豪、という轟きは、容赦なく辺りを舐め尽くす紅の炎の舌の這いずりか、崩れ落ちる構造材の断末魔か。  少女が恐れに閉ざしたまぶたの向こう。  赤く染めたそれは……今はもう、無い。 「大丈夫」  声、だ。  燃えさかる炎の音でも、いつも過ごした屋敷の崩れる音でもない。  優しい、穏やかな、人間の声。 「目を、開けて」  怯えて竦んだ心をじわりと溶かすその声に、娘は恐る恐る目を開ける。 「…………っ!」  そこにあるのは、巨大な影。 「大丈夫だよ。助けに来たんだ」  逆光になって、相手の顔は良く分からなかった。けれど穏やかな声の調子から、苦笑している事は……娘にも、何となく理解出来た。 「立てる?」  娘の足を挟み付けていた燃えかけの建材を機械の腕で易々と取り除き、救助用パワードスーツに身を包んだそいつは、娘の小さな体をひょいと立ち上がらせてみせる。  無骨なマニピュレーターで構成されたその手は、ほんの一瞬前に頑強な建材を容易く砕いたものと同じとは思えないほどに優しく、娘のか細い体を支えてくれた。 「なら、行こう」  そしてその一瞬の後。  二人が初めて言葉を交わしたその場所は、炎と崩れ落ちる屋根によって、この世界から完全に姿を消したのだった。 タイトル  見上げた空は、どこまでも青い。  雲一つ無い青空に伸びるのは、古びた鉄に覆われた塔たちだ。  大地からまっすぐにそびえ立ち、時折左右に分岐するそれらは、さながら荒野に広がる針葉樹の森の如く。  だが、そこは死の森ではない。  森ならぬ森にも、相応の住人達はいる。  塔と塔の間を飛び交う、小鳥のような影。  塔の壁面に張り出しを打ち付ける、親鳥のような影。  塔の壁面階段を歩く、甲虫のような影。  いずれも人だ。  この巨大な塔を我が家、我が町とする、人間達。 「ナナ。どう? 何か視える?」  そんな古鉄の針葉樹林の一角に生まれるのは、少女の声。  塔の周りを飛び交う、小鳥の一羽。 「……異常なし。周辺に火災はありません」  飛行機能を組み込んだ、サイドカーによく似た機械である。サドルにまたがりハンドルを握る小柄な娘の問いに、パッセンジャーシートに腰を下ろした少女がぽつりと返答を寄越す。 「OK。なら、次の層に行こうか」  軽く吹かせば、二人乗りの飛行機械はゆっくりと機首を持ち上げ、塔のより上層へと向かっていく。  サイドカーで二層ほど上がれば、周囲を飛び交う車の数は目に見えて増えてくる。  流通用の大型車両に、他の塔へ向かう長距離車両。壁面や層の内部には、それらを整備する工場やそれぞれのディーラーが軒を連ねている。  数層ごとに自然発生的に作られる、車両街だ。 「やっほー! ワンコー!」  そんな層の一角に、サイドカーの二人に元気よく手を振る姿が一つ。 「マトじゃない。どしたの?」  塔間を行き来出来る長距離車両にしては小柄な車体にひょいと腰掛けているのは、車体よりもさらに小柄な女の子だ。  たっぷりのフリルをあしらったヒラヒラの服に、ふわふわの髪。無邪気で幼いその表情は……彼女の愛車とは、あまりにもアンバランスである。 「二人とも、プリン食べない?」  サイドカーを車に寄せてきた二人にひょいと差し出したのは、小さなパックとスプーンだ。 「……プリン?」 「先輩。勤務中」 「民間人との触れ合いも、消防士の立派な務めよ」  そんな苦言を軽く流すと、ワンコはマトの機械の手からプリンを二つ受け取り、一つはパッセンジャーシートのナナへ。 「そうそう。うん、美味しーっ!」  既にマトは自分の分を口に運び、満足そうな表情を浮かべている。 「最近の義体って便利だね……。味、分かるんだ」  体の一部を人工物に置き換える事は、この塔ではさして珍しい事ではない。そしてその中には、全てを人工化した彼女のような者もいる。 「分かるわよ。やっぱ、隣の塔の限定品なだけあるわね」 「隣って、まさかアクアリウム塔?」 「そそ。朝イチでお客さんを連れて行ってね。帰りに前を通ったら、まだ売り切れてなかったから……」 「いいなーアクアリウム塔。あそこ、イルカの再生に成功したんでしょ? 見たいなぁ」  イルカという生物がこの世界から姿を消して、既に百年が過ぎていた。故にワンコも、図鑑や記録映像で見た事があるだけだ。 「非番の日なら連れて行ってあげるわよ」 「……でも塔間タクシーって、高いでしょ」  彼女のサイドカーは塔内移動専用で、塔と塔を行き来するほどの航続力はない。故に、長距離移動はマト達タクシー乗りに頼る事になるのだが……。 「んもー。私とワンコの仲じゃない。お金なんていらないわよ」 「それはいくらなんでも悪いよ」  塔間タクシーの相場は、彼女の一週間分の給料ほどと聞く。それだけの額を無料にしてもらうのは、いくら友人同士でも気を使ってしまう。 「じゃ、こうしましょ。ワンコがあたしと水族館でデートしてくれるなら、ワンコインにまけたげる」 「やった! するする!」 「先輩……」  満面の笑みのワンコに、脇のナナは小さくため息を一つ。 「ナナちゃんも、妹ちゃんと一緒に来ない?」 「……えっ」  だがその呆れ顔が、マトのひと言で変わった。 「いいの? エイトも?」 「可愛い女の子は大歓迎。ワンコもいいわよね?」  空になったプリンの容器をダストボックスに放りつつ、フリルの娘はふわりと広がったスカートを足でぱたぱたとさせている。 「もちろん。みんなで行こうよ!」 「じゃあ……」  同じ部署で働く妹と、非番の合う日はいつだったか……そんな事を考え始めたナナの表情が。 「どしたの、ナナ」 「三層上に」  そのひと言で、既にワンコはサイドカーを浮上させている。 「マト、約束だからね!」  残るのは元気いっぱいの言葉と、全速のサイドカーの風。  長い髪とふわふわのドレスを風に揺らしながら、タクシー屋の娘は層の上をじっと見上げているのだった。  三層上に辿り着いたサイドカーの通信機を揺らすのは、ドスの利いた男の怒鳴り声。  『遅えぞワンコ! どこに行ってやがった!』 「すみません」  スロットルを緩めないまま垂直上昇から水平機動へ。ナナのナビする方向に機首を向ければ、不自然な位置から燃えさかる炎がすぐに見えてくる。 『やっぱ首輪と紐付けとかねぇとダメか』 「そういうのは、付けられるより付ける方が……」 『ンだ。オメェSか。ワンコのくせに』  さして広くない層だから、火元に辿り着くのはあっという間だ。スピードを落として周回飛行に切り替える。 「セクハラですよ、隊長」  ワンコが苦笑した所で、黙っていたナナが閉じていた目を開く。 「周辺感知終わり。三区・四番に二人、五番地区に一人、八番に三人です」 『エイトの感知状況と一致するな。なら、五番地区の一人は任せる。地図送るぞ!』  通信機からの隊長の声に、ワンコは再びスロットルを振り絞る。 「突入します! ナナ!」 「了解!」  燃えさかるビルの群れの直前で。  その機体が、割れた。  丸みを帯びた機首は胸甲に。  両手を覆う風防は腕甲に。  ナナが乗っていた側車も変形し、脚や背部の装甲板の一部となっている。  そこに、感知能力を備えた彼女の相棒の姿はない。  ぱちぱちと爆ぜる炎の音を聞きながら。装甲と化したサイドカーをまとうワンコは、その脚をさらに早めていく。 「先輩。熱くありませんか?」  サイドカーの装甲と、緩衝と断熱を兼ねた保護ゲルに身を包む彼女の耳元で囁かれるのは、感知能力を備えた相棒の声。 「平気。ナナが守ってくれてるから……」  装甲はサイドカー。  そして、彼女を包む保護ゲルこそが、ナナの真の姿であった。  塔の科学によって生み出された、液体生物。  高められた感知能力によって周囲の火災や生存者を見つけ出し、液化する事で救助隊のサポートも行う、人の手で作り出された生命体。 「で、どっち?」 「右です。そこからまっすぐ」  そんな人工生命のサポートを受けながら、ワンコは躊躇無く前へ。 「あれね!」 「天井の強度が限界です。間に合わないかも」 「間に合わせるの!」  叫びと共に、ワンコは機体をさらに加速させる。 「大丈夫?」  掛けたのは、声。  迫る炎にも、構造材の悲鳴にも負けぬ強さで……けれど、相手を怯えさせない優しさを込めて。 「目を、開けて」  その想いが届いたのか。  目の前で倒れ伏している少女は、必死に閉じていた目を恐る恐るではあるが開いてくれた。 「…………っ!」  息を、飲む。 「大丈夫だよ。助けに来たんだ」  炎を背負っているから、少女の顔は分からないはずだ。外部装甲をまとった姿は、大きく、恐ろしいだろう。  そんな思いを抱かせないよう。  娘は、務めて優しく……頼もしく聞こえるよう、言葉を紡ぐ。 「立てる?」  少女の足を挟み付けていた建材を慎重に取り除き、倒れていた小さな体をそっと立ち上がらせる。足は折れていないようだったから、外まで連れ出せば何とかなるだろう。 「なら、行こ……」  その瞬間だった。  天井が、崩れ落ちたのは。  ぎしぎしと軋むのは、装甲板の音。 「先輩……!」 「ナナ……あの子は、無事……?」  落ちてきた構造材に阻まれて、視界は最悪だ。崩れた瞬間、必死に庇った覚えはあるが……。 「はい。先輩が支えになってます」  ナナの答えに、安堵のため息を一つ。  けれど安堵ばかりもしていられない。 「持ち上げられそう?」 「難しいです。救助まで保てば良いのですが」  彼女達の背中にかかる重量は、機体の強度限界をはるかに超えている。助けが来るのが早いか、機体の限界を迎えるのが早いか……それとも、炎に巻かれるのが早いか。 「……だから、無理だと」  助けに入る直前から、天井の強度は限界に達していた。少なくともあの段階で判断していれば、二人が巻き込まれる事はなかったはずだ。 「無理じゃ無いよ」  けれど、そんなナナに向けられたのは、小さな呟き。 「まだ、誰も死んでない」 「時間の問題です」  関節部の軋みが、さらに不安を増す音に変わっていく。  定型を持たない、液体生物のナナは助かるだろう。けれど強化服が潰れれば、救助者の少女とワンコは間違いなく助からない。 「…………諦めるもんか」  豪、という轟きは、容赦なく辺りを舐め尽くす紅の炎の舌の這いずりか、崩れ落ちる構造材の断末魔か。  だが、そこでも少女はもうまぶたを閉じたりはしない。  諦める事無く、思考を巡らせていく。  今は助けを待つ立場では無い。  彼女が、助ける側なのだ。 「大丈夫?」  そんな彼女達に掛けられたのは。  優しい、穏やかな、人間の声。  見上げた空は、どこまでも青い。  雲一つ無い青空に伸びるのは、古びた鉄に覆われた塔たちだ。 「……助かった、ね」  火災現場から少し離れた所で、ワンコはぼんやりと空を見上げている。 「結果論ですが」  助けた少女は救急車両の脇で簡単な治療を受けていた。大した怪我も無いようで、念のために病院に運ばれるだけだという。 「まあ、それでもみんな助かったんだし、いいじゃない」 「……ったくもぅ」  確かに結果論だ。  しかしナナの判断では彼女を助けられなかったのも、また事実。  自分の判断が間違っていたとは思わないが、ワンコの行いがより多くの命を救った事は……認めざるを得ない。 「でもあの助けてくれたの、誰だったんだろう」  だがそれも、ワンコ達から瓦礫を取り除いてくれたあの機体がいてこそだ。 「周辺の層や近くの塔でも、登録されていない機体でした。不明です」 「でも、あの声は……」  逆光と影で、その表情は見えなかった。ワンコ達の装甲よりも大型の機体は見覚えの無いものだったが……。 「こらテメェワンコ! 救助終わったからってサボってんじゃねえ! 補充の放水ユニット届いたぞ!」 「はーい! 行くよ、ナナ!」 「了解です」  とはいえ、今はその事に考えを巡らせる時ではない。  今行うべき事を果たすため、二人は再びサイドカーに飛び乗るのだった。  眼下に広がるのは、炎の戦場。 「……お疲れ様。ワンコ」  放水ユニットを背負い、再び炎の中に飛び込んでいく機体の様子に、そいつは穏やかに呟いた。 「良いのですか? 名乗らなくて」  ダッシュボードのコンソールを彩るのは、無数の計器たち。人工液体生命たる相棒の言葉に、小さく笑みをひとつ。 「別にそういうのに興味ないしね。今のあたしは、ワンコとデート出来るだけで十分」  義体の細い指で小さなパックとスプーンを器用に取り上げてそいつはひと口を口に運ぶ。 「ん。このプリンもおいしーっ♪」