(前編) [2012/12/27] 越えたのは、胸ほどの高さのあるフェンス。 踏み出したのは、残り二歩のうちの一歩。 登ったのは、脛半分ほどの高さのある段。 そして揃えたのは、両足だ。 「…………」 吹く風に、黒い髪が揺れる。もう何日もトリートメントはおろか櫛さえ通していない髪は所々ほつれ、ささくれ立っている。 けれど、それを気にする事ももう無いのだ。 あと一歩。 そう。揃えた足でひょいと一歩を踏み出せば、少女の人生は……そこで、終わる。 たった一歩。 それで、世界は終わるのだ。 そんな状況の中、少女が肩から提げたポーチから取りだしたのは、携帯電話である。そろそろ珍しくなりつつある折り畳み式のそれを開けば……。 そこにあるのは、無残にひび割れた画面。 蜘蛛の巣状に亀裂の走る液晶パネル一つ一つに映る口端に浮かぶのは……自嘲の笑みだ。 尤も、少女が壊れたそれを確かめたのは、最期に誰かの声を聞きたかったとか、メールを送りたかったという意味ではない。 父はとうにいない。 母の電話を受けたのは、もう何ヶ月前の事か。 そしてメールのやり取りをするような友人は、既に少女には一人としていなかった。 それら全てに対する最後の決別の意味で、少女は携帯を確かめたのだ。 心は決まった。 揺るがない。 小さく頷き、携帯を閉じる。 落ちるのは一瞬。そしてその恐怖と加速に、意識は落下の衝撃よりも早くブラックアウトするという。さすがに二十五階もの高さがあれば、一階まで落ちれば即死だろう。 後の事なんか、知った事じゃない。 ばいばい、世界。 だが。 「あのー」 最後の一歩を踏み出そうとしたところで掛けられたのは、鳴らない携帯からではない、近くからの人の声だった。 掛けられた声に、少女は無言で振り向いてみせる。 「…………」 浮かぶのは明らかに不満の表情だ。 それはそうだろう。この世界とようやく別れを告げられると思った矢先、その最後の一歩を最悪のタイミングで止められたのだから。 「あのー」 ビルの屋上。空調設備のものらしき太い配管の影からひょこりと姿を見せたのは、小柄な背広の男だった。 年の頃は分からない。少女の基準からすれば、二十歳も半ばを過ぎた大人は、みんなおじさんだったからだ。 「あのー」 「…………何」 再び掛けられた弱々しい声に、少女はようやく言葉を漏らす。 「飛び降りるんですか? あなた」 男の問いに返ってきたのはため息一つ。 ビルの屋上、フェンスの向こう。両足を揃えて立ち、何も無い空間に飛び降りようとしている少女を見て……それ以外に何にしようとしていると思ったのだろうか、この男は。 「止める気? おじさん」 「いえ……」 だが、飛び降りる事を止めようとするかと思いきや、男はへらりと微笑んで、少女の問いを否定する。 「ならいいじゃん。止めないでよ」 もうこの世界に未練などないのだ。 家族も、友達もいない。楽しい事なんか何も無いこの世界で、生きている理由なんかどこにもないのだから。 「はぁ。まあ、そうなんですが……」 けれど、男の次の言葉は、少女の想像の範疇を超えていた。 「ちょっと髪、直させていただけません?」 |