-Back-

魔物調査編
 2.戦果、二つ


 森をゆっくりと北へと向かいながら、ナナトはその場でくるりと振り向いた。
「ねえねえ、おねえさん」
 遊び気分で歩いているからだろうか。幼子のナナトが、疲れたとぐずり出す気配はない。
 もっとも、単純に昼食休憩を挟んだすぐ後だから……かもしれなかったけれど。
「おねえさんって、なんでげぼくの匂いがするの?」
「それは……何でかしらね?」
 むしろその答えは、アルジェントの方が聞きたいくらいだった。
 自らと同じ匂いのする相手。
 それは、散歩の合間のナナトの話を総合すれば……草原の国の第一王女だというではないか。
「ナナは、前のげぼくさんとお別れしたのよね」
 そしてナナトは、げぼくと死別したから、このガディアまで流れてきたという。
 子供の足……あるいは小動物の足で、草原の国から木立の国までどのくらい掛かるのかなど見当も付かない。運良く海路や馬車に乗れたとしても、数ヶ月か、あるいはもっとか。
 けれど、その頃に草原の国の第一王女が床に伏せていたという噂は聞いた覚えがない。ましてや死んだという話など。
「げぼく、ずーっとベッドで寝てて……死んじゃったから、シャーロットが新しいげぼくをお探しなさいって出してくれたの」
「シャーロット?」
 また聞いた事のない名前が出てきた。
「げぼくの……ええっと、そばづか?」
「側仕えのこと?」
 アルジェントの言葉に、ナナトの顔がぱっと輝く。
(草原の国で侍女のいるような家柄か……)
 彼女より後に生まれて、王女と同じ名前を付ける貴族や富豪はいないだろう。王女より先に生まれた近い年の女性も、王女に配慮して名を改めている可能性が高い。
 今の草原の国で『ノア』の名を持つ娘は、恐らく第一王女ただ一人のはずだ。
「ナナはその人に、また会いたい?」
「うん! もうすぐこの街に来るんだよね?」
「そう聞いてるけど……」
 第一王女は、ガディアの塩田の視察に来るのだという。
 製塩技術の開発で後れを取った草原の国は、海を持つ国でありながら国内の塩の大半を輸入に頼っている。古代の知識を用いて効率の良い塩の生産を行っているガディアの技術は、第一王女を遣わせてまで学ぶ価値のある物なのだろう。
「げぼく、元気になってるといいなぁ」
「そう……ね」
 彼女がこの街に現われた時。
 自分は、どうするべきか。
 どうすればいいのか。
 だが、彼女が足を止めたのは、考えをまとめたかったからではない。
「ねえ、ナナ」
 既に、考えはまとまっていたから。
「ナナさえ良かったら、その人が来るまでは……私と一緒に……」
 その言葉に、ナナトはゆっくりと振り向いてみせる。
「……おねえさんも、げぼくになってくれるの?」
 森を抜ける風が幼子の髪を巻き上げて。その額の奧、朱く静かに輝くのは、魔力を秘めた結晶体だ。
「……アルって呼んでくれるなら、ね」
 魅入られたかのように柔らかく言葉を紡ぐアルジェントに、幼子は無邪気な笑みを浮かべ……。
 がさり。
 茂みを揺らすその音に風が止み、ナナトの前髪が元へと戻る。
「……ナナ、離れちゃダメよ!」
 本能で危険を察したのだろう。慌てて駆け寄ってきたナナトを抱き寄せ、アルジェントは現われた巨大な物体を正面から見据えるのだった。


 森の奥。澱む闇から抜け出るように現われたのは、長く白い髪を揺らす小柄な影。
 辺りに漂う鉄分を含む匂いに整った眉を僅かにひそめ、けれどスピードを緩める事はない。
 山から下りてきた獣が狩りをしているなら、警戒のために歩を緩めるのが基本である。しかし小柄な影には、血の臭いの源が獣の狩りではないという確信があった。
「……遅くなりました!」
 案の定だ。
「おう、アギ。丁度良かった」
 広場で大きな牡鹿をさばいていたのは、アギの知った顔。待ち合わせの約束をしていたマハエと、ジョージである。
「鹿ですか?」
「今日の夕飯にしようと思ってな。……お前も食べるだろ?」
 アギは森に棲まう民だが、別に菜食主義者というわけではない。森の恵みは森の恵みとして、それなりの頻度で受け取っている。
「ありがとうございます。で、この辺りの魔物の情報なんですが……」
 話し始めたアギに対して、男達が鹿を捌く手を止める気配はない。アギもそれを気にすることなく、話を続けていく。
「……最近は、例のヘルハウンドくらいだそうです。後は、山から下りてきたロックベアくらいはいるかもしれないそうですが」
「やっぱそんなもんか……」
 マハエも調査を始めてしばらく経つが、至った結論は似たような物だった。
 直接姿を見る事はなくても、彼等は強い痕跡を残す。足跡もそうだし、マーキングとして体を擦りつけた木の幹や糞もそうだ。最もあからさまなのは、食べ残された鹿や兎の亡骸である。
 アギに協力してもらったのも、情報収集そのものというより、その裏付けという意味合いが強い。
「ただヘルハウンドの群れの出所は、まだ調査中だそうで……新しい情報が手に入り次第、教えてくれる事になっています」
「ギルドの追加調査も、ヘルハウンドの出所は山奥だろう、で終わってたんだっけな……。なら、そっちも調べられるだけ調べとくか」
 情報に対する一番の対価は、それ以上の情報だ。
 そこでヘルハウンドの残党が見つかれば依頼のネタにもなるし、森の民への借りも少しは返せるだろう。
 そして何より、ガディアの平和は彼等自身の平和に等しい。
「例のヘルハウンドの縄張りって、この辺なんですか?」
「いや、もっと北だな」
 木材ギルドの護衛に参加した連中の話では、ヘルハウンドとの戦いがあったのはギルドの伐採場の近くだったはず。
「ジョージ、山歩きは平気か?」
「お師匠に鍛えられました。足は引っ張らないと思います」
 ジョージの『鍛えられた』がどの程度かは分からないが、ゆっくり向かっても半日もあれば着くだろう。
「なら、とりあえず行ってみるか……」


 ロックベアはガディアのはるか北、山岳の国との国境近くに棲む大型の獣だ。
 体長は平均で三メートル、体重で言えば五百キロを優に超える。大きい個体なら、五メートルに至るものもあるという。
 娘と幼子の前に姿を見せたのは、そんなロックベアの平均的な個体だった。
「…………」
 アルジェントの視線は正面に。
 体重差十倍以上の相手を前に、視線を逸らす事はない。
「……去りなさい」
 幼子を抱いたまま、紡ぐのはそんな言霊だ。
 間合はあまりに近く、魔法を紡ぐ隙はない。魔力の集中で視線を翳らせた一瞬に、熊はその牙を、その爪を、容赦なく叩き付けてくるだろう。
 ナナトを庇う事も叶わないはずだ。振り下ろされた爪は、二つの体を一瞬で切り裂くに十分な威力を持っているのだから。
「……去りなさい!」
 紡ぐのは、さらなる言霊。
 けれど、熊は動かない。
 いつもなら。いつものアルジェントなら、その言霊一つでこの程度の獣は追い払う事が出来るのに。
(………どうしたの!?)
 内心の動揺を必死に押さえ、視線の力を緩めることなく自問する。
(誰か来る……? 気付かれたらまずいって、そんな事言ってる場合じゃ……!)
 一瞬。
 一瞬だ。
 意識の逸れたその瞬間が、命取り。
 圧倒的な筋力は五百キロの巨体を一瞬で加速させ、その体重全てを爪の一撃に叩き込んでくる。
 幼子を抱いたままのアルジェントに、それを回避する術はなく。
「危ねえっ!」
 体を揺らす衝撃は、熊の爪に切り裂かれたものではなく、太い腕に抱き留められ、そのまま横へと転がっていくものだ。
 その腕の主を、アルジェントもナナトも知っていた。
「マハエ!」
 一緒になって転がる体の向こう、宙を舞う赤いそれは、マハエの体からあふれるもの。
「大丈夫だ、浅い! アギ!」
 第二撃を叩き込もうと頑強な腕を振り上げた熊の背後。舞い降りるのは、白い影。
「はいっ! すみません……」
 天を衝いてぎらりと輝く赤い爪が、少女のような静かな言葉にびくりと震え。
「はあああああっ!」
 放たれたのは熊の第二撃ではなく。
 真正面からの、アッパー気味のジョージの拳だ。
(ここまで見据えて力を貸さないなら、あなた……相当、底意地悪いわよ)
 ナナトと共に太い腕に護られたまま。崩れ落ちる大熊を見据えるアルジェントが漏らすのは……そんな言葉だ。


「まあ……ツナミマネキに効く拳なら、クマくらい倒せてもおかしかねえか」
 ジョージの拳は、熊より硬く、巨大な大蟹にさえ痛打を与えたと聞いていた。崩れ落ちたまま動かない大熊を見て、食らいたくはないものだと改めて思い直す。
「あの時はカウンターも入ってましたし。今回はアギさんに動きを止めてもらわなかったら、無理でしたよ」
 単調なツナミマネキの動きなら、攻撃の動きに回避を組み込む事さえ出来た。しかし瞬発力とパワーに加え、間合を取る事を知っている相手では、そう易々と当てさせてはもらえない。
「お師匠なら、タメなしでこのくらいやるんですけどね」
「……人間かよ、そいつ」
 絶対に戦いたくない相手のリストに放り込んでおいて、マハエはため息を一つ。
 そんな人外の連中がウロウロするから、マハエ達もそんな目で見られてしまうのだ。強い事が悪い事とは思わないが、程度は考えて欲しいといつも思う。
「それよりマハエ。ちょっと腕、出しなさい」
「お、すまんな」
 熊の爪はかすっただけで、そう深い傷ではない。アルジェントの治癒の光を受ければ、痛みはあっという間に引いていく。
「とはいえ、図らずもクマを一頭撃退か。運が良いんだか悪いんだか」
 とりあえずこれを報告すれば、ある程度の報酬は間違いないだろう。成獣のロックベアなら、皮や肉もそれなりの値でさばけるはずだ。
「トータルでは、あんまり運が良いとは思えませんけどね」
 だが、ぽつりぽつりと雨粒の落ち始めた灰色の空を見上げ、アギは静かにそう呟いてみせる。


続劇

< Before Story / Next Story >


-Back-
C-na's 5th Dimentional Labyrinth! "labcom.info"
Presented by C-na.Arai