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第1話 少女、迷宮に迷い込む



さぁぁぁぁぁぁぁ………

 深い森に、雨が降っている。まるで霧のような、粒子の細かい雨……霧雨。静か
に降りしきる霧雨は青々とした広葉樹の葉を濡らし、その広い葉に溜まった水滴は
時折地面へとこぼれ落ちる。

ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ…

 その雨の森に、足音が響く。霧雨に泥濘るんだ地面を、誰かが走っているのだ。
薄汚れたマントのフードが頭を覆っているため、性別までは分からないが……
 「やだなぁ……。もぅ…」
 そこから漏れる声は少女のもの。雨を吸う事で湿り、重くなっているマントがうっ
とうしいらしい。うっとうしいのと、雨を防いでくれる事で、気分的には差し引き
ゼロか、多少マイナス……と言った所だろうか。
 と、少女は急いでいたその足をふと止め、転ばないように足元を見ていた顔を上
方へと向けた。フードの奥の視線は、森の奥へと注がれている。
 わずかに覗いた唇は、その寒さのせいか少しだけ青みがかっていた。
 「……。あれ…お屋敷?」
 森の奥に見えるのは、大きな屋敷。今は誰も住んでいないかも知れないが、それ
でも雨宿りくらいは出来るだろう。
 少女は一人首肯くと、再び走り始めた。



 「わぁ………。大きなお屋敷…」
 少女は入り口の柵から屋敷を眺めると、それだけを呟いた。
 古めかしい作りのかなり大きな屋敷。
 間違いなく洋風の建築物ではあったが、少女のよく知っている最近の造りではな
く、はるか昔の建築様式が使われているようだった。この屋敷は、数世紀もの昔か
らこの森の主として君臨し続けてきたのだろうか……
 「開いてるかな?」
 少女は恐る恐る、緑青の浮いた青銅のフェンスを押してみる。すると、金属のこ
すれる耳障りな音と共に軽い手応えが返ってきた。
 開いているのだ。
 しかも、手応えは軽い。
 油が注されているのだろう。
 この状況から導かれる結論は…ひとつ。
 「誰か……いるんだ」
 少なくとも、錆付いた扉に油を注すような気の利いた存在がいることは間違いな
い。
 少女の顔がぱっと輝く。
 「…雨宿りくらい…させてくれるよね」
 少女はそう呟くと、屋敷に続く大きな庭に足を踏み入れた。


 「ふぅ……」
 少女は玄関で一息吐くと、雨を吸ってすっかり重くなったフードを払い除ける。
その中から現われたのは、声に違わない、まだそう年端も行かない少女の顔。
 だが、その頭には普通の人間にある筈もない異質なものが付いていた。獣の…牛
の耳と、その角。彼女の感情を示すように力なく垂れ下っている所を見ると、どう
やらアクセサリーではなく、まぎれもない本物らしい。
 少女は獣人の一族と人間とのハーフであった。
 「よ……」
 少女は精緻な彫刻の施されたドアノッカーに手を掛け、軽く動かしてみる。割合
にスムーズに動くところを見ると、このドアノッカーにもちゃんと油が注されてい
るようだ。
 意を決すると、大きな扉に思い切りそれを打ち付ける。
 ゴ…………………………
 重厚な振動がノッカーを掴む手に伝わってきた。きっと部屋の中にはそれよりも
大きな音が響いているのだろう。
 しかし…
 「………やっぱり、誰も居ないのかな…?」
 いつまで経っても誰かが出てくる気配はない。やはり無人の屋敷なのだろうか……
 「誰もいないんだったら…勝手に入っても怒られないかな…?」
 そんな事を考えていると、分厚い樫のドアが少しだけ開いた。


 「……誰だ?」
 細く開いたドアの向こうから顔を覗かせたのは、一人の若い男であった。ぱっと
見れば、それなりの部類に入るであろう美しい顔をした青年であるが……
 「あ、あの……」
 寝起きなのか、青年の目付きはやけに険しい。そのいかにも不機嫌そうな雰囲気
に、少女は何となく気圧されてしまったようだ。彼女の牛の耳がぴんと立っている。
 「獣人族か……。何用だ?」
 この世界では別に人間ではないからといって差別が起こることはない。世界規模
で異種族との混血が進んでおり、ほとんど全ての人間が何らかの異種族の血を引い
ているといっても過言ではなかったからだ。
 現に、目の前の青年も背中に純白の翼を持つ、有翼人種である。おそらくは鳥人
間か何かと人間とのハーフなのだろう。
 「えっと…」
 「……何だ。雨宿りしに来たのか?」
 少女のびしょ濡れのマント姿。青年はその情けない格好に、今頃になって気付い
たらしい。
 「ええ…あ、はい。雨さえしのげればどこでもいいんですけど……」
 少女はおどおどと口を開き…
 「あと、出来れば毛布か何かがあれば…貸していただけ……」
 極めて遠慮げに、それだけ付け加えた。もっとも、最後の方は青年の鋭い視線に
かき消されてしまったが。
 「……この『迷宮』には何もないぞ。それでも構わないのなら……付いて来い」
 少女の言葉に青年はぶっきらぼうにそう声をかけた。


 「一階は使用人室、二階から上は客間。どうせ客などいないから、どこでも勝手
に使っていい。それから、地下室は危険な物が置いてある事があるから、絶対に立
ち入らないように」
 暗い廊下。
 そのやけに長い廊下を、青年の灯す明かりを頼りに進んでいく。だが、青年はラ
ンプや蝋燭を持っている訳ではない。光を放つ不可思議な球体を、手のひらに直接
浮かべているのだ。
 「あ…あの…」
 「やる事がなくて暇なら二階には書庫があるし、調理場は一階にある……材料は
全く無いがな」
 少女は、屋敷の説明を続ける青年に向かって声をかける。
 「…今はどこに向かって歩いてるんです?」
 と、そう言われて青年も立ち止まった。
 「浴室だ。体が冷えているようだから、暖まった方がいいだろう? 風邪でもひ
かれるとこちらが厄介だからな」
 そう悪い人ではないようだ。だが、ここに来るまでに二人は暗い廊下を進み、階
段を上がったり下がったりしている。
 「あの……。わたし、帰り道が……」
 青年はともかく、少女の方はここから入り口に戻れと言われて戻れる自信など全
くない。
 「……終わる頃には迎えに来てやるから、そう心配しなくても大丈夫だ」
 不安そうな少女を見やり、青年はそう言って苦笑した。


 「…とりあえず湯は使えるようにしておいた。ただ、浴槽は汚れているから使わ
ないほうがいいだろう。タオルはお前が入っている間に探して来ようと思うが……
他に用意して欲しい物はあるか?」
 「…………………」
 「なら、30分ほどで戻る」
 どうやら、用件はまとめて言うのが青年の癖らしい。勢いに圧倒されて返事が出
来ないでいる少女を尻目に、青年はどこへともなく消えていった。
 宣言したように、タオルを探しにいったのだろう。
 「あ、本当。熱くない……」
 少女は青年の置いていった照明代わりの光球をそっと動かしてみる。光球は熱く
もなく、冷たくもない、不思議な感触だった。青年の話では、紙や綿の上に置いた
としても火がつく事はないらしい。
 燭台のある位置に光球を乗せると、少女は服を脱ぎ始めた。汚れた服とは対照的
な白い肌が、光球のやわらかな光の下に照らしだされる。
 「…この服もぼろぼろ……。あの人、針と糸…貸してくれるかなぁ? あ、洗濯
も…」
 汚れ、擦り切れた服を見て、そう一人呟く。
 少女の旅は何のあてがあるわけでもなく、また何の目的もなかった。今となって
は、どうして旅を続けているのかすら分からない。
 ただ……ただ、旅を続けていたのだ。
 「…………」
 大きな瞳に思わず浮かんだ涙を細い指でそっとぬぐうと、少女は光球を胸に抱き、
脱衣所から浴室へと向かう。
 胸の光球から伝わってくる、柔らかな暖かさが何だか嬉しかった。

 「わぁ……。広い…」
 確か部屋の入り口には中浴場と書いてあったはずだ。だが、ここの大きさはちょっ
とした街の公衆浴場程の大きさがある。大理石か何かで造ってあるのか、ひんやり
とした冷たさが素足に気持ちいい。
 「あ…ほんとに埃だらけ…」
 だが、広いことは広いものの、浴槽自体は青年の言った通り薄い埃が層を造って
いた。それに、照明が手元の光球だけなので、異様な広さと暗さが却って少女の恐
怖感を煽らせる。
 「はやくシャワー浴びて…出よ…」
 少女は何となく残念そうにシャワーを取り、お湯を出すべくコックをきゅっとひ
ねった。

 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 「ど、どうした???」
 少女の悲鳴が響き渡ってほんの数秒。その数秒後に青年は少女のもとへと駆け付
けていた。
 「あ、水が、水が……血に…血の赤で……」
 恐慌状態に陥っているのか、少女の言葉は全く要領を得ない。
 その少女の手元に目を遣ると、実際には白いであろう少女の手が赤く染まってい
る。その赤の源は、手元のシャワー。
 透明な液体が出るはずのシャワーから、赤い液体が流れ出しているのだ。
 青年は少女を見下ろしたままため息と一つつくと、冷静な口調で呟いた。
 「……よく見ろ。ただの赤錆だ…。当分手入れしてなかったからな……。じきに
普通の湯が出るようになる」
 青年のセリフが終わる頃には、赤く染まった少女の手元はシャワーから流れ出る
透明な湯によって洗い清められつつあった。
 「あ……本当…。ごめんな……きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 二度目の悲鳴。
 「? 今度は何だ?」
 その問いに、上方から自分を見下ろしている青年を指差す少女。出来の悪い腹話
術師の人形のように、口をぱくぱくと動かす割には肝心のセリフがほとんど出てこ
ない。
 「あ、あの、あなた、何で、何で天井から、か、か、顔出して、顔出してる…?
??」
 少女は、『天井の壁』から上半身を覗かせている青年を指差したまま、それだけ
をようやく呟いた。
続劇
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