10.あなたの求める物語
蹴り出された跡が、じんじんと痛む。
記憶の中にある街の。記憶の中にない道をふらつきながら。そいつの中に渦巻くのは理不尽の一文字だ。
淀み、混沌とした記憶は、途切れ途切れではあるが少しずつ形になりつつある。それに従い、記憶にある場所を探し求めれば……。
ようやく至ったその先で与えられたのは、拒絶の一撃。
そいつの記憶は正しかったのか。
それとも間違っていたのか。
欠けた部分に、問題があるのか。
それさえ分からないまま、そいつは知っていて知らない街を彷徨い続ける。
俺は誰だ。
ここは、どこだ。
「スッ、スベスベマンジュウガニ!」
がばりと身を起こした青年の前にいたのは、大柄な男と青髪の女性の二人だった。
「やっと起きたか。大丈夫か?」
「大丈夫に決まっとるやろ。……で、何がや」
目を覚ましたのは分かる。
だが、その前はサーフボードに乗っていたはずだ。
間の記憶が、綺麗さっぱり無くなっている。
「まあ、分かんないならいいわ」
「ならええわって真っ暗やないか! 俺の誰もいない海はどこ行ってもうたん……」
誰もいなくて遊び放題と、サーフボードを満喫していたはずだが……ようやく気付いた辺りは真っ暗だ。月明かりの海は青いどころか漆黒の闇、とてもサーフィンを楽しめるような雰囲気ではない。
「あー。あれだ、なんかバカでかいモノを釣ろうとして、失敗してたろ」
「せやったっけ?」
確か、サーフボードをしていた気がするが……。
「そうそう」
言われれば、何だかそんな気もしてきた。
そういえば辺りにサーフボードもないし、もしかして釣りをしていたのかもしれない。
「……せや! 俺は大海竜を釣り上げようとして……」
「……街を滅ぼす気かよ」
沖でちょっと津波を呼ばれただけで、たぶんガディアは壊滅だ。そんな大海竜が陸揚げされれば、一体どれだけの惨事が起きるのか想像も付かない。
「あんなデカい竜やで。背中なんか見えへんやろうし、視界の外から思う存分ヒャッホイ出来るやろ!」
百メートルを越える大海竜だ。見えなくても動きに巻き込まれれば即死する気もするが、そういう概念はネイヴァンの中にはないらしい。
「さて。起きたんなら、さっさと着替えて手伝え」
「別にええやん、この格好で」
むくりと起き上がった青年の腰からだらりと下がるのは、真っ赤な腰布だ。もちろんその薄布以外は、一糸まとわぬ姿である。
「塩田騎士団に捕まるぞ……。つか何の格好だよそれ」
「あのパイプのおっさんから、海でヒャッホイするならこの格好しかないって教えてもろうたんや」
試しに着てみると、思ったほど悪いものではなかった。おかげで思う存分ヒャッホイ出来る……はずだったのだが。
(どういうセンスしてるんだ、律の奴……)
無論ガディア育ちのマハエには、それが律の故郷に伝わる伝統の衣装だと理解出来るはずもない。
「で、海竜釣り、手伝ってくれるん?」
「幽霊探しだよ」
街を滅ぼす手伝いなど出来るはずがない。
「……それ、ヒャッホイ出来るんか?」
「あー。出来る出来る」
ネイヴァンの基準はそこにある。
その言葉に適当な相槌を打ってみるが……。
「実体のない幽霊相手にヒャッホイ出来るワケないやろ! いくら俺でも、聖別された武器なんぞ持ってへんで!」
実体のない幽霊に、物理的な攻撃は効果がない。幽霊と戦うには魔法が一番なのだが……武器で戦うなら、相応の術者の用意した聖水を使うか、適切な処置の施された武器を使う必要がある。
「なんでそういう所だけ冷静にツッコミが入るんだよお前!」
ヒャッホイ出来ると適当に合わせていれば、ネイヴァンとの会話は何とかなる。
そうカイルから聞いていたはずなのに……!
(あの野郎フカしやがったな!)
後で殴ると心に決めて、今日は一人で探索するかと小さくため息を吐く。
「……聖別された武器があったら、ヒャッホイしに行くんだ」
「当たり前やないか。……なぁ?」
「同意を求められてもなぁ……」
対幽霊用の聖水は保険で持っているが、一人分だ。
さてネイヴァンを手伝わせるにはどうするか……。
打ち鳴らされたのは、小さな手。
ぱぁん、という乾いた音が夜の闇に響き渡り……。
「この辺りには……変わった気配は無いようです」
その残響が消える頃、少年は閉じていた瞳を静かに開く。
音に自らの感覚を乗せて周囲の気配を探る技だ。効果範囲は目で見るよりも少し広い程度だが、音を媒介にするだけあって、隠れている相手も見つけ出す事が出来る。
「ふむ。そういう技も便利じゃの」
肩のディスに、アギは小さく苦笑する。
「結構大変なんですけどね」
自らの気を乗せて放つぶん、消耗も少なくない。慣れれば放つ気の量もコントロール出来るようになるのだろうが、覚えたばかりのそれはまだその域には達していなかった。
「ルードの気配も分かるのか?」
「貴晶石から気配が出てますから、分かりますよ」
もともと魔力の結晶体である貴晶石は、起動していれば独特の気配を放つ。まだ個人の特定までは出来ないが、ルードか人間かは簡単に見分けが付けられる。
「そうか」
ディスの口ぶりに、彼女の言いたい事が何となく分かったのだろう。
「あの、ディスさん……」
アギのそれは、気配の強さを特定する技だ。対象にどれだけの力が残っているのかも、ある程度は把握出来る。
そして、まだ使い慣れぬアギにさえ分かると言う事は……ディスのそれは推して知るべし、という事だ。
「湿っぽいのは好かぬ。皆には言うでないぞ。……む?」
言葉を続けようとしたアギを遮りかけて……視界をよぎった小さな影に、片目に嵌めていたスコープのフォーカスを調整する。
その先に見えた姿は……!
「ディスさん!」
叫んだ時には既にディスはアギの肩を蹴り、屋根の上へと跳び上がっている。
「おぬしのそれの範囲外であろ! 付いてまいれ!」
マントを大きく翻して夜を翔けるディスに小さく頷くと、アギも石畳の街を走り出す。
自分用の聖水を使わせる事で何とか話を付け、ネイヴァンを連れてきたのはいいが……。
結局、探索をしているのはマハエとネイヴァンの二人ではなかった。
「で、幽霊っつーのはこの辺りなんか? マハエ」
「らしいぜ。こいつらの情報だとな」
彼等の目の前を歩くいているのは、元気よく歩く犬である。
犬はただの犬だが、ただの犬ではない。
動物と意思を通い合わせる『夢見る明日』の店主からの要請と正統な報酬を約束された……彼等の協力者、いわば動物冒険者である。
だが、そんな黒ブチの背中を胡散臭そうに眺め、ネイヴァンはぽつりと呟いた。
「その犬、さっきいきなり俺に噛み付こうとしたんやで? 信用出来んの?」
果たしてターニャからどんな依頼を受けていたのか。
冒険者の間でよく言われる『依頼主の顔が見たい』状態そのままな点まで、まさしく冒険者であった。
「正しい反応でしょ。明らかに」
苦笑しながら混ぜっ返すミスティに、何とも言えない表情を返しておいて……。
「…………」
一同の前。
視界を覆うようにばさりと広がるのは、純白の影だ。
続劇
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