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9.月夜鷲翼 (げつやしゅうよく)

 琥珀色の夜空に浮かぶのは、霧に似た琥珀と、銀灰の月。
「ふぅ……」
 ふと目が覚めた万里が眺めているのは、部屋に面した小さな庭である。
 あの戦いから、二日が過ぎた。
 いくらニキに囚われ、テウメッサのヒトガタ変化で疲弊していたと言っても……本当にこの二日間を力の回復にだけ充てて良かったのだろうか。
 動かない身体では役に立たないどころか、辺りの足を引っ張るだけだと分かってはいたが……。
「万里……」
 そんな彼女を呼ぶ声が響いたのは、小さな庭の上方からだ。
「え……?」
 見上げれば、月光を背に静かに立つのは、一人の少女。
 鳶色の髪に、金の瞳。
 万里をどこか寂しげに見下ろすその顔を、彼女はよく知っていた。
 だがその少女は、今はここにはいないはずの……。
「半蔵……? どうしたのですか? こんな所に」
 今はキングアーツへの特使として、はるか北のメガリ・エクリシアに赴いているはず。しかも大きな動きを翌日に控えたこの夜遅くに、どうしてこんな所にいるのか。
「キングアーツへの使いは? もしかして、上手く行かなかったのですか?」
 ソフィアも彼女の回りの娘達も、神揚という国の存在を理解していると聞いていた。だからこそ、どこか不安に思いつつも……心のどこかで大丈夫だろうと安心していたのに。
 その目論見は、甘かったのだろうか。
 それとも万里達のように、メガリ・エクリシアでも何らかの予想外の動きがあって、万里達との和平は不可能な事態に陥ったのだろうか。
「…………そっか。やっぱり、そうだよね」
 けれど少女の反応は、そんな万里の言葉とは全く繋がりのないものだった。
 何かを諦めたかのように、少女は静かにそう呟いて……。
「覚えてるわけ、ないか」
 ごう、と一瞬強い風が吹き。
「半蔵っ!?」
 万里が思わず閉じた瞳を開いた時には、既に半蔵の姿をした少女は姿を消していた。
「いない…………」
「どうかなさいましたか? 万里殿」
「いえ……何でもありません」
 中の異変に気付いたのだろう。鍵を開けて声を掛けてきた珀亜に、万里は内心の動揺を隠しながら、務めて優しく言葉を返す。
 ほんの一瞬、珀亜にその事を相談すべきかとも思ったが……。
「……お勤めご苦労様、珀亜」
 恐らくはいまだ疲れが癒えていないのだろう。
 そして、危険な任務を命じてしまった半蔵の事が気になって、何かの幻でも見てしまったに違いない。
「そうですか。……では、失礼します。万里殿も早くお休み下さい」
 ニキからは、今日は侵入者が現れるかもしれないと言い含められていた珀亜だ。万里との繋ぎを取るために半蔵辺りが忍び込んできたなら見逃そうと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。
「そうだ、珀亜……」
 小さく一礼し、退室しようとする珀亜の背中に掛けられたのは、小さな声。
「少しお話を、いいですか?」
 番の少女はその言葉に、わずかに考え……。
 やがて、静かにその場に腰を下ろしてみせる。


 八達嶺の城内から見上げる二つの月は、市街から見上げるそれと、さして変わりのない物だ。
「いよいよ、明日か……」
 ニキ達がキングアーツに迫った返答期限は、たったの三日。相手に圧を掛け、正常な判断と十分な準備を与えないための三日間という事は、千茅にも何となく分かっていた。
 けれどそれは、千茅達にとってもたったの三日でしかなかったのだ。
(わたし、何か出来たのかな……?)
 浮かぶ想いに、ため息を一つ。
 見上げた月は、不思議とぼんやり滲んでいて……。
「あれ……?」
 その中央から舞い降りてきたように見えたのは、小柄な影。
 柔らかく揺れる鳶色の髪と、背負った月を隠すかの如く広がる、一対の鷲翼。月の光を浴びながら、城の屋上へ音もなく舞い降りたのは、一人の少女であった。
 千茅の気配を感じたのか、振り向いた金の瞳に浮かぶのは、大粒の涙。
「沙灯……さん?」
 思わず漏れたその名に、少女は浮かんだ涙を拭い、どこか意表を突かれたように千茅を見つめているだけだ。
「……わたしを、知ってるの?」
「え、あ…………っ」
 鷲翼の少女のその言葉に、千茅の混乱は加速する。
 本物の沙灯は時を巻き戻す時、時の狭間に消えたと聞いていた。世界を巻き戻す代わりに、その歴史からは弾き飛ばされたのだと。
 だとしたら……目の前の沙灯と名乗った少女は、一体誰なのか。
「……別に内緒にしなくていいよ。使ったの、わたしだし」
 千茅の沈黙を、混乱ではなく禁呪についての秘密のためだと思ったのだろう。沙灯は穏やかに、そしてどこか力なく微笑んでみせる。
 その微笑みは、千茅があの夢の中で何度も見たものと同じもの。
「あの、わたしは……っ」
 混乱はしたままだ。
 けれど、聞きたいこともいくらでもある。
「ごめんなさい。ちょっと見つかっちゃって……もう行かなきゃ」
 そんな千茅にもう一度笑みを向けて、沙灯はもう一度背中の鷲翼を大きく広げてみせた。
 ひと打ちするごとに風が起き、小さな身体をゆっくりと持ち上げていく。
「貴方、名前は?」
「千茅! 千茅……クマノミドー!」
「熊埜御堂家の子か……それじゃ、千茅さん。千茅さんもどこかに隠れた方が良いよ。わたしを見たって言ったら、千茅さんも巻き込まれちゃうから!」
 言われ、屋敷の下からばたばたと足音が聞こえてきた事に気付く。どうやら見張りに見つかってしまい、そこから逃げている最中だったらしい。
「あ…………」
 ばさりと大きな音がして、振り返った時には既にその姿はない。
「今のって…………本当に、本物の沙灯さん……?」
 それは幻だったのか。
 それとも……。


 夜が更けてもなお明かりが灯るのは、白木の床が張られた神獣の厩だった。
 とはいえ、さすがにこれだけの深夜ともなると、厩舎に残っている者もほとんどいない。
「まだ整備ー? 大変ねー」
 そのわずかな残留者の一人。柚那が声を掛けたのは、厩舎の隅に組まれた三つ首の神獣である。
 いつもは多くの技術者が付いているその騎体にも、今はたった一人が付くだけだ。
「出来る事はしておかねばなりませんからね。柚那さんも明日の支度ですか? 使者の護衛に付くと聞きましたが」
「ええ。ガイアースの最終確認」
 珍しく寝る前に気になって、様子を見に来ただけだ。彼等と違い、今までずっと詰めていたわけではない。
「ロッセもいい加減寝なさいよ? それじゃ、お先ー」
「お疲れ様です」
 そんな白猫の娘が姿を消せば、辺りは本格的に沈黙が支配するようになる。彼以外に動きがあるのは、恐らくはアームコートの修復に付いているキングアーツからの来客くらいのものだろう。
「……いよいよ明日ですか」
 沈黙を破るように独り言ち、三つ首の神獣を見上げる。
「何事もなければ良いのですが……」
 次に越えるべきは、恐らくは明日。
 しかし明日を越えれば、二つの国の和平と……そしてその先に繋がる本当の平和が見えてくる。
「しかし……」
 既に主機と呼ばれるこの騎体最大の機構は形になっていた。後は、実際に動かしてみるだけだ。
 もちろんそれを全力で動かせば、何が起こるか分からない。下手をすれば、駆り手たるロッセも無事では済まないだろう。
「けれど……いざとなれば…………」
 それだけの覚悟はある。
 呟き、懐に収めた手を引き抜けば、その掌に握られているのは……ひと組の瑠璃の指輪だ。
「……ロッセ」
 そんな彼に掛けられたのは。
 もはや人影もろくにない神獣厩舎に響いたのは、彼を呼ぶ、少女の声。
「はい…………?」
 また柚那が引き返してきたのだろうか。
 そんな事を思いながら、黒豹の足の青年は静かに振り返り……。
 全ての言葉を、失った。
「貴女は…………」
 穏やかに微笑む少女の姿に、その手からこぼれ落ちたのは。
 ひと組の、瑠璃色の指輪であった。

続劇

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