-Back-

 複雑な文様の記された陣の中央に立つのは、一人の少女だった。
 いや、もう少女と言うべきでは無いのかもしれない。装いこそは簡素なものだが、流れる金の髪も、健やかに伸びた背も、一人の立派な淑女である。
「いいんだな、ルド」
「もちろんです、師匠。この儀式が成功すれば、ブールの役にも立てますし」
 ルドと呼ばれた娘は、陣の外、フードを目深に被った男の最後の問いに元気よく頷いてみせる。その表情だけは男に弟子入りする前、ただの幼馴染みだった頃のあどけない少女の面影をいまだ強く残す物だった。
「ふむ。……で、アイツが探索から帰ってきたら、挙げるのか? 式」
「ふえっ!? し、師匠っ!?」
 あどけない面影を残した表情は、そのひと言で一瞬で紅に。
 その変わりようが可笑しくて、男はフードの奥で小さく笑い声を上げてみせる。
「お前とブールが恋仲って事くらい、知ってる。……というか、左手」
 左手の薬指に金の指輪をはめる事を婚約の証とするのは、どこの国の習わしだったか。
「あああっ! し、師匠、こういうの……あんまり気にしないから……!」
「気にはせんが、観察しない事とは別だぞ。師匠なめるな」
 ブールが男の前で指輪をはめている所はついぞ見る事はなかったが、ルドは男の性格を知った上で油断していたのだろう。儀式の準備を続けながら、男は穏やかに笑うだけだ。
 それとは逆に、娘はなおのこと顔を紅くして、陣の中央で恥ずかしそうにうずくまっている。
「あぅぅ……ご、ごめんなさい。内緒にしとくつもりはなかったんですケド……」
「構わんが、結婚指輪は相談しろ。最高の祝福と加護の入った指輪を準備してやる」
 こくりと頷く愛弟子の幸せそうな様子に、次に勇者が戻ってきた時、どうやってからかってやろうかと想いを巡らせ始める。
「だが、お前が奴の側にいるなら安心だ」
 男の言葉は、今までとは少々毛色の違うもの。
 それに気付いた娘は顔を上げ、真剣な表情をしてみせる。
「ブールも限界が近いだろうしな」
「はい。あの人は、今のままで十分だって言ってましたけど……あたし、あの人に死んで欲しくないんです。……絶対に」
 彼は勇者だ。まごう事なき、王国最強の。
 勇者の剣を携え、幾多の試練や探索を成し遂げて、必死と言われたその全てに打ち勝ち、必ず生きて戻ってきた。だが帰ってくる度、次に与えられた試練は前よりもさらに激しく、熾烈を極めたものとなり……その高みがどこまで至るのかは、王国最高の魔術師と呼ばれた男にも既に予測が付かなくなっている。
 それを越えるためには、今のフォローを越える、さらなるフォローが必要になるはずだ。
「それは俺も同じだ。完成させるぞ、奴の為に」
 友のために。
 そして大切な愛弟子の伴侶のために。
「はい!」
 そして、儀式は始まり……。




Bre/Bre/Bre
[5/6]




 足を止めたのは、先頭を歩いていたレ二だった。
「ブレゲ」
 少し後ろを蜘蛛脚の娘と共に歩いていた巨躯の男は、その表情に小さく頷いてみせる。
 長年の研究で鼻の利かない男には分からない匂いを、弓使いの少女は感じ取ったのだろう。
「ティニーはこっちで、あたしと待ってよ」
 ティニーの蜘蛛脚に軽く振れ、男と入れ替わるようにして進行方向とは違う方向に導いていく。
「んー? わたしもいくー」
「こっちであたしと面白い話するの、イヤ?」
「ふぇ……? ん、わかた……」
 あの告白の夜から、レ二が時折ブレゲ達に見せる敵意や殺気は、驚くほどなくなっていた。まだ彼女の父親が勇者の剣の勇者という確定には至っていないため、ティニーにそれを告げてはいなかったが……。こうして彼女を任せても安心出来る程度には、落ち着いているように見えた。
 二人の姿が見えなくなってから、ようやく男は前へと進む。
「……遅かったか」
 茂みをかき分けた先にあるのは、先日のものと同様の、無残な有様の屍だった。
 状態は『一人目』とほぼ同じ。既に食い荒らされて白骨化も始まっているが……傍らに落ちている槍の穂先がいまだ鞘に収められたままという事からも、武器を構える暇も与えられずに一撃で倒された事が分かる。
 違うのは、レ二によって旅の荷物が荒らされていない事くらいだろうか。
「ブレゲ!」
 調査を終えて引き返せば、ティニーとレ二は何やら楽しそうに話し込んでいる所だった。男に気付くや四対の蜘蛛脚で駆け寄ってくるティニーを抱き留めて、少し遅れ気味に来たレ二を一瞥する。
「どうだった?」
「手口は同じだった。槍使いで、赤毛の……多分男だと思う。見覚えはないか?」
 無言で首を振るレ二に、ため息を一つ。 
「とりあえず、もう少し回るか……」
 少なくとも、この辺りは謎の怪物が通った後ではあるはずだ。ならば何かしらの痕跡が見つけられる可能性も高い。
 もしそれが全くなければ……。
「ティニーから全部聞いたわよ。崖から落ちたんだって?」
「……黙れ」
 浮かんだ想像を呟きと共に吐き出して、男は再び森の奥へと歩き出すのだった。


 洞窟の中に立ち上るのは、火が消えた後の僅かな煙。
 恐らくはティニーの父親が手を加えていたのだろう。天井に僅かに付けられた傾斜と空気の流れのおかげで、火焚き場で火を扱う分には、洞内には余分な煙は残らないようになっている。
だ。
「えへへ。ティニー、あったかーい」
「レ二もあたかいデス」
 火の始末が終われば、後は特にする事もない。普通の野営なら見張りに立つ必要もあるが、崖の中腹にあるこの洞内ではその必要も無かった。
「ティニー」
 擦り切れたコートを布団代わりに、男が小声で呼んでみせれば、蜘蛛脚の少女は男の元へ向かおうとして……。
「ダメ! 今日はティニーはあたしと寝るの!」
 先に抱き合っていた弓使いの娘に、引き留められる。
「レ二。わたし、ブレゲとも一緒、寝たいデス。ダメ?」
「えー。ダメじゃないけど……」
 腕の中の、どこか寂しそうな少女の視線は、あまりに抗いがたいもので。
 しばらくの沈黙と内心での葛藤の末に、娘は少し離れた所にいる男をじろりと一瞥してみせる。
 そこにあるのは、羞恥よりもはるかに強い不審の色。
「……変な事しないでしょうね」
「するかバカ」
「じゃ、ブレゲー。んー」
 娘の束縛をようやく脱した蜘蛛脚の少女は、そのまま洞窟の壁を背にした巨漢の胸にしがみ付いてくる。分厚い胸板に安心したように顔を埋め、蜘蛛の脚を器用に折りたたんで男の身体の上に身を載せ……。
「え、ちょっと、一緒に寝るって三人並んでとかじゃないの?」
 すぐにくぅくぅと寝息を立て始めたティニーの蜂蜜色の髪を優しく撫でながら、男は娘の不満声に苦笑い。
「こっちの方が寝心地がいいんだとよ」
 ティニーの上半身は地面に寝転ぶ事も出来なくはないが、こうして身を立てた方が楽なのだという。それは、一緒に過ごしていた間に見つけた、二人の一番楽な寝方だった。
「これじゃティニーと寝てる気しないよー」
 レ二も男の隣に腰を下ろすが、蜘蛛脚の少女とは腕が触れる程度にしかならない。
「あんたは平気なの?」
「慣れてるからな」
 洞窟の壁は少々固いが、長い旅の間にここより居心地の悪い所で何度も夜を過ごしてきた。寝心地だけで判断するなら、ティニーの温もりと重みが感じられる今は、比べものにならないほど快適と言える。
「うぅ……明日はあたしだからね!」
「俺に言うな。俺に」
 明日誰と眠るかは、この洞窟の小さな主が決めればいい事だ。
 身をよじらせる少女の身体をそっと抱き直し、男も静かに目を閉じる。
「…………今日のあれの犯人ってさ」
 そんな中、ふと耳元に届いたのは、傍らに寄り添っていた娘の声。
「あんたじゃないの?」
 蜘蛛脚の少女を守るため、という理由はある。
 そして数々の身体強化魔法。金属製の銃身を易々と叩き切る程の力があれば、身元不明の流れ者の一人や二人……。
「魔法はそこまで万能じゃねえよ」
 だが、娘の考えは男の想像の範疇だったのだろう。男は短く、娘の考えを否定してみせる。
「崖下の奴は見たんだろ? あそこまで手早くは無理だ」
 筋力を強化する事は出来る。斬撃力を強化する事も出来る。
 それらを組み合わせれば人の身体を真っ二つにする事は出来るだろうが、人体を筋力だけで折り砕く程の高みには、男はついぞ至れずじまいだった。
 あまつさえ、相手に武器すら抜かせぬまま葬る事など……。
「それに俺が犯人なら、わざわざこいつを連れて探しに行かねえよ」
「そっか。……そうよね」
 その理由は、魔法の理由付けより何より、娘が一番納得出来る言葉だった。
「犯人、早く見つかるといいね」
 呟き、瞳を閉じる。
「ああ……」
 娘の隣で男の寝息が聞こえてくるのは、あっという間だ。


 もはや見慣れた森の中。
「この辺りにも、もう手がかりはないな……」
 男は足元を小さく蹴り、そんな言葉を転がしてみせる。
 昨日の亡骸の周囲も探索してみたが、前の時と同様、それらしき手がかりは一切見つからないままだった。
「ブレゲー!」
 そんな事を考えていると、少し離れた場所の調査に向かっていた二人が戻ってくる。
「どした」
 満面の笑みを浮かべているティニーが高々とかざすのは、一羽のキジだ。
 キジなら彼女の蜘蛛網にも時々掛かっているから、さして珍しいものではないが。
「すごい! 弓、すごいデス!」
「へぇ……。そんなに凄いのか?」
 どうやら調査の合間に、ティニーが弓で仕留めたらしい。
 四対の蜘蛛脚で駆け寄ってきた少女の頭を撫でてやりながら問えば、弓使いの娘も珍しく興奮気味の様子だった。
「ちょっと練習しただけなのに、もうあの弓、引けるようになってさー。ビックリしちゃった! すごかったよね、ティニー?」
「ねー!」
 調査や日常の合間に練習を始めて、まだ幾ばくも経っていないはず。それも普通の弓ならともかく、使っているのはレ二の重い合成弓だ。それで獲物が仕留められたなら、確かにそれは驚くべき成長ぶりだった。
「で、そっちの進展は?」
「全くなし。やっぱり、もう余所に移ったんだろうな」
 それはここ数日、ずっと話していた事だ。
 普通の生物であれば食事や排泄の痕跡があるはずだし、縄張り意識の強い種であればマーキングを行う事もある。仮に食事などをしない特殊な魔物などであっても、足跡くらいは残すはずだ。
 その一切が、見つからない。
「そっか……。ま、それならそれでいいけどね」
 恐らくは、移動性の魔物か何かだったのだろう。それでも足跡さえ残していない事は気にならないでもないが、理論立てては説明の付かない特性を持つ魔法生物……古代の魔法実験の失敗作……だった可能性も、ゼロではない。
「……あ痛」
「どうした?」
 見れば、弓使いの娘の指先に小さな切り傷が出来ている。
「さっきキジ押さえつけた時かなー?」
 流れの旅人としてみれば、大した傷ではない。そんな様子で軽く流す男とは対照に、幼いティニーは心配そうに覗き込んでくる。
「痛いデスか? レ二」
 傷口には、うっすらと血がにじみ出してきていた。そこに蜘蛛脚の少女は小さな舌を寄せ、浮かんだ血をちろちろと舐め取り始める。
「大丈夫よー。ティニーは優しいわね。どっかのおじさんとは大違い」
 くすぐったそうにしながらティニーの小さな頭を撫でて、弓使いの娘は優しく微笑んでみせた。
「ありがと。ティニーがきれいにしてくれたから、もう大丈夫よー」
「うん……。なら、よかた」
「なら戻るか。夕飯はそれだな」
 既に日も沈みかけている。
 これ以上の調査を続けるのか、続けるとすればどうするのか。そして、依頼主である村へはどう報告するべきか。
 何より、ティニーはどうするのか……。
 ブレゲの言葉の外に込められた意味を感じ取り、レ二も小さく頷いてみせるのだった。


 その日の晩。
「え……」
 食事を終えたティニーは、男の言葉を茫然と繰り返した。
「村に行く……デスか?」
「ああ」
 これ以上の調査をしても、謎の魔物は手がかりすら掴めないままだろう。村の状況もあれからどうなったか分からないし、一度村で経過報告を兼ねた現状確認をしてくる事になったのだ。
「ブレゲ、またどこか行くデスか? 帰てこない、デスか?」
 次の瞬間、ティニーはブレゲの大柄な胸にしがみ付いていた。
「やだ! ブレゲ、戻てきたら、わたしとずと一緒いる言いまシタ!」
 泣きじゃくりはじめたその声は、幼い子供と変わらない。
 蜘蛛脚の異形を持った娘でも、メンタルは人間と何ら変わりは無いのだ。
「わたし……ずと、ブレゲとレ二と、一緒にいたい……!」
 そんな小さな背中を撫でてやりながら、ブレゲは諭すように言葉を掛ける事しか出来ずにいる。
「ちょっと行ってくるだけだ。転移魔法もあるから、晩か、明後日の朝には戻れると思う」
 行きは以前と同じだけの時間がかかるが、ティニーを対象とした転移魔法が使える事は実証済みだ。用事がすぐに済めばその日のうちにでも帰れるだろうし、時間を取られたとしても三日以上かかる事はないだろう。
「なら、ここにハ……」
「ああ。すぐ戻ってくる」
 ふんわりと広がる蜂蜜色の髪を撫でてやれば、幼い少女の顔には花が咲くように笑顔が広がっていく。
「レ二も行くか?」
「あの村、感じ悪いから別にいいわ。……買い出しだけしてきて」
 以前、彼女が村を訪れた時は、怪物騒動が起きた直後という事もあり、不審の目を向けられっぱなしだった。買い物が出来ないのだけが少々不便だが、あの豚顔の親父と顔を合わせて楽しい買い物……というのも出来そうに無い気がする。
「ティニー、あたしはちゃんといるからね。明日は、二人で一緒に寝ようねー?」
 代わりに、ティニーの蜘蛛の体に抱きついて、そっと頬を寄せてみせる。
「レ二……嬉しデス!」
 そんな娘の様子に、蜘蛛脚の少女も甘えるように抱きつき返してくるのだった。


 巨躯の男が村に一軒だけある酒場の入口をくぐったのは、昼を大幅に過ぎてからの事である。
「おや、久しぶり」
 老人はいつものように不機嫌そうな顔だったが、男を端から無視するような事はしなかった。
「エールと、これで食えるだけ」
 既に昼時は過ぎているのだろう。誰もいないカウンターに、以前と同じように幾らかの銅貨を置けば、老人は早速作業を開始する。
「まさか、ずっと森にいたのかい?」
「慣れればそれなりに快適でね。……あれから、怪物騒ぎは?」
 前より随分と愛想の良い老人に少し驚きつつも、その様子に怪物騒ぎは沈静化しているのだろうと何となくだが理解した。
「ないね。森に入った連中も少しいるけど、今まで通りだよ。帰ってきた旅人は、あんただけだけど」
「二人ほど熊だか狼だかにやられてた。他は知らんが、見てないからどこか行っちまったんだろうな」
 あの異形の殺されようを語る必要はないだろう。沈静化しているなら、そのまま落ち着いてくれた方が良いのだ。
「旅人はあんたを入れて四人だから、一人分からんのか」
 その行方不明の最後の一人は、今頃はティニーと一緒に昼食を食べている頃だろうか。老爺の大して美味くもない料理を腹に流し込みながら、男はつまらなそうに呟くだけだ。
「魔物の痕跡も、特になかったよ。移動性の魔物がたまたま立ち寄ったか何かだろう」
 群れを離れた一匹狼のように、自身の縄張りを探すために長距離を旅する魔物はそれほど珍しくはない。それがたまたま村の近くの森に立ち寄って……というケースは、男も何度か目にした事がある。
「こっちでもそういう話になってる。もう依頼も取り下げられちまったよ」
 見れば、かつて依頼の張り出されていた柱には、既に何の張り紙もされていなかった。
「……なら俺らは入り損か。どっかに行った一人だけが賢明だったな」
 調査を終えて帰ってきても、報告で先を越されたり、今回のように依頼取り下げがあったりという事は珍しくない。引き時や時節の見極めが肝心という事もあるのだ、世の中には。
「道具屋の豚顔も腐ってたよ」
「あのインチキ地図屋か」
「森の地図、買ったのかい。そりゃ大損だったね」
 どうやら森の地図の誤差どころではない件は有名らしい。
 遅い昼食を済ませたら、ひとまずあいつを殴りに行こうと心に決めておく。
「今度あいつがこの店に来たら、酒代思いっきりふんだくっといてくれ」
「引き受けた。あの豚顔、宿屋の婆にも頭が上がらないから、言いつけとくと良い」
 それは、この店に来てから男にとって一番有力な情報だった。
「助かる。それと爺さん」
 そして。
「この街に昔来た、勇者の剣の勇者の話って知らないか?」
 男は、もう一つの本題を切り出した。


 村を出てから丘を越え。
 村が見えなくなった所で男がかざしたのは、幾つかの飾りの付いた水晶の首飾りだ。
「……ふむ」
 だが、陽光を弾く水晶の首飾りは、蜘蛛脚の少女の事を思い浮かべても……他のリングや金具達と同じように、静かに揺れているだけだ。
「流石に少し遠いか」
 恐らくは転移の有効範囲を超えているのだろう。
 それは男にも予想が付いていた事だ。
 とはいえ、まだ日没まで数時間は歩く事が出来るし、その間に転移可能な距離まで辿り着ければ、そこから先は一瞬である。何より、足元を見た宿代を払ってまであの埃臭いベッドで寝るくらいなら、野宿覚悟で山に分け入った方がマシだった。
「……一泊した方が、レ二は喜ぶんだろうがな」
 今頃は、姉妹仲良く語り合っているのだろうか。
 頼まれた品や補充の荷物を背負い直し、男は再びあの場所に帰るため、山の中へと踏み込んでいく。


 光の中から男が降り立ったのは、切り立った崖の中腹だ。
 転移の淡い輝きから、明るい満月の光の中へと。
「……意外にかかったな」
 転移の有効距離は、思っていたほど広い範囲ではなかった。ようやく水晶が男の意思に応えてくれたのは、太陽が沈んで、満月に照らされた崖が見えるまで歩き続けてからのこと。
 既に月は高く、洞内に明かりは見えない。
 早々に食事を済ませ、姉妹仲良く眠りに就いてしまったのだろうか。レ二はティニーと一緒に寝るのを楽しみにしていたし、今日のティニーの相手はレ二に任せて、自分は入口辺りでこっそり寝ても良いだろう。
 それでも、朝起きれば二人が向かえてくれるだけ、あの埃臭いベッドよりはマシなはずだった。
「ん……?」
 満月とは言え、洞の奥まで光が入るわけではない。
 そんな中に響くのは、聞き慣れぬ異音だ。
 ティニーの蜘蛛脚が立てるかさかさという音はとうに慣れた。
 今響く音は……くちゃくちゃという、咀嚼音。
 そして……。
「…………」
 久方ぶりに感じる感覚。
 強力な秘薬や薬草を前に麻痺して長いその感覚さえ、思わず反応してしまう程に強い……臭い。
 血の臭い。
 それも、今この瞬間、大量に流されている臭いだ。
「ティニー? レ二?」
 まだ洞内の薄闇に、目は慣れきっていない。だが、いつもの場所に蜘蛛脚の少女はおらず……今日は抱き合って眠っているはずの、弓使いの娘の気配もない。
 洞内にあるのは、さらに奥深くの……より強い血臭と、咀嚼音を放つ主だけ。
 くちゃり。
「ブレゲ…………?」
 ごくりと呑み下す音と共に漏れたのは、耳に柔らかく寄り添うような、涼やかな声。いつもと違う、どこか恍惚としたような、艶を帯びた甘い声色で……男の名を、呼ぶ。
 くちゃり。
「ティニー……?」
 呆然と一歩を踏み出せば、足元に触れるのはぬるつく泥濘のような感触だ。薄暗がりの中、色の判別は出来なかったが……その色が何色かなど、もはや想像するまでもなかった。
 男に、暗視魔法の心得はない。故に、目が慣れるまで待つしかなかった。
「あは……ぁ………」
 ようやく慣れてきた視界の中。
 洞窟の奥で艶然と微笑むのは、蜘蛛脚の少女だった。
 小さな顔から、赤い舌をちろりと覗かせ……抱えた何かに、愛おしそうに唇を寄せる。
 未だひくひくと微細な痙攣を続けるそれは、赤黒い、太い縄にも似た物体だ。
「レ二……おいしデス。ブレゲも、食ベル?」
 無邪気に微笑む少女に向けて、一歩を踏み出した男の足に、何か固いものがぶつかった。
 それが何か、予想は出来た。
 けれど、その予想が間違っている事を信じたくて……男は視線を、僅かにずらす。
「ティニー……お前…………」
 既に焦点を定める力さえ失った黒い瞳と一瞬目が合い。
 ブレゲは自らの予想が、最悪の方向で当たっていた事をようやく理解するのだった。

続劇

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