-Back-

 闇の中。
 少女に掛けられるのは、静かな声。
「沙灯……」
 呼ばれるのは、少女の名だ。
 それを呼ぶのは……いつもの、彼女の主である狐の姫君ではない。
「あなたは……誰?」
 彼女自身。
 鷲の翼に、翼と同じ色の短い髪。
 纏う服も、顔も同じ。
「…………」
 違うのは、瞳の色と指の先。
 沙灯の金ではなく、銀の瞳。そして、すいと伸ばした左手にはめられた、小さな瑠璃色の指輪。
「…………誰?」
 彼女によく似た少女は、鏡合わせのように立つ少女に手を伸ばしただけで、それ以上何も言おうとはしない。
「沙灯……沙灯………」
 夢の世界に響くのは、声。
 それを呼ぶのは、知らない声ではない。
 沙灯のよく知った……。


「………あ」
 沙灯がゆっくりと目を開けると、少女を覗き込んでいたのは見慣れた顔。
「おはよ、沙灯」
 穏やかに微笑む、狐の姫君。
「ああ、おはよう。万里」
 そんな主にそっと手を伸ばし。
 沙灯は、穏やかに微笑み返すのだった。





第2回 前編




 薄紫の荒野をゆっくりと進むのは、黒金の騎士と、灰色の鎧をまとう細身の騎士の二人組。
「スミルナ? この近くにもあるんだっけ」
 黒金の騎士に乗るのはソフィア。
「ああ。ソフィアは行った事はあるのか?」
 そして灰色の騎士をまとうのは……彼の兄、アレクである。
 以前の戦いで大きな損傷を受けた灰色の騎士・ライラプスも、ソフィアと共に運び込まれた補充物資のおかげで、ようやく修復を終えることが出来ていた。
「イサイアスの西の山にあるスミルナには、一回だけ」
「なら、珍しくはないかな」
 今日の目的は戦いではない。
 修復を終えたライラプスの動作試験を主としたものだ。
 目指す先は、スミルナと呼ばれる清浄の地。
「そうでもないよ。スミルナって、場所ごとに環境が全然違うって聞くし」
 ソフィアは騎士同士の会話を成り立たせる通信機に向けてそう呟くと、辺りの薄紫の光景を見回してみせる。
 人の生きる事の叶わぬ死の荒野……滅びの原野。
 そんな中でごく希に、人の生きられる場所が見つかる事がある。まるで砂漠に見つかるオアシスの如く。
 大陸の大半を滅びの原野へと変えた古代の災い……『大後退』の時代の技術なのだろう。周囲を薄紫の世界に変えられながらも、いまだ本来の世界を保ち続ける小さなオアシスを、ソフィア達はスミルナと呼んでいた。
「スミルナ・イサイアスは、岩だらけであんまり面白い所じゃなかったのよね……」
 見上げた空は確かに青かったが……それだけだ。
 足元に広がる礫砂漠も確かに薄紫色ではなかったが、木も動物も暮らせぬガレキの荒野を清浄の地と言われても、そうそう実感の沸くものではない。
「そうか。なら、こちらの方が面白いかもな」
 薄紫の荒野を進んでいくと、やがてその彼方にそれらしきものが見えてきた。
「うわあ………!」
 薄紫でない。
 緑、である。
 かつて見た礫砂漠のスミルナとはまるで違う。薄紫の異形の地に忽然と現われた広く静かな森は……まさに死の大海に浮かぶオアシス、清浄の地と呼ぶに相応しい様相を備えたものだった。
「降りるぞ、ソフィア」
 そんな清浄の地を侵さないよう、アレクは森の隅に灰色の騎士を停めると、ゆっくりとその背中から姿を見せる。
 緑の森の空気が清浄な事は、既に今までの調査で確認済みだ。
 滅びの原野の空気は、キングアーツの煤塵混じりの空気に耐える義体の肺すら耐えられないが、ここでならば義体化されていない生身の肺でも問題無く呼吸する事が出来る。
「でも、魔物は大丈夫なの?」
 今日の目的は戦闘ではない。修復を終えたライラプスの試運転と、スミルナの調査を兼ねたものだ。
 大切な清浄の地を踏み荒らさないよう、アームコートを降りるのも分かる。
 だが、向こうはこちらの事情など気にしてはくれないだろう。
 黒金の騎士が魔物ごときに後れを取るとは思わないが、さすがのソフィアも、生身で巨大な魔物達と戦えると思うほど自信過剰なわけではない。
「何度か調査が出たが、スミルナには魔物は出ない、という結論が出ている」
 巨大な魔物がこの森を闊歩すれば、木々をなぎ倒すなり足跡なりの痕跡を残すはずだろう。だが今の所それらしき痕跡はなかったし、実際に魔物に遭遇したり目撃したりといった報告もなかった。
「そっか……」
 魔物達はあのおぞましい薄紫の世界や、巣を覆う琥珀色の霧の中でしか生きられないのかもしれない。
 ソフィア達キングアーツの民が、蒸気と煤煙に包まれたメガリや、この清浄の地でしか生きる事が出来ないように。
「ソフィア。ここはイサイアスのスミルナと違って湿気が多い。コートと手袋は忘れずにな、錆びるぞ」
「分かってるわよ」
 搭乗スペースの隙間から吸湿機能を備えたコートと手袋を引っ張り出し、ソフィアも黒金の騎士の背中から元気良く飛び降りるのだった。


 琥珀色の霧のたゆたう空の下。
「ねえ。これ、似合うんじゃない?」
 居住区に並ぶ露店で鮮やかな短衣を広げてみせるのは、狐耳の少女だった。
「でも万里。わたし、背中があるから……」
 沙灯の背中の羽根は、神術的な補助もあって出し入れが可能になっている。普段は問題無いだろうが、いざ翼を出すときになればこの短衣では間違いなく引っかかってしまう。
「そっか……。じゃ、どれがいいかな……」
 次の服を物色し始めた万里の様子に、沙灯は思わず苦笑い。
「わたし、万里のが選びたいんだけど」
 これから二人が就く事になったのは、久方ぶりの外出任務。
 偵察と調査を兼ねたものであって、別段誰かに見せるというわけではないのだが……それでもお洒落したいというのは、少女達の年頃では仕方のない所だろう。
「私はさっき帽子買ったから、もういいよ」
 頭の狐耳を覆うように引っかけられた大きめの帽子は、先程別の露店で買ったものだ。
 ついでに言えば狐の尻尾を覆うように履かれたスカートも、今日の買い物の戦果である。
「だから今度は沙灯のばん」
「じゃ、じゃあ………」
 そんな万里の様子が嬉しくて。
 沙灯も並ぶ服から好みの柄を選ぼうとして……。
 二人の元に掛けられたのは、長身の黒い影。
「…………姫様」
 呆れたように呟くのは、黒豹の脚を持つ青年だ。
「ああ、ロッセ……」
 それを見た瞬間、万里のスカートを内側から持ち上げていた尻尾が、しゅんと垂れる。
「小官は、偵察を兼ねて、北八楼へ少し休みに行ってはどうですか、とは申しましたが……」
 怒りすら湛えた鋭い視線に、沙灯もおずおずと選んだ服を店先へと戻す。
「街で散々買い物を満喫しろとは言っておりませんよ」
「…………あぅぅ」
 本当は、外に着ていく服をちょっと選ぼうとしただけなのだ。
 それがついつい楽しくなってしまい、予想以上に長引いてしまった。
「沙灯も。姫様をお諫めする立場でしょう」
「…………ごめんなさい」
 ロッセにぴしりとそう言われ、沙灯も小柄な体をさらにすくませてみせる。
 そんな補佐役の青年に見送られながら、二人の少女はとぼとぼと神獣達の待つ発着場へと歩き出した。
「……それと沙灯」
「はい?」
「ヒメロパは検査中ですから、今日はテルクシエペイアで出てください」
 その言葉に、沈んだ顔の鷲翼の少女は、さらに表情を曇らせる。
「ヒメロパ、調子悪いんですか?」
 彼女達の駆る神獣は、ただの兵器ではない。
 確固たる意思を持つ、彼女達の相棒だ。
「定期検査ですよ。先日はテウメッサがしていたでしょう。……テルクではダメですか?」
「いえ。……そういうわけではないんですが」
 ロッセの問いに、沙灯はそう言ったきり黙ってしまう。
 言いたい事があるのだろうが、それを口にして良いものか迷っているのだろう。
「……ロッセさん」
 やがて紡いだその言葉に宿るのは、今までとは違う意思。
 本来問いたかった事ではなく、話題をすり替えたとのだろうが……それは、問いかけを受けたロッセにとっては関係の無い事だった。
「八達嶺で飛べる神獣に乗れる人は他にもいるのに……」
 神獣の制御は、自身の身体感覚に直結する。
 四本足のテウメッサのように大地を駆ける神獣であれば、万里が操っても生まれた誤差は神獣と経験が吸収してくれる。最悪制御を失っても、転倒するだけで済む。
 しかし、制御を失えば即墜落となる飛行型神獣はそうはいかない。殊に飛べる神獣を扱う者は、沙灯のように翼を扱う感覚に慣れた者がほとんどだ。
「……どうしてテルクが、私の予備機なんですか?」
 この八達嶺にも空を飛べる者は少ないが、けっしていないわけではない。
 しかも沙灯に与えられたヒメロパとテルクは、並の飛行型神獣よりも頭一つ抜けた性能を持つ。テウメッサを運べる輸送力もそうだし、装甲も比較的頑強だ。神獣を経由して術を使った時の威力も、通常の飛行型神獣とは比べものにならない。
「姫の護衛の貴女には、予備機が必要でしょう」
 姫の護衛という立場は理解している。ヒメロパに何かあった時でも、万里に付き従えるように。
 それ故の、予備機という事も。
 けれど普段使わない予備機に、こんな高性能機を宛がっておく必要はないのではないか……。
「それにヒメロパとテルクは姉妹ですからね。一緒に扱った方が、機嫌が良いのですよ」
「それも知っていますが……」
 兄弟姉妹として作られた神獣も、それほど珍しいわけではない。だが、他の姉妹神獣達はそれぞれ別の駆り手に仕え、それを理由に予備機となっている神獣など一体もいない。
「……貴女にも生き残ってもらわなければ困るのですよ。それはヒサ家の神術師なら……理解しているでしょう?」
 言われ、沙灯はそれ以上の言葉を返せない。
 ヒサ家の神術師。
 その銘こそが、生まれつき体の弱い沙灯が万里の世話係兼護衛として、今も彼女の側にいられる理由なのだから。
「なら、話はこれで終わりです。用意は済ませてありますから、すぐに出発なさい」
 沙灯もロッセに促され、神獣達の待つ発着場へと歩き出す。


「人……? スミルナって、人なんているの?」
 好き勝手に伸びた緑の下草を掻き分けながら進むのは、金髪の少女。
「そうか。スミルナ・イサイアスに人はいないのだったな」
 それに続くのは、長身の兄だ。
 最初はアレクが先頭に立っていたのだが、やがて先に行きたいとソフィアが言い出して……今はこんな状況になっていた。
「うん。空気はここみたいにキレイだったけど、岩が転がってるだけの荒れ地だったから」
「そうか。東部やニルハルゼアのスミルナには住人がいるよ。私もスミルナ・ニルハルゼアで、一度会った事がある」
 ソフィアの背では邪魔にならない頭上のツタを払いながら、アレクは静かに答えてみせる。
「ここでは今のところ見つかっていないが……まだ調査はそれほど進んでいないからな」
 キングアーツ領の西方に位置するメガリ・ニルハルゼアでも、清浄の地に棲まう民が見つかったのは、調査の終盤になってからだったという。
 まだほんの一部しか調査の進んでいないこの地で人が見つかったとしても、何ら不思議ではない。
「これだけキレイな所だったら、いてもおかしくないって事よね」
「そういう事だ。人でも獣でもそうだが……もし出会ったら、向こうを刺激しないようにな」
 もっとも今日は、調査の終わった浅い部分を少し回る程度だ。
 この地に棲まう民と出会う可能性は、限りなく低い。
「うん。手袋とコートは、外したらダメなんだよね?」
 ソフィアの手足となっている鋼の義体は、そんな現地の民に警戒の念を抱かせるのだという。今の彼女がまとうコートと手袋は、本来は鋼の義体への湿気の侵入を防ぐための物だが、未開の地を歩く時にはそういった性格も持ち合わせているのだ。
「まあ、そんなものだ、と思っておけば良いよ」
「うん……」
 どうして鋼の体が警戒の念を抱かせるのか。
 それは……幼い頃から鋼の体に慣れ親しんできた少女には、到底理解出来ないものだ。


 緑の森をゆっくりと進むのは、小柄な少女の二人組。
「沙灯、大丈夫?」
「うん。……テルクが機嫌悪かったから、ちょっと疲れちゃったけど」
 八達嶺からそのまま北上。
 テルクシエペイアの翼を使い、湖を渡って辿り着いたのは……対岸に位置する清浄の地の沿岸部だ。
「ヒメロパとは姉妹って聞いたけど、だいぶ性格が違うのね」
 いつもなら揺れ一つない空の旅なのに、今日の沙灯は明らかに神獣の扱いに苦戦しているようだった。
 神獣の性格に個体差があるのは乗り手としては常識だが、同じ飛行型……しかも姉妹機でこれほどの差があるとは。
「ヒメロパは大人しいんだけどね。テルクはすごくヤンチャって言うか……気が強い子だよ」
 巨人達が、万里達が楼と呼ぶ清浄の地に入り込まない事は、これまでの調査で分かっていた。貴重な清浄な地を巨大な神獣で踏み荒らすわけにもいかないため、二頭の神獣は湖畔の目立たない所に待機させてある。
 そのまま徒歩となった二人は、湖を沿って北へ北へと歩いて行く。
「湖の水も綺麗ね……」
 穏やかな湖面は、陽光を弾いてきらきらと輝いていた。
 水は、滅びの原野の薄紫の大気の影響を受けない。
 王都の術者達に言わせれば、原野を覆う薄紫のそれは、土壌や大気を汚染しているわけではないらしい。そんな小さな単位ではなく、場所そのものに影響を及ぼす呪い、なのだという。
 その理論を元に作られたのが、薄紫の呪いを軽減し、やがて浄化へと導く琥珀色の霧。
 八達嶺を守るように覆う、あの霧だ。
「ここの水は、川を下って震柳まで通じてるから」
 震柳は、神揚の王都に次ぐ帝国第二の都市だ。
 この湖から流れ出る豊富な水資源と、眼前の海に支えられた、海洋都市。
 そして、北部開拓の前線基地である八達嶺への中継点でもある。
「震柳が栄えてるのは、この湖があるおかげなのよね……」
 そんな帝国第二の都の水源を確実に帝国領内に組み込む事も、八達嶺が建造された目的の一つだ。
「……沙灯?」
 ゆっくりと話をしながら湖のほとりを歩いていると、先を歩いていた鷲翼の娘がふと足を止める。
 今までの穏やかな様子とは違う。
 その様子に、万里も足を止め……。
「え? ……あ」
 気が付いた。
「あれは……人……?」
 湖のほとりの先、同じようにほとりを歩いている姿がある事に。
「ここ、無人じゃなかったの?」
 金髪の少女と、黒髪の青年。
 八達嶺から偵察や調査に出ているのは、今は万里たちだけのはず。そもそも彼方にいる二人組の装いを、万里は自身の臣下に見た覚えがない。
「湖膳や海門近くの楼でも、現地の民がいたっていう報告はあったし……」
 この地の調査は、八達嶺としてもまだ始まったばかり。
 まだ未調査の領域に住人がいたとしても、何ら不思議ではない。
「あの手足……鎧を着てるみたい」
 目を細めるのは、鷲翼の少女だ。二人のまとう服の隙間から覗くのは、人の肌の色ではない、鋼鉄の色。
「好戦的な部族なのかしら?」
 戦いを望む一族なのか。それとも、戦いに巻き込まれる定めを持ち、その装いを強いられているのか。
「分かんない。隠してるみたいだから……戦いが好きなら、隠さないよね?」
「だといいけど……」
 沙灯の意見ももっともだ。……とはいえ、人間である以上は、いきなり襲いかかってくるような事はないだろう。
 仮にあったとしても、沙灯がいる。
「わたしから離れないでね、万里。合図したら、目、つぶって」
 沙灯が口の中で転がすのは、周囲を閃光で満たす神術だ。
 もちろん今すぐ発動させるわけではない。向こうが敵対する行動を見せればすぐに放てるようにという、非常時の備えの一つである。
「分かった。それまでは沙灯。翼、出さないようにね」
 閃光で動きを止めれば、後は沙灯の翼で逃げられるだろう。向こうのどちらかが飛行の術を持っているなら厳しいが、それでも神獣達の所まで逃げ切ればどうにでもなる。
「万里も耳と尻尾、気を付けてね」
 以前目にした報告書には、現地の民は翼や耳を警戒する者もいたとあった。
 神揚の民であれば何ら珍しくないそれを警戒する気持ちなど、少女達には到底理解出来ないものだったが……そういった報告がある以上、注意するに越したことはない。
 万里は大きめの帽子を被り直し、沙灯も翼が背中に完全に納められている事を確かめる。
 いきなり逃げたりはしない。それでは、こちらから怪しいと言っているようなものだ。
「……こっちに気付いた」
 そして、金髪の少女と黒髪の青年もこちらの姿を認めたのだろう。
 現地の民らしき二人組は、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

続劇

< Before Story / Next Story >


-Back-
C-na's 5th Dimentional Labyrinth! "labcom.info"
Presented by C-na.Arai