5.目覚める闇 蠢く光 光差す回廊で、柔らかな声が掛けられた。 「レヴィーには慣れましたか? オルタ様」 大きく広がった黒いスカートが、長い回廊を駆け抜けていく。それを追うよう、白いスカートが疾走する。 踏み込む位置は床を選ばぬ。時には壁、時には天井さえ駆け、加速をさらに高めていく。 「はい、ドゥルシラ。良い所ですね、ここは」 問われた言葉に、廊下を歩く少女はおっとりと答える。 オルタがレヴィー領に来て、一週間ほどが過ぎていた。その間で彼女は、この城の雰囲気にすっかり馴染んでいる。 「はぁぁっ!」 逃亡する黒いスカートは無手、追撃する白いスカートが構えるのは通常の半分ほどの短槍だ。 だ、と分厚い扉を蹴り込んで、白が黒の背後に接敵する。 「ならば良かった。良ければ、しばらくゆっくりしていって下さいませ」 穏やかに笑ったドゥルシラの背後を、漆黒の影が。 「ええ。ぜひ」 柔らかく答えたオルタの眼前を、純白の影が。 「待ちなさいっ! メルディア!」 共に、駆け抜ける。 そこは、闇の底だった。 グルヴェアの地下の地下。レヴィーの地下工廠よりさらに深く。 奈落の底の果ての果てに在るは、赤の聖地。 「で、招待を許したのか? ヴルガリウス」 その地の底に、低い女の声が響いた。 「ふむ。反対する理由も特にあるまい」 答えるのは男の声。地の底では誰はばかることなく己の本来の姿……六本の怪腕を持つ巨漢……をさらす、禿頭の武人である。 「エノク巣の生き残りが何やら企んでおる様子」 「殿下に対して、か?」 「それもある。が、冒険者を雇い、どこぞに手紙を出しておる気配がある」 「……手紙? 誰に」 女の言葉に、武人は薄い眉をひそめた。 エノクの少年に身寄りは居ないはず。エノクの『巣』が滅んだ後はグルーヴェに身を寄せているから、手紙を出すような相手が居るとは思えない。 「我々とて奴を監視してはおるが……頭の中までは覗けぬ」 冒険者を雇ってまで送る手紙だ。彼等から無理に奪えば冒険者ギルドに目を付けられてしまうし、かといって手紙の行方を追えるほどの余裕があるわけでもない。 フェアベルケンの冒険者ギルドには、既に幾つもの『巣』を潰されている。この状況で彼等と事を構えるわけにはいかないのだ。 「まあ良い。奴の件はこの際捨て置け」 「……何?」 ヴルガリウスの簡単な結論に、女の声は不審を露わにした。 少女は彼等の一族にとっての最後の希望。それに不信を企む相手を放っておけとは、一体どういう考えか。 「試作品の貴公は勿論だが……アルジオーペもクローディアスも、『女王』には至れなんだ。確かに殿下こそ最後の希望だが、もはや手段は選んでおれぬ」 「我等には時間がない。か」 今までの議論で散々繰り返された結論を口にし、女はため息を一つ。 「左様。残る封印を解き、ロード・シュライヴが目覚めるまで、さしてかからぬ。それまでに、新たな『女王』を得ておかねばならぬのだ」 それも今までに語り尽くされた話題。 既に一つ目の封印は解け、ジンカは暴走を始めている。計画は回り始めてしまったのだ。 もはや後には退けぬ。ならば、無理にでも飛び立てるようにしなければならない。 その時、軽い靴音が響き渡り、会話の中断を合図した。 「爺さん達の収容、終わりましたよ。後はフォルミカに任せてきたけど、いいんですよね」 現れたのは、エノクの『巣』からやって来た貝族の少年だ。 「うむ。大儀であった」 ウォードは部屋の中をちらりと見、中央に据えられた異形をまじまじと見上げた。 人間の上半身と昆虫の胴・腹を持つ、巨大な物体を。 獣機よりは小さいだろう。が、それでも小さな家ほどはある。赤の一族はおろか、まともな生物にすら見えない。 しかし、その魔獣こそが赤の一族で最も重要とされる存在であった。 「ヴルガリウス。このお方が、グルーヴェ巣の『女王』? それともロード・シュライヴ?」 見慣れた異形に珍しく敬意を払いつつ、ウォードは巨漢に問う。 「どちらでも無い」 そう。どちらでもない。 今は、どちらも居ない。 「こちらの姿では初にお目に掛かるか、エノク巣最後の生き残りよ。グルーヴェ王家の粛正は、大儀であったな」 そして、巨大な女魔獣が口を開いた。先程までヴルガリウスと語り合っていた、女の声で。 「生き残りが一人いるようですが、あれはまだ殺さなくて良いのですか? 『女王』」 「まだ、良い」 「は」 ヴルガリウスやコルベットにも見せぬ礼で、ウォードは魔獣の言葉を聞く。 「それとシェルウォード。我々の名はフォルミカ。『女王』では、無い」 「……フォルミカ?」 ウォードの中でフォルミカと言えば、黒鎧を身につけた青年の姿しかない。女でも、ましてやこんな怪物でもないはずだ。 その時、彼の疑問に答えるように巨獣の腹が軋み、ゆっくりと開いた。 静かに開いた扉の中へ、疾風が駆け込んだ。 「これで、最後ッ!」 ホールの中はさして広くない空間だ。短槍には得手の戦場な上、窓には鍵が掛けられている。もともと体術が得意でない黒スカートが逃げる事は、もう叶わない。 マントルピースを大きく踏み込み、跳躍に等しい動きで翔ぶ。部屋へ飛び込んだ時に落ちた加速を一気に取り戻し、再び間合を近く取る。 「そう思うなら甘いですよ。グレシア!」 その時、逃げるかのように部屋を駆けるメルディアが朗と笑う。 「はいな!」 ワゴンからカップとソーサーを取り出していたメイドが次に取り出したのは、ティーポットではなく一張の弓。もちろん普段メルディアが使っている長弓ではない。リムを短く詰めた短弓、ショートボウだ。 「ソカロ殿とハイリガード嬢が来たら、お茶にしましょう。殿下」 ワゴンの脇を影がすれ違った時には、既にその弓はメイドにはなく、メルディアの手の中にある。 「はい」 だ、と軸足で床を拍ち、余った加速で半回転。左足で円運動を制止すると同時に弓をつがえ、短弓の限界点まで引き絞る。 「これで……」 追う白スカートも反応は同じ。黒スカートの旋回点の三歩前に着地し、槍を引きつつ加速を殺す。 「終わりッ!」 ぎりと弓が鳴った瞬間と、槍の攻撃姿勢が完成するのは全くの同一だ。 互いに相手を正面に構え、動は静へ。 停止する。 「……勝ったネ、メルディア」 限りなくゼロに近い距離を隔て、イーファは不敵な笑みを漏らした。 ショートボウの近矢と、体重を乗せた零距離の槍打。共に刃の落とされた一撃であれば、どちらが痛いかは明らかだ。 しかし、その圧倒的なダメージ差を知ってなお、メルディアの余裕が消える事はない。 「そうかしら?」 そう言い、ショートボウの穂先をわずかにずらして見せた。潰した矢じりに、鏡文字で描かれている文字を。 描かれているのは『肉』の一文字。 「くっ……」 それが額に直撃した後どうなるかは、言わずもがな。 「卑怯な!」 肉体的なダメージが勝つか。 心理的なダメージが勝つか。 「あ。ハイリガード様」 不気味な膠着状態の中、互いの攻撃が放たれる事はない。この状況で片方が技を放てば、残る方も反撃を受ける事は必定。 イーファも『肉』はイヤだが、メルディアだって痛いのはイヤなのだ。 「ハイリガード様、コーシェは?」 ハイリガードを呼びに行ったのは、オルタの連れてきた侍女だったはず。その割に、ティールームに来たのはハイリガード一人だ。 「ソカロを呼びに行くって。案内はこの子がしてくれたよ」 言われてみれば、足元にはコーシェの連れている猫がいる。相当賢いらしく、コーシェの代わりに案内を買って出たらしい。 「さ、お掛けになって下さい。皆様お待ちですよ」 ドゥルシラが椅子を引き、既に座っていたオルタの傍らにハイリガードを座らせる。 「はーい」 その、がたり、という音が引き金になった。 繰り出される槍打。 放たれる近矢。 互いに身をひねり、迫り来る痛烈な一打を螺旋に回避する。ふわりと二色のスカートが舞い、その脇を必殺の一撃がすり抜けて……。 「あ」 踏んだ。 「あ」 互いが、互いのスカートを。 回避の旋回は止まらない。無論、踏んだ軸足を浮かせる事も出来はしない。 「あー」 連なって弾けるのは、派手な転倒音と、さらに派手な陶器の割れる音……。 腹の内側から姿を見せたのは、ウォードも見慣れた青年だった。 「こちらの姿が見慣れているか、ウォード」 黒鎧の騎士、フォルミカである。無論、その通り名を示す黒鎧も身に付けた姿だ。 「なるほど……。貴方は蟻族か」 青の一族からすれば特異な聖痕を持つ者の多い赤の後継者だが、フォルミカの持つ聖痕は、赤の一族であるウォードからしても極めて特異な聖痕だった。 「如何にも」 答えたのは女王アリのフォルミカであり、同時に働きアリのフォルミカでもある。 本体である『彼女』と分身である『彼』は一心別体。恐らくは他の分身達とも、意識を共有する存在であるに違いない。 そんな彼等に付けられた異名は『無尽』。赤の本拠地奥深くに潜む本体を討たぬ限り、彼ら兵士達の存在が尽きる事はない。 「ではウォード。貴公はそのフォルミカと共に、レヴィーに飛んで貰いたい」 フォルミカの恐るべき性質をウォードが理解した所で、不滅の名を持つ猛将が口を開く。 「レヴィー? 何かあるの?」 ヴルガリウスの言葉に、ウォードは首を傾げた。グルーヴェの中立貴族に彼等が出向く用事などないはずだ。 「逗留しているオルタ・リングの護衛を頼みたい。吾輩はヴァーミリオンとフォルミカを連れてコルベットに戻り、フェーラジンカの軍を迎え撃つ」 (こんな時に、人間の娘ごときを護衛……?) ジンカ軍の強大さはウォードでも知っている。少しでも兵力を集めたいだろう時に、ウォードとフォルミカをオルタの護衛に回す必要が分からない。オルタにはコーシェとフィアーノが付いていれば十分だろうに。 「では行くぞ、ウォード」 「了解」 うながすフォルミカに生返事を寄越し、エノクの一族最後の生き残りは、赤の地下要塞を後にするのだった。 「あ痛ぁ……」 打った頭を撫でながら立ち上がったイーファの前にいたのは、笑顔のメイドさんだった。 「イファ」 柔らかいウェーブのかかった髪を整えつつ、メイドさんはにっこりと笑う。 でも、イーファは笑わなかった。 というか、笑えなかった。 目の前にいる笑顔の娘の目が、全く笑っていなかったからだ。 「メルディア様」 思わず直立したイーファの隣には、既に硬直した弓使いの娘が不動の姿勢を取っている。 「ここでは何ですから、隣の部屋に参りましょうか」 「「ハイッ!」」 柔らかな笑みを貼り付かせたままのメイドさんの案内で、二人の主は隣の部屋に姿を消した。 「では皆様、ごゆっくり。グレシア、コーシェ、悪いけれど後片付けをお願いしますわ」 そう言って、額の中心に見事な『肉』のひと文字を描かれたドゥルシラも部屋から姿を消す。 「な、殿下」 衝撃に揺れる屋敷に構うことなく。割れたカップを片付けながら、メイドの娘は座ったままの少女にヘラリと笑いかけた。 「ここ、ホンマに楽しいやろ?」 「ええ。ここは良い国なのですね……」 少女の問い掛けに、オルタは静かに微笑み返すのだった。 |