「ね、幽霊さん」 眠っているラヴィを起こさないように近付いて、メイはこちらに背中を向けたままの少女に小さく声を掛けた。 「……何だよ」 返ってくるのは、愛らしくもぶっきらぼうな声。 「朝起きたら髪、梳かした方がいいですよ?」 柔らかな金髪は所々ほつれている。明日の朝になれば、幽霊の寝相を巻き込んで盛大な寝癖が付いている事は想像に難くない。 「……めんどいが、そうもいかんかぁ……」 自分の髪ならとっくに切っているだろう。が、生憎とこの体は自分のものではない。『探索者』がこの体に戻る気があるのかは知らないが、戻らないにせよ他人の体を勝手にいじるのは好むところではなかった。 とはいえ、長い髪を扱った経験など幽霊にあるわけがない。幽霊としてこの場所で目覚めた時からずっと短髪のままだったのだ。霊体なおかげで髪も一切伸びないから、切るどころか梳いた覚えすらない。 「良かったら、やりましょうか? 私」 「出来るだけ早く『探索者』捕まえて、元の体に戻りたいがなぁ……」 書庫にいるはずの探索者は珍しく不在だった。どこに出かけたのかも分からないから、いつ帰ってくるのかも分からない。 ベッドで眠る三人がこの非常事態を解決できる可能性はゼロに近い。そのうえ中の二人は、この問題を危機とさえ認識していないようだった。無限の知識を誇る『探索者』と書庫の知識だけが、幽霊にとってただ一つの頼みの綱なのだ。 「……それまでは、頼む」 情けなさそうに呟く、幽霊。 「はい」 その言葉と共に回された手に、思わず身を固めた。 「お、おい……」 幼子の力では今のメイにも敵わない。伸ばした腕に絡め取られ、頭を胸元に抱き寄せられた。ちょうど、くうくうと寝息を立てるラヴィと対称になる形だ。 「幽霊さんが元に戻ったら、もう出来ないでしょう?」 耳まで真っ赤にしている幽霊の髪を手櫛で柔らかく梳きながら、少女は呟く。絹布のようにしっとりと指を包み込むかと思えば、絹糸のように手の中でさらりと解ける不思議な髪。メイでさえ羨ましく思うその髪は、もしかしたら寝癖など一度も付いた事がないのかもしれなかった。 「知らん。寝るぞ、俺は」 「私も寝ます。おやすみなさい」 ふてくされたような少女の言葉にくすくすと笑い、魔法の明かりを消す。 「……なぁ」 やがて訪れた暗がりの中。メイの傍らで困ったような声が響いた。 「……離してくれると、寝やすいんだが」 少女の小さな頭は彼女の胸元、ラヴィの反対側に気まずそうに居座ったまま。メイにしっかりと抱き寄せられているから、離れるに離れられないのだ。 「なぁってば……」 ごめんなさい、幽霊さん。 メイは疲れたような少女の言葉に心の中でそっと手を合わせ、そのまま狸寝入りを決め込むのだった。 「ああ、やっぱりぃ」 乱れた髪に櫛を通しながら、メイは鏡の前でため息を吐いた。 鏡に映る青い髪は所々見当違いの方向を向いている。三人分の朝食を準備しながらタオルを蒸した方が、間違いなく早い。 「なあ」 振り向くと、寝ぼけ眼をこすりながらの幽霊が立っていた。 「良く分からんが……梳いてもらったほうがいいのか、これは」 極上の手触りを持つ幽霊の髪は、寝癖という言葉など知らないかのようにさらりと少女の背を流れている。もちろん、櫛を通す必要などどこにもない。 「髪、まとめておいた方がいいでしょう?」 「……そうか」 長いままが邪魔というのは気付いていたが、きれいにまとめる方法は当然知らない幽霊だ。メイがやってくれるというなら、ありがたい話だった。 乱れ髪のメイと入れ替わり、鏡台の前に腰を下ろす。 「おい待て!」 コットンのネグリジェを引き上げられ、思わず声を荒げた。 「え、だって、髪結ったらこの服脱げませんよ?」 「……そうか」 昨日着たのが頭から被るタイプの寝巻きだった事を思い出す。先に着替えて髪を結ってもらった方が良いのかとも思ったが、メイはこれから朝食の支度があるはずだ。 髪は結えないが、いくら幽霊でも着替えは一人で出来る。 「任せる」 そっと瞳を閉じ、メイが寝巻きを脱がせるに任せた。 メイの柔らかい指が幽霊の髪に絡み、硬い感触がすっと頭を撫でる。 髪を梳かれるというのは、思ったよりもずっと気持ちの良い行為だった。櫛が髪を噛む痛みもなく、さらさらと流れる髪が娘の指で丁寧にまとめられていくのが分かる。きゅ、と柔らかな衣擦れの音がして、裸の肩に軽く触れられた。 どうやら、終わったらしい。 「良く、似合ってますよ」 優しい声に瞳を開けば…… 「……な」 目の前の光景に幽霊は言葉を失った。 下着姿の少女が鏡の前、ちょこんと座っている。それはまあ、いい。 少女の頭の左右に結われた髪が、鏡の中でふわふわと揺れていた。耳の後ろで上手くまとめられているらしく、視界には入って来ない。頭を動かせば髪の束が目に入るが、まとめなくても同じだからそこまでの贅沢は言えないだろう。 確かに邪魔にはならない。 邪魔にはならないが……。 「……お前、趣味でやっただろ?」 正直、可愛すぎた。 「でも、似合ってますよ?」 「それはまあ、分からんでもないが……」 他人の目から見れば、確かに似合っている。幽霊も、鏡の中の少女は愛らしいと思う。 自分と思わなければ。 「とりあえず、他ので何とかならんか……?」 だが、自分がその格好を自分がするのは全くの別問題だ。 「あー。お姉ちゃん、かわいー!」 後ろから飛んできた元気の良い声に、幽霊はぐったりと首を折るのだった。 |