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10.オ・イ・ワ・イ しましょ!

 音もなく開いたのは、士官宿舎の個室の扉である。
 重い足取りで力なくベッドまで歩み寄り、上衣を脱ぐ力すら残っていないのか、そのままぼそりと身を投げ出した。
「…………疲れたぁ」
 小さくぼやき、傍らにあった物に手を伸ばす。
 窓から差し込む月明かりの中。ずるずると腕の中に引きずり込まれたそれは、たっぷりと綿の詰まったぬいぐるみであった。
 ぎゅっと抱きしめると同時、口からはふわ、という気の抜けた吐息が漏れる。
「あの九本尻尾も、だっこしたらこんな感じなのかなぁ……」
 よくよく見れば、ぬいぐるみは腕に抱かれた一つだけではない。ベッドサイドにその下、棚の一部に至るまで、ぬいぐるみを筆頭とした可愛らしい小物類で埋め尽くされているではないか。
「……知り合いになれたら、抱きつかせてもらえるのかな」
 そんな彼女が思い出すのは、以前見た夢のこと。
 彼女達の行く末と、彼女達が魔物と呼ぶ存在と共に過ごす人達の物語。そして、柔らかそうな鷲の翼を持つ少女の数奇な運命と……。
「でも、夢だしなぁ」
 しかし、それはあくまでも夢である。
 魔物はいまだメガリ・エクリシアに度重なる攻勢を掛けてきていたし、いくら彼女達がこちらを謎の巨人と認識しているとはいえ、もう少し分かろうとしても不思議ではないはずだった。
「夢………だよねぇ……」
 夢なのだ。
 きっと、こうしてこんな歳になってもぬいぐるみを抱えて喜んでいる自分の弱い心が生み出した、幻なのだ。そうに違いない。
 あの戦いでもソフィアと戦っていた、九尾の白狐にも似た愛らしいキツネのぬいぐるみを抱きかかえたまま、ふわ、と大きなあくびを一つ。
「あー。でも、このまま寝たらダメよねぇ……」
 軍服にも皺が寄ってしまうし、せめて汗くらいは流したい。よく考えれば、今日は戦闘が終わってすぐにソフィアとの顔合わせがあったから、シャワーすらも浴びてはいないのだ。
「けど……リファ……か」
 呼ばれたその名を口にすれば、思わず表情が緩んでしまう。
 その呼び方は、家族にしかされた事のないものだった。士官学校にいた頃でも軍務一辺倒だった彼女には、そう呼んでくれるような友はついぞ出来た覚えがない。
 その上……だ。
「ふふ……っ。ソフィア……か」
 友達ではない事は分かっている。けれど、そんな呼び方が出来る相手が家族以外に出来たのは、生まれて初めてのこと。
 もう一度その名を口にすれば、思わず顔がにやけてしまう。
 だが。
「リフィリアー。いるー?」
 その顔が引きつったのは、ドアをノックする音と、外から聞こえてくるジュリアの声があったから。
「ど、どうした!」
 そう口にしてから、しまった、と思う。
「今から街でソフィア隊の結成パーティしようと思うんだけど、リフィリアもどうかなって思ってー」
「何だここ。鍵掛かってねぇぞ?」
 どうやら外にいるのはジュリアだけではないらしい。エレの声以外にも……下手をすれば、彼女を除いたソフィア隊の全員がいるのかもしれない。
「こ、こらっ! 入るんじゃない!」
 外ではヴァルほどではないにせよ、鉄面皮に近い印象を持たれている彼女である。そんな彼女がこんな部屋で怠惰な時間を過ごしている事を知られたら……恐らく、彼女のメンタル的に待っているのは身の破滅だ。
「流石に失礼よ、エレ」
「分かった! すぐに行くから!」
 抱えていたそれをぬいぐるみ山の中に放り投げ、慌ててベッドから立ち上がる。
「軍の集まりじゃないから、リファも私服でいいからねー?」
「は、はい……っ、ソフィア……」
 その名で呼ばれた事は嬉しかったが……。
 リフィリアは、自身の趣味を辺りに気取られない程度の私服という、新たな問題を突き付けられたのだった。


 メガリ・エクリシアの執務室には、夜遅くまで明かりが灯っている事も珍しくない。
 そんな夜の執務室に現われたのは、今日赴任してきたばかりの二人の将校であった。
「……スミルナ・エクリシアの調査?」
 それは、このメガリ・エクリシアよりいくらか南、巨大な湖のほとりにある、滅びの原野の薄紫の瘴気に覆われていない場所のことだ。彼の地は滅びの原野の最中にありながら緑の木々に覆われ、命溢れる文字通りの『清浄の地』となっている。
「調査もほとんど進んでいないと報告書にありましたので。まだ有人のスミルナかどうかも定かではないのでしょう?」
 開拓の前線基地であるメガリの任務は、大きく二つ。
 滅びの原野の居住地化と、清浄の地……スミルナの確保である。
 今は平和な農耕地と化しているメガリ・イサイアスやメガリ・ニルハルゼアの周辺も、かつては滅びの原野の瘴気に覆われた不毛の地であったのだ。それらの開拓は、前線基地であるメガリと、清浄の地たるスミルナを起点に進められてきた。
「魔物の出現があるからな。進んでいないのは事実だが……もう少し落ち着くまで待てないか?」
 そう。問題なのは、スミルナの位置であった。
 メガリ・エクリシアの南……そして、魔物の巣の北。すなわち、こちらと敵地のほぼ境界線上……一番の混戦地帯に彼の地はある。
 今のところ清浄の地が戦場になったことはなく、魔物達もそれは避けているようだったが……状況がこじれれば、微妙な均衡もどう転がるか分からない。
「それは分かっていますが……」
 魔物の脅威がある事も、時期尚早なのも理解の上だ。
 けれど……アーデルベルトにも、早期の偵察を実現したい理由がある。
(出来れば、あの出会いまでに何とかしておきたいのだが……)
 後にアレクは、彼の地に調査に趣いた際に二人の少女と出会うことになる。出来ればそれまでに、彼やセタのように夢を見た神揚側の人間がいるかどうかを確かめておきたかったのだ。
 その日まで、もうそれほどの時間はない。
「こちらとしても、状況の確認だけでもしておきたいと思うのですけれど」
 プレセアには、陳情の口添えを頼んだだけだ。細かい理由や夢の話は伝えなかったが、士官学校からのよしみもあってか、アーデルベルトに力を貸してくれていた。
「…………アレク」
 互いに沈黙をまとったその場に一手を与えたのは、脇に控えていたメガリ・エクリシアの副官だった。
 彼のひと言に、アレクは肩の力を抜き……。
「……そうだな。時期尚早と言ってばかりでは、物事は進まんのかもしれんな。任せる」
「ヴァル。アーデルベルトさんに、スミルナまでの案内をしてやってくれ」
 そして環と共に脇に控えていた彼の補佐役は、環の言葉に無言で頷いてみせる。
「隊で動くにしても、道案内は必要だろう?」
 ぴっちりとした黒服をまとう彼女は、アームコートを持たない環の代わりに動く、彼の部隊唯一の隊員なのだと聞いていた。
 アーデルベルトの首に鈴を付けておきたいのか、それとも単に部隊の効率の良い運用を望むだけなのか……。
「了解しました。行動計画は明日の一番に提出いたします」
「そう急がなくてもいい。王都からの長旅だったんだ、二人とも少しはゆっくりしたまえ。……それこそ拙速というものだ」
 いずれにしても、覆すための最初の一手は打てたのだ。ひとまずはそれを喜ぶべきだろう。
「それと、二人とも」
 一礼をして退出しかけたアーデルベルトとプレセアの背中に掛けられたのは、執務机からの声。
「これは個人的な頼みなんだが……。ソフィア隊で困りごとがあれば、上手く手伝ってやってほしい」  どこか困ったようなそれは、メガリ・エクリシア司令官の顔でも、キングアーツ第二王子の顔でもなく……カセドリコス家の兄としての顔だった。
 その言葉を、軍人として受け取って良いのか、それとも二児の父親として受け取った方が良いのか、一瞬悩み……。
「……承知いたしました」
 男は敬礼をせずに、一人のアーデルベルトとして。
「もちろんですわ」
 女性は穏やかな微笑みで、ソフィアの友人としてそれを受け取るのだった。


 セタがドアノブをひねれば、そこは一切の抵抗をする事もなく、あっさりと扉を守る役目を放棄した。
「……鍵がかかってないんですか」
「だいたいいつもこうだよ。起きろ、コトナ」
 さすがにドアを開けたまま入ろうとしないセタを押しのけるようにして、エレはそのままずかずかと室内へ。入ってすぐのベッドの上で小さな寝息を立てている戦技教導官にそっと手を伸ばし……。
「まだ夜じゃありませんか」
 いつものやり取りで起こされたコトナが辺りを見回して呟くのは、そんなひと言である。
「みんなで呑みに行くぞ。起きろ。……っつか、また風呂にも入ってないんだろオマエさん」
 もはやコトナからは返ってくる言葉もない。無言でもう一度ベッドに倒れ込んだところで、伸びてきた手が少女を再び抱き起こす。
「お風呂に入らなくても死にませんし、食事は今日はもう済ませましたから……」
「姫さんの命令だっつの。……まあいいや、勝手に抱えて行くからな」
「でしたら抵抗はしませんのでご自由に」
 とりあえず風呂に放り込んでから着替えさせるか……などと考えながら部屋を出れば、ちょうどそこではセタとククロ達が話をしている所だった。
「……何だい。入って来りゃ良かったのに」
「レディの部屋に許可なく入るような事は流石に」
 エレの肩に担がれている半ば寝こけた物体を果たしてレディと呼んで良いものかどうかは微妙な所だったが、ひとまず生理学的に女性である事は間違いない。
「そうだ。今から姫さんと一緒に呑みに行くんだけどよ。お前らも来いよ」
 メガリまでの長い旅の間に話した限り、ソフィアは大人数の騒ぎも平気なようだった。他の隊のことも気にしていたようだし、ジュリア達も知った顔がいれば喜ぶだろう。
「俺は良いや。まだイロニアの調整が残ってるんだ」
「や、そこまで根詰めてやんなくてもいいぜ……?」
 エレの以前いた工廠でも、夜遅くまで作業している者達はいたが、それは納期の直前がせいぜいだ。もちろん今のメガリ・エクリシアは、夜を徹して調整作業を行わなければならないような緊急の用件は控えていない。
「でしたら、わたしも遠慮しておきます」
 そんなシャトワールに向けられたのは、ククロの笑顔。
「いいよ、俺は調整の方が楽しいだけだから。シャトワールは行ってくればいいよ」
 そこには無理をしている様子や、嫌味のような物は一切ない。本当にククロの中では、機体の整備が宴会よりも優先されているのだろう。
「ククロも来なさい。あなたはもう少し、コミュニケーション能力を身に付けた方がいいです」
「……一番コミュニケーション能力ないやつに言われてりゃ、世話ねえな」
 肩口あたりから聞こえてきた寝ぼけ声に、エレは呆れたようなため息を一つついてみせる。


続劇

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