-Back-

 燃えさかる炎の中、黒煙を抜けて響くのは硬質なものがぶつかり合う音。
 続けざまに打ち交わされる、剣戟の音だ。
「どうして……あんな事を!」
 叫びと共に放たれるのは、研ぎ澄まされた剣の一撃。
「……あいつも望んだ事だからだ」
 受け流すのは、古木から削り出された杖である。
「だが案ずるな。既に改善は成され、成功もしている。これで、貴様にも同じ儀式を……」
「違う! 俺が言いたいのは……そういう事じゃないっ!」
 繰り出される青年の斬撃を、フードを目深に被った魔術師の男は次々と受け止めていく。
 ただの古木が鉄をも切り裂く斬撃を受け、流せるのは、まとわせた紅の揺らめき……魔法の力あってこそ。そして次々と繰り出される目にも留まらぬ連撃に対応出来るのも、瞳にたゆたう蒼い輝きがあるからこそ。
「ならばどうする? いかに貴様でも、剣如きで俺を抜けはせんぞ」
 ひときわ強く炎の爆ぜる音と共に辺りを揺らすのは、何かが崩れる轟音だ。
 恐らくは屋敷の何処かが焼け落ちたのだろう。
 だがそれでも、魔術師の口元に一切の焦りは見られない。
 それは、盟友たる青年には自らの事のように分かるものだ。
 しかし、だからこそ……青年には、魔術師の心の内が納得出来ずにいる。
「分かってる! けど……貴様だけは、この剣のみで……!」
 血の滲む鍛錬と研鑽を重ね、幾多の実戦による経験で裏打ちし、ついには王国に伝わる剣を手にして『勇者』と讃えられながらも……膨大な魔力と術式によって底上げされた反応速度と防御には叶わないのか。
 燃えさかる屋敷の限界は近い。目の前の魔術師はその一切を気にする様子もないが、辺りの焼け焦げる悪臭と炎の熱、何より崩壊の轟音は、勇者の神経をじりじりと蝕んでいく。
「俺の力で勇者になった男が何を言う!」
「だからだ! 世界の法則をこれ以上ねじ曲げるな……盟友!」
 剣を構えた勇者は、ぎりとその歯を食いしばり。
 放つのは、全霊を注ぎ込んだ咆哮だ。

 同時に、板張りの床が炎の舌に舐め尽くされて。
 剣戟の音は、崩壊の轟音にかき消されていく。




Bre/Bre/Bre
[1/6]




(夢……か)
 耳の中に今でも遺る轟音は、全ては記憶の彼方の光景だ。
 今聞こえるのは、か細い雨音。
 僅かに反響しているのは、そこが狭く、音の逃げ道のない場所だからだろう。
(洞窟……)
 まだ意識は混沌としたままだ。自分が誰かも、どうしてこんな場所にいるのかも、分からずに……いや、理解しようとせずにいる。
 全身を蝕む鈍い痛みも、その原因はぼんやりとした記憶の向こう側。
「ア…………」
 そんな、わずかに目を開けた男に視界に映り込んだのは、まだ幼い娘だった。
 年の頃は十代の半ばに満たない位か。外から戻ってきたばかりなのだろう、しっとりと濡れた薄茶の長い髪を額に貼り付かせたまま、透き通った碧い瞳で男の顔を不思議そうに覗き込んでいる。
「…………」
 口の中には何か入っているのか、それをくちゃくちゃと噛みしめたまま。やがて、涼やかな声と共に、ゆっくりとこちらの唇に重ね合わせてきた。
 混濁した意識は、声の持つ意味を理解しようとしない。僅かに開いた口の中に滑り込んできた何かも、確かめる事がないまま。
 男は鈍い痛みの中、もう一度意識を手放した。


 次に男が目を覚ましたのは、前の時からどれだけの時間が経ってからだろうか。
 岩だらけの天井は以前と変わりなかったが、外からの雨音は聞こえてこない。入口から差し込む陽光に赤の色合いが強くなっているあたり、どうやら世界はもうすぐ夜を迎える頃合いなのだろう。
 意識は、それが即座に理解出来る程度にははっきりとしていた。
 全身の痛みも既に引いている。
 両手両足がちゃんと揃っている事を感じながら、身を起こす。
 擦り切れたコートに、継ぎの当てられた厚手のズボン。首に手を伸ばせば、そこに掛けられた水晶の首飾りもそのままだ。
 僅かな荷物の詰められたボロボロの背負い袋と腰に提げていたはずの大鉈は、枕元にひとまとまりの山にされていた。
「……俺……は」
 ひび割れているが、声も出る。聞く耳も無事だ。
「あの時、崖で……」
 そう。
 男は旅の途中だった。
 次の街まで行こうと、険しい山道を歩いていて……。
「……落ちたのか。情けねえ」
 そんな間抜けな男を親切な誰かがここまで運び込んでくれたらしい。
 だが辺りを見回しても、洞窟の中に男以外の姿はない。
 前に目覚めた時に男を覗き込んでいた少女は、果たして幻だったのだろうか。
 ふと喉の渇きを覚え、背負い袋の中から水袋を取り出した。栓を抜いて口を付け……一滴目が流れ込んで来た所で、思わず眉をしかめてみせる。
 山に入る前に山羊乳を入れておいたはずが、既に味が変わっていた。チーズともヨーグルトともつかないそれは、水分補給の役に立ちそうにはない。何よりそこまで変質しているという事は、一体どれだけの間ここで眠っていたのだろうか。
 栓を戻した水袋を片付けていたその時だ。
 入口から感じた気配とがさりという異音に、反射的に脇の大鉈を引っ掴み、湾曲した握りに手を掛ける。長く眠っていた割にその辺りの勘は鈍ってはいないようだとわずかに安堵しながらも……。
「誰だ!」
 変質したとはいえ水分の効果か、久方ぶりの誰何の声は、自身でも驚くほどに大きなものだった。
「誰だ!」
「…………」
 二度目の誰何に、洞窟をおずおずと覗き込んできたのは……幼い少女である。
「起き……タ……?」
 問うてきたのは、一度目を覚ましかけた時に耳にした、涼やかな声。
 見つめているのは、透き通った碧い瞳。
 差し込む薄赤い陽光に揺れるのは、緩やかなウェーブを描く長い髪。
「お前は……」
 元の色も分からない程に汚れたボロボロのシャツから伸びる手は、着物とは対照に過ぎるほど白く、華奢なもの。
 人見知りする性質なのか、少女は上半身だけでこちらを覗き込んでくるだけだ。
「……お前が、助けてくれたのか?」
 こくこくと頷く少女に男は僅かに相好を崩し、握り締めていた大鉈の柄も手放してみせる。
「すまん。助かった」
 目覚めた男が敵意を持つ存在ではない事を感じ取ったのだろう。
 少女も愛らしい顔を綻ばせ、洞窟の中にようやく脚を踏み入れてくる。
「…………ッ!?」
 その様子に、男は思わず息を呑んだ。
 呑むしか、なかった。
 男に駆け寄ってきた少女がまとうのは、かさかさという異音。
 それを奏でるのは、鮮やかな黄と黒に彩られた四対の脚。
 ボロボロのシャツから覗く小さなおへそと線の細いお腹から繋がるのは、四対の脚を束ねる小さな胸部と、その後ろに大きく膨らんだ黄と黒の腹部。見上げるほどというには幾分か小さいが、十分にこの世界の自然の成り立ちからは外れた存在……『魔物』と呼ぶべき存在だろう。
「元気、なたデスか?」
 さしもの男も大鉈の柄に手を伸ばさぬようにするのが精一杯。
 笑顔でしがみ付いてきた少女には、一切の悪意や敵意は感じられなかったから。
「…………ああ」
 そう。
 少女の下半身は。
 巨大な、蜘蛛そのものであった。


 洞窟の中。
 ぱちぱちと爆ぜるのは、小さな炎。
「……そうか。ここで、暮してるのか」
「ハイ」
 長い蜘蛛脚を器用に畳んで腰を下ろし、男に寄りかかっている少女は、男の問いに小さく頷いてみせる。
 あの出会いの時。少女が男にした事は……全力で駆け寄り、力一杯抱きつく事だった。
 力一杯と言っても、巨人族のような膂力ではない、細腕から想像出来る程度の力だ。そこに天使のような無邪気な微笑みまで浮かべられては、まさか鉈で切り倒すわけにもいかず、男もひとときされるがままになっていた。
 そして結局、彼女の運んできた薪で火を炊き、こうして二人寄り添っている。
「お父サン死んデから、一人だたデス」
「親父さんも……」
 言いかけ、男は口をつぐむ。
 蜘蛛男かと、問うて良いのかどうか迷ったのだ。
 エルフ、ドワーフ、ケンタウロス、ハーピー。
 この世界に多くの亜人間が暮している事は、男達のような旅人にとっては常識である。そしてその中で、殊に半人半獣の性質を持つ種族の中には、両親の出自を聞かれる事を嫌う者達が少なからずいることも。
 初めて出会う半人半蜘蛛の彼女にとって、父親の事を問うことが失礼に当たるかどうかは……。
「お父サン、人間デした。アナタおなじ。お母サンとわたしが、おなじ格好」
「……そうか」
 どうやら、失礼には当たらなかったらしい。
 ぱちぱちと爆ぜる焚き火の手前。薪を削って作った即席の串を、ひょいと取り上げる。
 刺さっているのは少女が薪と一緒に捕まえてきたウサギの肉だ。最初は生で差し出されたのだが、さすがに男は生肉を食べるわけにもいかず、こうして火に掛けていた。
 少女が何も言わなかったから、ついそのほとんどを炙り焼きにしてしまったのだが……。
「……生の方が良かったか?」
 焼き上がってから聞く事では無い。どうやら思考の方も、まだ本調子ではないようだ。
「へいき。お父サンいた頃は、こうしてたデス」
 美味しそうに一本目の串を平らげていく少女の様子に息を吐き、男も自分の串を取り上げる。背負い袋に入れてあった岩塩を軽くまぶしただけだが、それなりに美味い。
 久々のまともな食事に腹が鳴っている事を感じながら容易く一本を平らげると、じっと見上げている澄んだ瞳に気が付いた。
「……他のも焼けてるから、好きに食え」
「いいデスか?」
 どうやら食べて良いか分からなかったらしい。少女は男の言葉に、嬉しそうに二本目の串に手を伸ばす。


 洞窟の中に漂うのは、焚き火が燃え尽きた後の細い煙。
 野宿をする時に火を絶やさない事は、旅人にとっては基本中の基本だ。狼や野犬だけではない。炎にあえて近づいてくる魔物もほとんどいないからだ。
 だが彼女が言うには、ここでは火を絶やしても大丈夫なのだという。
「むにゅぅ……」
 壁を背にした男にしがみつき、両手と口元を獣脂でべとべとにしたまま幸せそうに寝息を立てる少女を、じっと見下ろす。
 着ている服は元の色が分からない程にボロボロで、恐らくは死んだ父親が用意した物をそのまま着ているのだろう。入口から差し込む微かな月光を弾く長い薄茶の髪も、手入れされている気配はない。
 肉の調理法さえよく知らないあたり、父親と死別したのは、そういった事を教わる前だったのだろう。
「…………」
 身を寄せる小さな体は細せていて、その振る舞いと併せて随分と幼く思えた。下半身の巨大な蜘蛛の体は、短い毛並みは少しちくちくしていたが、撫でれば思ったよりも柔らかく、ほんのりと暖かく感じられる。
 少なくとも、助けてくれたのだから敵意のある相手ではないはずだ。もし男を食べるつもりなら、崖で見つけた時点でとっくに餌にしていただろう。
「んぅ……っ」
 擦り寄せられた伸ばしっぱなしの長い髪をそっと撫でながら、男はこれからどうするべきか、考えを巡らせ始めるのだった。


 翌日。
 男は、昨晩少女の言った言葉の意味をようやく理解していた。
「火を絶やしても大丈夫……か。なるほど」
 洞窟の出口から先には、何もなかった。
 正確に言えば、出口から数歩を経た所で、何もなくなっていた。
 絶壁、である。
 眼下に鬱蒼と茂る森は、男が踏み外した道から見えていた森だろう。しかしあの時よりも近く見えるとは言え、降りるためには背負い袋のロープだけでは足りなさすぎた。
 そして垂直にそびえる高い岩壁を登り切るための装備は、男の背負い袋の中にはない。
 鳥やコウモリ、翼を持つ種族ならここまで来る事も出来るだろうが、崖に翼を打ち付けて地に墜ちる危険を冒してまで、こんな小さな洞窟に取り付くメリットがあるとは思えなかった。
 確かにここは難攻不落。攻め入る事はおろか、逃げ出る事も難しいだろう。
「…………」
 青く広がる空を一瞥。首から下がる水晶の首飾りをそっと取り出し、意識を集中させる。
「…………ふむ」
 だが、幾つかの飾りと共に下がるそれは、リングや金具が触れ合う度に小さな音を立てるだけ。
 それは男も予想していたのだろう。納得とも諦観とも付かぬ声をひとつ漏らし、それきり無言で首飾りを胸元にしまい込む。
「起きた……デスか?」
 背中でわさりという音がして並んだのは、まだ眠っていたはずの少女だった。
 人間の体は華奢とも言える少女だが、四対の蜘蛛脚に支えられた視線の高さは巨漢の男とさして変わらない。身を屈めずに小さな娘と目の高さを合わせて話す感覚に軽い違和感を覚えつつ、男は小さくため息を吐く。
「ああ。確かにここなら、安全だな」
「はい。あ……もしかシテ、もう……」
 浮かべた表情にあるのは、幼いながらもどこか寂しげな色。
「……いや。まだ旅が出来るほど癒えてはいないし。出来れば、もう少し休ませてもらいたいんだが……」
 そう言って、小さな頭にポンと手を置いてみせれば。
 泣き出しそうな顔は、あっという間に華やかな微笑みへと変わっていく。


「ん……」
 目が覚めたのは、外からの音が聞こえたからだ。
 浅い眠りを保ち、異音がすればすぐに目覚めるようになるのは、長く旅を続けてきた男の悲しい性とも言うべきものだ。
 辺りに怪しい気配がない事を確かめようとして……この洞窟が、絶壁の途中にある事を思い出す。
 そこで、気が付いた。
 男にしがみついて眠っていたはずの、少女の姿がない事を。
「……いないのか?」
 声を飛ばしても、さして深くも無い洞窟のどこからも返事は戻ってこない。
 どうやら浅い眠りだと思っていたが、少女が離れても気付かない程に深く寝入っていたようだ。場所が場所なら死んでいてもおかしくはないなと失笑しつつ、もう一度「おおい」と声を投げてみる。
「あ、起きタ?」
 返ってきたのは、入口からだ。
 うっすらと白み始めた空を背に、茶色く汚れた長い髪が逆さまになって降りてきた。程よい所で四対の蜘蛛脚を器用に操り、逆さまの体勢を立て直す。
「……上からはそうやって降りてくるのか」
「糸を使う方、早いデス」
 その辺りの動きは、明らかに蜘蛛のそれ。
「こんな朝から、どうしたんだ?」
「昼間に遠出スル、人間と出会ってしまいマス。お父サン、それダメ、言いまシタ」
 ここに辿り着いて既に数日。その間に推し量った男の予想が確かなら、この崖は人里からさして離れていない所にあるはずだった。
「陽の昇る方、たくさん歩くのもダメ」
 その言い方からしても、せいぜい歩いて一日か……長くても二日。
 それでもなおこの少女が人間世界から隔絶した生活を送れているのは、彼女の住処が人の手の届かない場所にあるからだけではなく、そういった父親の教えが今なお生きているからなのだろう。
「じゃあ……」
 人間と関わり合いを持たないように……という父親の教育方針は、男から見ても正しいと思えた。彼女達の種族に免疫を持たない人間達は、まず間違いなく彼女を魔物扱いすることだろう。
 それは、森の中で穏やかに暮す彼女にも、無知な人間達にとっても不幸なことだ。
「どうして俺は助けてくれたんだ?」
 故に浮かぶのは、その問いだ。
 男と少女の出会い方は、限りなく幸運だったと言っていい。もちろん男は少女に感謝し、彼女の事を誰かに話すつもりもないが、亜人種に免疫の無い人間であれば彼女の姿を見た瞬間に刃を抜く事もあったはずだ。
 だがその答えは、男にとって意外なものだった。
「お父サン、似てたカラ……」
 確かに男の外見は、彼女くらいの娘がいてもおかしくはない年齢だ。それは理解している。自覚だってしているが……。
「……一応まだ、独り身なんだが」
「そだ。網に、獲物かかてた! あさごはん!」
 どこか遠い目をしている男を気にする様子もなく、少女が誇らしげに見せたのは蜘蛛糸で縛り付けられた一羽のキジ。
「昨日みたい、して!」
 どうやら昨日の串焼きが気に入ったらしい。
「……そうか。なら、捌き方も教えてやろう」
 ねだる少女に男はようやく苦笑いを浮かべ、背負い袋から短剣を取り出すのだった。


「そうじゃない。そこに当てて……そうだ」
「こう、デスか?」
 僅かに怯えを帯びた小さな手に、男はそっと大きな手を重ね合わせた。そのまま添える程度の力を込めて、細かな動きは少女に任せておく。
「そのままゆっくり」
 最初はおっかなびっくりだった少女も、男の手に安心したのか、やがて男の後押しがなくても自分だけで進められるようになり……。
「ん……ぁ……」
 最後の一瞬だけ、短剣が行き過ぎないかと警戒していたが……少女は抜けた刃をそっと止め、分かたれた小さな肉片を嬉しそうに持ち上げてみせる。
「やた! 出来タ!」
 だが。
「人に刃を向けるんじゃない!」
「ひゃ……」
 男が反射的に放ったのは叱咤の声だ。
「すまん。大きな声を出して。……上手く捌けたな」
 びくりと震えた少女の手を弱々しく離し、鳥を上手く解体できた事を遅れ気味に褒めてみせる。
「いえ……平気デス。ゴメンナサイ」
 少女もそれは分かっていたのだろう。男から借りた短剣を鞘に戻し、まだショックが抜けきらないのか……弱々しい声で、ぺこりと頭をさげている。
「悪い事したカラ、デスよね? 悪い事、ダメ。お父サンも、悪い事したら……大き声で、叱てくれまシタ」
 飲み込みはいいし、理解も早い。
 教えてくれる者がいなかっただけで、頭は回る子なのだろう。
「でも謝タラ、いい子、してくれまシタ」
「……ふむ」
 そう言われて小さな頭をおずおずと差し出されれば、撫でてやるしかない。
 嬉しそうに目を細める少女を見ながら、男はこれからどうするべきかを、考えてしまうのだった。


 流れるのは、柔らかな水の音。
「そうか……」
 穏やかな川のせせらぎに混じるのは、男の声だ。
「ハイ……髪、洗てもらうノモ、お父サン死んでから……初めてデス」
 男が半人半蜘蛛の少女に助けられて、さらに数日が過ぎていた。まだ旅を続けられるほどではないが、男も絶壁を少女に下ろしてもらい、周囲を散策出来る程度には動けるようになっている。
「んぅ……変な匂い……」
 男の大きな手で長い髪を泡まみれにしてもらいながら、少女は両の瞳を固く瞑っていた。形の良い鼻をひくひくとさせながら、嬉しそうに漏らしたのはそんなひと言だ。
「前の街で買った、オリーブの石鹸なんだがな。気に入らんか?」
 海沿いだったその街の名産品である。たまたま市場で目に付く所に売っていたから買っただけだが、道具屋に並んでいる安石鹸と比べれば、泡立ちは随分と上等な物だと思う。
「お父サン、髪、一人で洗ってはダメ言いまシタ。せっけん、蜘蛛の体によくない」
「……そうか」
 石鹸の泡に虫を放り込めば、あっという間に死んでしまう事を思い出す。さすがにこの大きさなら即死という事はないだろうが、少女の蜘蛛の体が虫に近い構造をしているなら気を付けるべき所なのだろう。
「なんだか、ふわふわ。お花みたいナ匂い。好き」
「俺は匂いは分からんが……そりゃ、良い匂いって言うんだ」
「分からナイ? なんで?」
「体質でな、鼻が利かんのだ。……水、掛けるぞ」
 背負い袋から取りだした布バケツで水を汲み、蜘蛛の体に掛けないように泡を洗い流していく。水を掛ける時間の長さと冷たい感触を嫌がる少女に手間取って、意外に時間を掛けた末に……。
「……ほぅ」
 出たのは、感嘆のため息だ。
「どしたデスか?」
 薄茶色だと思っていた髪は、今は木々の間から差し込む陽光を弾き、甘い蜂蜜色に輝いている。一度洗っただけでこれだから、きちんと手入れをすればさらに見事な髪に変わるだろう。
 男の体を洗う程度なら無駄だとばかり思っていたオリーブの石鹸だが、まさかこんな所で役立つとは思わなかった。
「見てみろ」
 既に泡の流れきった水面を軽く指差せば、少女は素直に水面を覗き込む。
「ふわぁ…………すごいデス。きれいなりまシタ!」
「それと……これだ」
 しまい込んだ石鹸と布バケツの代わりに背負い袋から取り出したのは、ひと束の布の塊だった。
「わぁ……ホント、いいデスか?」
 少女が広げてみれば、それは男の替えのシャツである。
「このくらいしか出来んからな」
 小柄な少女からすれば少し……いや、相当に大きいが、それでもボロ布同然の今の服よりはマシだろう。
 男がここまで回復出来たのは、少女のおかげだ。とはいえ金で感謝の気持ちを表した所で人間社会と縁の無い彼女では使い道がないし、そもそも男もそれほど持ち合わせがあるわけでもない。
 実際、これが男の精一杯なのであった。
「ありがとございマス!」
 少女はいつもの花のような微笑みを浮かべ、元気一杯にボロボロのシャツをたくし上げる。
「……だからって俺の目の前で着替えるな。俺の」


 それから、さらに数日が過ぎた。
「この草……打ち身に効きマスか」
 少女の前に並べられたのは、辺りで取れた幾つかの薬草だ。
「ああ。で、こっちが切り傷に効くのは、前に説明したな」
 ぱちぱちと爆ぜる焚き火の音を聞きながら、その一つ一つを、男は少女が理解出来るまで、丁寧に説明していく。
 一緒に行動している時に少女に付いた小さな切り傷は、人間が使う薬草で癒やすことが出来た。少なくとも人間の体の部分は、他の半人半獣と同じく人間と同じ性質を持っているらしい。
「はい。あれ、すごく治りまシタ」
 伸ばし放題だった蜂蜜色の髪も、今では櫛が通され、白く細い上半身をふわりと包み込んでいる。櫛も男がかつて手に入れた報酬の一つだったが、それも今は少女の物として洞窟の隅に飾られていた。
「あ。お肉、そろそろおいし匂イ!」
 そう言って少女が男を呼べば、焚き火の回りに立てられていた肉の串も程よい色に焼けつつある。
 この肉も、少女が持ち帰ってきた時には既に解体済みで、すぐ焼けるよう串まで通されていた。キジやウサギなど小動物とは違う味のそれは、今まで手軽に持ち帰る事の出来なかったもっと大きな生き物の肉なのだろう。
 男が先日シカで実践してみせたそれを、既に少女は自分の技術としてしっかりと身に付けていた。
「…………それから、な」
「ハイ!」
 少女の返事に混じるのは、次は何を教えてもらえるのかという期待の色だ。
 男が目を覚まして、まだ十日ほどしか経っていない。男がわずかに開けた間の意味を感じ取れるようになるほど、まだ少女は経験を積めてはいないのだ。
「明日……出ようと思う」
 故に、その意味を理解するまで、少女は少しの時間を要した。
「もうすぐ新月だし、それまでには次の村に着いておきたいからな」
 男が怪我をしたのは、前の新月の晩。それから既に、ひと月が過ぎようとしている。
 急ぎの旅というわけではないが、それでも……男の感覚からすれば、長居しすぎた。
「そ……デス、か……」
 口から出てきたのは、そんな言葉。
 男が十分な体力を取り戻していたのは少女も薄々は感じ取っていた。けれど、それからどうなるかは、なるべく考えないようにしていたのに。
「あの、だたら、その……今夜ハ……」
 ぐちゃぐちゃになった頭の中、ようやく紡ぐのは、要領を得ない言葉の欠片。いつもならさらりと口に出来るそれらが、なぜか今日は出てこない。
「ぐす……っ。ひっく……」
 その代わりなのか、目元に浮かんだ涙は拭っても拭っても次々と溢れ出してくる。
「……一緒に寝テ、くれますカ?」
 答えの代わり、小さな頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた男に、少女は涙で顔をくしゃくしゃにしたまま柔らかく微笑んでみせるのだった。


 入口から射し込むのは、穏やかな月の光。
「……起きテ、ますカ?」
 洞窟の壁を背に。胸元に掛かる僅かな重みから漏れたのは、微かな言葉。
 少女の問いに、男からの答えは無い。けれど、小さな頭を撫でる優しく大きな手は、問いの続きを促してくれる。
「あなた……どうして、旅してるデスか?」
 あの日、初めて出会った時。
 男を見つけたあの場所は、旅人など滅多に通らない所だった。故に少女も、特に警戒する事も無く歩いていたのだが……。
「……人を、探してる」
 少しの沈黙の後に返ってきたのは、そんな短い言葉だった。
「人……」
 細い背中に移っていた手は、やがて蜘蛛の体の付け根へと。優しいその動きに懐かしいものを感じながら、少女は男の手に身を委ねたまま、耳を傾ける。
「ずっと昔、そいつらに酷い事をしてしまってな。何とか探して、謝ろうと思ってる」
 蜘蛛の体を撫でる手とは反対の手で、男が胸元から取り出したのは、小さな水晶の首飾り。それは入口から差し込む微かな月の光を受けて、穏やかな輝きをたゆたわせている。
「そのために新しい魔法も覚えて、こいつを手に入れたんだが……」
「魔法……魔法使い、デスか?」
 そこで男の口から出てきたのは、少女が思いもしない単語だった。
「俺は例外だよ」
 普通の魔法使いは、もっと細くて小さくて、決して男のように山男然としているわけではない。イメージ通りに、研究所や辺境の塔に籠もっている者も少なくない。
「誰からも魔法使いには見えないって言われる」
 少女の反応は、男がいつも受ける反応と全く同じものだった。けれど普段なら決して愉快とは言えないその反応が、何も知らずに山中で暮していた少女のそれとしては意外で、男はついつい顔を綻ばせてしまう。
「こいつがあれば、すぐに謝りに行けるはずだったんだがな……」
 呟きに応じるように揺れる首飾りは、幾つかの飾りと触れ合う度に小さな音を鳴らすだけ。
「その人、謝たら…………戻てきて、くれマスか?」
 そんな男の視線を遮るように、少女は蜂蜜色の髪を揺らして男の体にしがみついてくる。
「わたし、あなたに、ずと一緒にいて欲しデス」
 小さな身体は、柔らかくて、暖かくて。
 魔法の研究の末に嗅覚を麻痺させてしまった男でも、良い匂いがするのだろうと思える程。
「そうだな……そうなったら、いいな」
 男は伸ばした両の手で、少女の蜘蛛の体をそっと抱き寄せるのだった。


 翌朝。
 断崖をゆっくりと降りてくるのは、蜘蛛糸を伸ばした巨大な蜘蛛の体。
 最初に両足で降り立ったのは、旅装を整えた男の足だ。
「本当に助かった。ありがとうな」
「お父サンが行たらダメ、言てた、その向こう……」
 蜘蛛脚の少女が指差すのは、ゆっくりと朝日が昇り始めた方角だ。
「その先にずと行けば、街、ありマス」
 それは、男が予想していた通りの向きだった。四対の足と糸を扱う蜘蛛の移動力は人間の参考にならないだろうから聞かなかったが、それほど遠くは無いはずだ。
「ぜたい……ぜたい、帰てきて下サイね」
 男の巨躯にしがみ付いたままの逆さまの体を優しく抱き返し……やがて、二人は名残惜しげに互いの手を離す。
「じゃあ……またな」
 それは、彼が長い長い旅の中でした、初めての約束。


 そして、男がこの旅でした最後の約束となる。

続劇

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