力一杯シャッターを切ってみせる。
「こらリント! テメェ、アングルが下過ぎるだろ! 何考えてんだ!」
「そんな事言われたって、りっつぁんみたいに高い所からなんて撮れないのだ!」
 確かにリントの身長的に、上のアングルから撮るのはテーブルの上にでも登らなければ不可能だ。もちろんネコではないのだから、マナー的にそんな事が出来るはずもない。
「つか図々しいぞ! おっちゃんも姫様の写真撮りたいっつの!」
 隣の律も勢いよく立ち上がると、カメラを構えてノア達の所に突撃する。
「タイキ。貴方も撮ってもらいなさいな」
「え、僕はいいですよ……」
 だが、タイキに伸びてきたのは律の腕だ。天候魔術師の細い腕をがしりと掴み、ずるずると引き摺っていく。
「ついでだからお前も撮ってやる! ほれ、姫様とのツーショットだぞ!」
「えええええっ!」
 そんな恐れ多い。
 全力で辞退しようとするタイキだが、力自慢の冒険者と上機嫌のノアの前で、そんな事が許されるはずもないのだった。

「ああ、楽しかった!」
 写真撮影もひと息ついて。席に戻ってきたノアは、グラスに残っていたワインを軽くあおってみせる。
 ワインはだいぶぬるくなっていたが、渇いた喉にはそれでも十分に心地良い。
「良い顔をしておるの」
「ありがとうございます」
 傍らのモモから掛けられた労いの言葉にも、柔らかく微笑んでみせる。既にそこには、先ほどセリカから言われたような硬い表情はどこにも残っていない。
「おっと。一国の姫君に失礼じゃったの。正しい礼を取らぬ非礼、平にご容赦を」
「おやめ下さい。龍族のかたにそんな事を言われては、恐縮してしまいます」
 ノアはごく自然にそう答えるが、モモの方は意外だったのだろう。僅かに目を見開き、ほぅ、と小さく感嘆の言葉を転がしてみせる。
「さすが神を宿すと言われた姫君。……噂に違わず、賢しいようじゃな」
 小さく頭を下げた後……戻した表情は、いつもの不敵なモモのそれだ。
「ならば近付きの印に、一杯どうじゃ? 先ほどの呑み振りからすれば、あの禁酒娘と違うて、そこそこいける口であろ?」
「ふふっ。いただきます」
 向けられた笑顔と差し出されたボトルにノアも嬉しそうに微笑んで、そっとグラスを差し出してみせる。
「じゃが、いつ気付いた?」
「領内で、龍族のかたにお会いする事も多いので……勘のようなものです」
 そんなモモの視線の隅に入るのは、カウンターに置かれたままのディスの本。
 龍とさる国の姫君の辿った、数奇な運命を記す物語だ。
 確かその物語も、こうして酒場での出会いから始まったはずだが……。
(さて。この出会いは、どうなってしまうのかの……)
 そんな事を想いながら、モモもノアから注いでもらったグラスを静かに呑み干してみせるのだった。


続劇

< Before Story / Select Story >

→遺跡調査へ出掛ける
→幽霊の調査に向かう

→翌朝を迎える


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