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7.救済の対価

「あれ…………兄さん!」
 異変に最初に気付いたのは、イズミルの上空で戦況の推移を見守っていたヒサの妹だ。
「あれは……」
 慌てたような妹の思念に転移術で駆けつけてみれば。
 ドゥオモの前に広がっているのは、息を飲むような光景だった。


「花が……」
 空を見上げながら呟くのは、イズミルの西側で戦っていた灰色の騎士である。
 既に動きを止める事に問題はなかった。戦っていた周囲の緑の巨人達は動きを止め、その場に音もなく崩れ去り始めていたからだ。
「綺麗……」
 傍らの万里も九尾の白狐の背から抜け出し、広い空を見上げている。
 二人の目の前にあるのは、青空に浮かぶ世界樹の姿。
 満開の花を咲かせたそれは、薄桃色の花弁を辺り一面に散らしていく。


 北の王都へ進路を定めた、紺色の飛行鯨の中。
「……どうしやした、お頭」
 表情を変えた女船長に声を掛けたのは、周囲の座標を確かめていた船員の一人だった。
「なんだか、匂いが変わったと思ってな」
「この様子だと、今日の晩メシはまた塩スープっすね」
 ヘデントールで補給を済ませたとはいえ、海賊船の台所事情も見かけほど楽な物ではない。節約出来る所は、それなりに抑えなければならないのだ。
「バーカ。その匂いじゃねえよ」
 笑いながらそう言い返し、エレはオルエースの舵輪をしっかりと握り直す。


「司令! 教官殿、大変です!」
 メガリ・ヘデントールの執務室に駆け込んできたのは、当直の通信兵だ。
「どうした!」
 辺境のヘデントールで、通信兵が慌てることなど滅多にない。ソフィア達が消息を絶った時でさえ呑気なもので、アーデルベルトはむしろ別種の危機感を抱いたほどなのだが……。
「ウナイシュに調査に言っていた者達からの入電で……それが、その……誤報だとは思うのですが……」
「……いいから話せ」
 風然の残党でもいて、戦闘になったのだろうか。
 要領を得ない兵の言葉に、ヴァルキュリアは苛ついた様子で先を促してみせる。
「滅びの原野が、消えました!」


「滅びの原野が……消えた……!?」
 イクス商会のイサイアス支店でその報告を受けたプレセアは、手にしていた書類を思わず取り落としていた。
「思いつく限りの連絡先から情報を集めなさい。どんなものでも構いませんわ! その情報の真偽は後で検討します」
 そもそも大元となる情報が正しいかどうかさえ分からないのだ。
 もし本当なら、世界は大きく動くだろう。
 それこそ、大後退が起きた時と同じ……いや、それ以上の衝撃となるはずだ。
「まったく。なんてことをしてくれましたの……!」
 思いついた幾つかの場所に自らも連絡を取るべく、プレセアは車椅子を動かして急ぎ商会を後にする。


 黒大理に覆われたその城で。
「……沙灯?」
 外を眺めていた鷲翼の女性に声を掛けたのは、禿頭無毛の人物だった。
「……誰か来ていたのですか?」
「はい。……終わったようです」
 それが誰か、シャトワールは聞こうとはしない。
 沙灯の目は赤く、表情には困惑の色が残っている。
 恐らくは沙灯自身にも心の整理が付いていないだろう。
「そうですか……」
 ならば、無理に聞き出す必要はない。
 彼女の心が落ち着いてから……あるいは、整理したくなった時に話してくれれば十分だった。
「……長かったですね」
「……はい」
 小さく頷き、肩に頭を乗せてきた女性を、シャトワールはただ静かに抱き寄せてやるだけだ。


 帝都大揚の市場でふと足を止めたのは、小柄な女性だった。
「母さん。どうかしたの?」
「……ううん。何でもないわ」
 少し前を歩いているのは、それぞれ両手に一杯の荷物を抱えた少女たち。買い出しに料理に家事に、何かにつけて彼女を手伝ってくれる、自慢の娘たちだ。
「ただ……ちょっと誰かに呼ばれた気がしたの」
 懐かしい声に。
 懐かしい香りに。
 それを古い友人に話せば、きっと時代が変わる匂いだと笑うのだろう。
「早く帰って支度しないと間に合わないよ。夕飯はリフィリアおばさんと、ムツキのお爺ちゃんも来るんでしょ?」
「そうね……。帰りましょうか」
 愛娘たちに笑顔で答え、コトナは我が家に向けて穏やかに歩き出す。


「イサイアス軍が撤退した?」
 イズミル北の国境に辿り着いたホエキンが受けたのは、環からのそんな報告だった。
「ああ。……ってか、この状況なら当たり前だな」
「まあ、そうね……」
 壁の彼方に見えていた薄紫の霧が、軒並み消えてしまったのだ。正直、戦争などしている場合ではない。
 それは、ようやくクーデターも治まったこちらも同じ事だろう。
「それでな、タロ」
「調査でホエキン借りたいっていうなら、安くしとくよ」
「それもだが……」
 周辺の調査は、既に動くトリスアギオンに通信機を乗せて、片っ端から出動させていた。通信室は今も次々と飛び込んでくる情報の整理に追われて大騒ぎだ。
「……西の調査のついでに、メガリ・ヘデントールにヴァルとガキども、迎えに行ってもらっていいか?」


 そして。


「終わったね……」
 イズミルから少し離れた丘の上。
 消えていく世界樹を見上げているのは、空からの脱出を果たしたカズネだった。
「ああ……」
 彼女が小さな頭を乗せているのは、ダンの膝の上。いつもなら嫌がるような甘え方も、今日のダンは気にしていないようだった。
「あーあ。満開の世界樹、すっごく綺麗だったのに」
 無数の薄桃の花びらが風に舞い散る光景を思い出しながら、カズネは小さく息を吐く。
「ああ……ッ」
 そんな少女の頭をそっと撫で、震える声で応じながら、少年の瞳に浮かぶのは大粒の涙。
「どうしたの、ダン」
 彼が背中を預けているのは、世界樹からの脱出に使ったトリスアギオン達だ。ポダルゲーは何とか原形を留めていたが、エイコーンは既に上半身しか残っていない。
 そして……。
「どうしたのじゃ……ねえよ」
 穏やかにそう問うてくるカズネも、エイコーンと同じ形をしていた。
 神王たるセノーテの力を借りて、世界樹に残された全ての力で滅びの原野の薄紫の霧を消失させたのだ。
 ただその代償として、世界樹は己の再生に必要な力さえも失い……世界樹に取り込まれていたエイコーンとカズネで無事だったのは……たったのこれだけだった。
「時間、戻す?」
「戻せるわけ……ねえだろ……」
 上半身だけになってしまった少女の穏やかな言葉を、ダンは震える声で否定する。
 こんなにも、カズネの思い描く世界に近付いたのだ。ここで刻を戻しては、彼女の頑張りの全てが無駄になってしまう。
 ただ一つ。
 彼女がいなくなってしまう事を除いては。
「カズネ……」
「ほら。何泣いてるのよ、ペトラ」
 力なく伸ばされた指に拭われても、ペトラの涙は止まらない。
「だって……」
 ヒサ家の術者達も、セノーテも。
 そして、カズネさえ。
 世界は、どうしてこうも犠牲を求めたがるのだろうか。
 それを防げなかったことにペトラは涙し、拳を握る。
「セノーテ」
「何ですか……?」
 穏やかに掛けられた声に、白銀の髪の娘はいつも以上に静かな声で応じてみせた。
「ペトラは取らないから、安心して」
「な、なにを……」
「だってあの時、見えちゃったんだもん……」
 世界樹の中で、四人の力を重ね合わせた時。
 カズネはペトラとセノーテの辿ってきた道も、知ることが出来た。十三年前の出会いも、そこに至るまでの物語も、セノーテが自分の限界を超えて紡いだ神術の正体も。
 そしてペトラを過去に送り出した後、セノーテがどれだけ彼との再会を心待ちにしていたかも。
「っていうか何? あたしに最初ツンツンしてたの、ヤキモチ……?」
 苦笑いするカズネから、セノーテは拗ねたように視線をそらすだけだ。
「……ちょっと、眠くなっちゃった」
 そして。
「カズネ……」
 ダンの膝に、小さくなってしまったその身を預けたまま。
「ああ……。きれい……」
 カズネは、そっと瞳を閉じた。


続劇

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