17.鯨王陥落 ホエキンの貨物室で立ち上がるのは、千茅の駆るオークであった。 けっして小さいとは言えない千茅の神獣でも、立ち上がってなお余裕がある。イズミル建設の時にはよく建設資材と一緒に運ばれたものだが、ホエキンの貨物室はその時よりもひと回り近く大きくなっているように思えた。 「後ろから来てるの、翼の巨人じゃないといいなぁ……」 弓も一応用意してあるが、それほど得意なわけではない。柚那や昌なら神術を放って迎撃するのだろうが、あいにく攻撃系の神術は千茅の苦手とする所だ。 だが。 「…………って、弓持ってどうするのよ」 よく考えれば、ここは貨物室の中だ。 いかに射撃の武器を持っていようと、城塞のように銃眼があるわけではない。 「せめて、後ろが空いてくれるとかしないとねぇ……」 後ろの扉が開けば矢を射る事は可能だろうが、それはここに多くの荷物がある以上、不可能な事だ。万が一を考えて密封されている物ばかりだから、外の汚染された空気が入る事は問題無くても……飛行中に船体が傾げば、荷物は端から外に落ちてしまう。 だが。 「……え、なんで!?」 その開かないはずの扉が、千茅の目の前でゆっくりと開いて行くではないか。 そして、扉の向こうに見えた影は……。 「……翼の巨人!」 報告書と、キングアーツから提出された写真で目にした、アームコートとも巨人とも付かぬ姿。写真の型と違う鳥に似た姿のものもあったが、翼の巨人達にも神獣やアームコートのように多くの型があるのだろう。 「え、ええいっ!」 必死に弓を引き絞り、ジュリア仕込みの弓術で続けざまに三発を放つ。 だが、残念ながら千茅の腕では、その一発も当てる事が出来ずにいた。 既に扉は全開だ。このままでは、翼の巨人達が貨物室に入り込んでしまう。 「もう! 来ないでーっ! 来ちゃダメだってばー!」 最終手段とばかりに手当たり次第の荷物を抱え、力一杯投げつけるものの、それも牽制以上の役には立たずにいる。 やがて、翼の巨人の一体……赤い獅子の兜を被ったアームコートを吊り下げた巨人が、その照準を貨物室の内へと定め……。 「…………ひっ!?」 全身を揺さぶる凄まじい衝撃が何だったのか、理解する暇さえ与えられず。 ……千茅は、意識を失った。 口の中に広がるのは、生焼けのどろりとした感触と、焦げ付いた苦みがほぼ同時。それを水で無理矢理流し込みながら、ククロが思い出したように口にしたのはそんな話だ。 「そういえばジュリア。前に言ってたシャトー・ラトゥールの話だけどさぁ」 「ああ、どうだった?」 切り出され、ジュリアもようやく思い出す。 先日、定期メンテの時に機体の調査を依頼しておいたのだ。 「びっくりしたよ。あれって実はさ……」 言いかけた所に割り込んでくるのは、ヴァルキュリアのどこか慌てた声である。 「ジュリア。もうひっくり返して良いのか」 「ええ、もう平気よ。ええっと、そうやって………そこ」 あっという間に固まっていくクレープ生地の端を僅かにこじり、その間にヘラを滑り込ませる。 「おう…………っ」 僅かな掛け声と共にひっくり返せば……。 「まあ。上手く出来ましたわね」 ほんのりと熱を持つフライパンの上にあるのは、裏側の仕上がりを待つだけの薄いクレープである。 「じゃ、後はトッピングするだけだね」 「ああ……」 焼き上がったクレープを皿のの上に移し、練習の合間に作っておいたクリームと一口大に切った果物を飾り付けていく。 「ねえ、ジュリア。シャトー・ラトゥールの……」 「そういえば、ジュリアちゃんは誰かに食べて欲しいとかありませんの?」 賑やかに……というにはいささかぎこちなく作業を続ける少女達を眺めながら、プレセアが口にするのはそんな問いだ。 「んー。半蔵とかかなぁ……? キングアーツの甘いもの、色々食べたいって言ってたし」 「あらあら」 そう言って首を傾げるジュリアの様子は、プレセアの期待した答えからは少々外れる物だった。もっとも、そのように言っていられる時期もそう長いものではないから、それはそれで微笑ましくあったのだけれど。 「……ホントは、シャトワールが食べてくれればいいんだけどね」 「あの方も、どこに行ったのかしらね」 この半年、行方を絶った者達の追跡に混じって、シャトワールの捜索も行なわれていた。しかしアーレス以外の者達と同様、いまだ消息は明らかにならないままだ。 「万里様も心配してるって言ってたし」 「ですわね……」 イクス商会の情報網にも引っかからないし、イズミルや八達嶺の商人達の噂にもそれらしき人物の噂は出てこない。 一つ目の仮面に車椅子のプレセアと同じように、神揚の民からすれば目立つ外見をしているから、神揚でも見つかればそれなりに噂に上ることだろう。 (……悪い結果にならなければ良いのですけれど) シャトワールに関しては、いくつかの悪い可能性も示唆されている。ジュリアのそんな表情を見るたび、プレセアは彼女の心を曇らせるような事にならなければ良いと思ってしまうのだが……。 「出来た…………」 気乗りのしない話をしながらでも、作業は着々と進んでいく。 「ヴァル、こんな所にいたのか」 それがようやく終わった頃、食堂に姿を見せた影が一つ。 「た、環!?」 その姿を目にするや、プレセアは小さく手を叩く。 「そうだ、ククロ君。ジュリアちゃん。ちょっと急ぎの用事に付き合って欲しいのですけれど」 「分かったよ。ほら、ククロ、行くよ」 プレセアの言葉にジュリアも即座に立ち上がり、いそいそとその場を去ろうとするが……。 「え? まだクレープ残ってる……」 「いいから! プレセア!」 「ほらほら、急ぐ」 失敗作のクレープらしき物体を律儀に片付けていたククロに伸びるのは、プレセアの車椅子に仕込まれたアームである。 「あ、ちょっと、わあああーーーーーーっ!」 「あ、おい…………っ!」 そのままククロを掴み上げ、二人は風のようにどこかに行ってしまった。 「…………あいつら」 食堂に残されたのは、ヴァルキュリアと環の二人だけ。 「何? 料理?」 「…………ああ」 そして、調理台の上に乗っているのは、皿に盛られたばかりのクレープだ。 「練習だが……食うか?」 辺りを見回しても、ナイフやフォークの類は見当たらない。どうしようかと一瞬迷うが……。 「ああ。ちょうど腹減ってたんだよな」 彼女が答えを出すより早く環の手はひょいと伸び、そのままクレープをつまみ上げた。 彼女の試練の成果は、たった一口で彼の口の中へ。 「……どうだ?」 「うん。美味いんじゃねえか?」 ジュリアに指南してもらったとはいえ、初めての料理だ。それがお世辞だったのか、本音だったのかは分からない。 「そ、そうか……!」 けれどそれは、今はどうでもいいと……。 ヴァルキュリアは心の底から、そう思った。 ゆっくりと、後部の扉が閉じていく。 辺りにしゅうしゅうと響くのは、ホエキンに仕込まれた機構が貨物室の外の空気を押し出している音だろう。 「空気の排出完了。もう降りても大丈夫ですよ」 やがてその音も止み、通信機から聞こえてきたニキの声に、アーレスは自らの機体から抜け出した。 これだけの巨大な物体が悠々空を飛んでいるのは少々信じられなかったが、黄金の竜や背後のシュヴァリエの例もある。そういう物があるのだろうくらいにしか思わない。 「……殺したのですか?」 「まさか」 背後のシャトワールからの問いに小さく応え、床の上へと飛び降りる。 ソル・レオンの推進器で一気に飛び込み、当て身を食らわせただけだ。動かないのは、外からの衝撃をダイレクトに受けて気を失っているからだろう。 「ニキ。中の奴を引きずり出して、縛っとけ。とりあえず人質にする」 殺す事はいつでも出来る。だが、人質は生きている間にしか務まらない。 「まったく。人使いが荒い事ですな」 「沙灯! 他に人はいないんだろうな!」 「オークの一人と、前の方に二人いるだけだよ」 最後に着艦したオーキュペテーの中からの声に、足元に転がっていた刀を拾い上げる。神揚の武器は使い慣れていないが、ないよりはマシだろう。 もっとも、これからの艦内制圧に必要になるとも思えなかったが。 「よし。なら行くぞ、シャトワール、沙灯」 「ええ。分かりました」 バルミュラから降りたシャトワールと、空から舞い降りてきた沙灯を従えて、アーレスは貨物室から続く前の操縦区画へと歩き出した。 |