男の目の前で微笑むのは、幼いとばかり思っていた、蜘蛛脚の少女。
赤い色に彩られ、濃い血臭を香水代わりに、引きずり出したばかりの臓腑に唇を触れさせて。
「お前……どうして」
弓使いの娘の骸から溢れ出る血溜まりを踏みしめながら、呆然と問うのは、巨躯の男だ。
「ブレゲ……連れて帰ル時……キレイするのに、血、舐めたデス」
それは、男が蜘蛛脚の少女と初めて出会った時のこと。
男を介抱するため、洞窟まで運んできてくれた時のことだ。
「すごく、おいしカタ……」
喉をこくりと鳴らして浮かべるのは、いつもの華のような笑み。
男から、新たな知識を教えられた時のような。
そして、男が調査のため、またしばらく暮すと知った時のような。
「それまで、人を食べた事は……」
「お父サン、ダメ言いまシタ。毒だからて」
そう言いながら唇を寄せるのは、白く細い指先だ。そこに絡みつく真っ赤な血潮をぺろりと舐めとり……。
「でも、人間………おいしカタ……」
見せるのは、先程とは全く違う、娼婦の如き恍惚の表情。
「レ二みたいな女ノ人……もと、おいし……」
胸元辺りでおかしな方向に折れ曲がった躯に手を伸ばし、腹に大きく開いた裂け目から、ぐじゅりと細い手を押し込んでいく。
「…………ティニー」
「はい?」
血まみれの肉片を取り出した蜘蛛脚の少女に投げかけるのは、男が少女に与えた名前。
「すまんな」
次の瞬間、男が振り下ろしたのは、腰から引き抜いた大鉈だ。
薄闇の洞窟に響くのは、甲高い金属音。
受け止められたと気付いた瞬間、バックステップを踏み、爪を構えた少女と大きく距離を取り直す。
「……っ! ブレゲ、なにする……デスか……」
反射的な動きだったのだろう。鮮血に彩られた少女の顔に満ちるのは、驚きと……困惑の色。
「本当にすまん」
髪の梳かし方も、料理や洗濯の仕方も、薬草の使い方も。教えたことは何一つ後悔していない。
間違って教えてしまったことは、一つだけだと思っていた。
人が愛しいと。警戒など不要な相手だと。
「俺が、人間の味を教えちまったんだな」
けれど男は、彼女に絶対に教えてはならない事を教えてしまった。
彼女の父親が、一生を掛けて禁じさせてきたことを。彼がティニーに人間との接触を禁じていたのは、男が思っていたような単純な理由ではなく……。
「ブレゲ、悪くナイ……わたし、おいしカタの知って、うれし……」
「そりゃ、知っちゃならん事だったんだよ」
口の中で転がすのは、身体強化の幾つかの呪文。踏み込み、力、速度、あらゆる所を強化して、男は少女に斬撃を叩き込む。
「ブレゲ……ブレゲ………!」
だが、大鉈の斬撃は空しく宙を斬るのみだ。
四対の脚で床を蹴り、少女は頭上からぶら下がっている。絶壁さえも容易く登る蜘蛛の脚が、今は岩の天井でその力を発揮している。
「くそ……っ!」
少女を追って男も壁を蹴り、その反動で天井へ。
けれど、天井に脚を着いている相手と、空中から斬りかかる男では……さらに言えば、四対もの脚を持っている相手と比べれば、掛けられる力の割合が違う。
そして、これこそが少女の本来の力なのだろう。
レ二の強弓を引き絞り、人間の背骨さえ容易く折り砕くそれは、魔力で強化された大鉈を容易く受け止め、そのまま力任せに払ってみせた。魔法使いはおろか、並の武人や戦士よりも大柄な体躯が、小さな人形のように容易く放り投げられる。
「がっ!」
折り砕かれた大鉈が落ちるがらんという音は、もはや男には届かない。
気を失うことも許されないほどの全身を貫く激痛は、圧倒的な力で壁に叩き付けられたからか、それとも……。
「は、ぁ…………っ」
洞窟の奥。男も足を踏み入れないままだったそこは、かつての主が使っていた荷物置き場だったのだろう。
砕けた幾つかの木箱に身を凭せ掛けたまま、男は荒い息を吐く。肺腑の奥の空気全てを吐き出させられたような感覚に、それ以上呼吸する事さえ覚束ない。
「あ……ブレゲの………」
対する少女は、天井にぶら下がったまま。
握り締めたままの男の腕に、愛おしげに舌を這わせ……かぷりと、小さな八重歯を立ててみせる。
腕、だ。
本来の主である男との間には、あり得ない距離が広がっているはずなのに。
それは、少女の腕に懐かれていた。
「ブレゲの腕……おいしデス……」
肩口から引き千切られた男の腕を愛おしげに抱きしめて、少女が浮かべるのは、添い寝している時のような安心しきった微笑みだ。
「あの時ト、おなじ味……」
「ティニー!」
右腕の激痛を魔法で強制的に遮断し、男はさらに呪文を詠唱。
けれど、足りなかった。
身体能力強化の魔法だけでは、男は十全な戦いをする事は出来ない。斬撃魔法を施すべき愛用の大鉈は砕かれ、遙か彼方に転がったまま。
そこに、触れた。
洞窟の奥。
かつて荷物置き場として使われていただろうそこ。
叩き付けられた衝撃を受け止め、男の代わりに砕けた木箱の中。
掴むのは、剣の柄。
その重みを、男はよく知っていた。
稽古の度。主の代わりに手入れを行う度。魔法での強化儀式を行う度に、幾度となく感じた重みだったから。
その切れ味を、男はよく知っていた。
鉄さえ容易く切り裂く彼の一撃を受け止めるため、男は魔法の力にさらなる磨きを掛けたのだから。
その剣を、残る左腕で構え。
宿すのは、斬撃強化の紅い揺らめきだ。
「お父サンの……剣……」
「勇者の剣。……俺の盟友の剣だ!」
それを大鉈の代わりに構え、頭上の少女に斬りかかる。
「なんでお前、俺が最初にいた時に食わなかった!」
最初に助けた時に血の味を覚えたのなら、二人で過ごしたあの時には、封じられた本能は明らかになっていたはずだ。
村の住人達を喰らったのは、その時だろう。
だが、その時になぜ、彼女から最も近くにいたはずの自分は『餌』とならなかったのか。
「ブレゲ……お父サン、みたいだたカラ……」
頭上への。そして片腕のみの体重の乗らない斬撃は、いかな勇者の剣とはいえ……少女の白い腕一本で防げる程度のものにしかならない。
「……一緒に、いたからカラ……」
二人の間に横たわるのは、圧倒的な力の差。
それは、いかに男の問いが少女の心を揺さぶろうとも、覆すこと叶わない程の……絶対の差だ。
「それに……」
けれど、男の刃は止まらない。
痛みをこらえるように。罪を濯ぐように。
真っ赤に染まったコートの右袖……既に何も無いそこを、悲壮の覚悟でなびかせて。
だが。
「ブレゲの身体、食べてもまた生えてきたカラ」
その刃が鈍ったのは、男の方だった。
「……食ったのか」
力なく立つブレゲを、ティニーは攻撃しようとはしなかった。
「おいしカタ。血、舐めた時よりモ、すごく、すごく……どきどきした……」
ただ愛おしげに男の引き千切られた右腕に唇を寄せ、小さな歯を立ててみせるだけ。
「だから、ここに連レテ帰タ。心臓、動いてなカタし……おいしカタから……」
頑健な肌を食い破り、内の筋肉を、脂肪を、筋を、噛み千切って咀嚼する。
「でもここに連れて帰てキテ、食べてタラ……。心臓、動き出して……」
くちゃくちゃという音がする度、蜘蛛脚の少女の頬は紅く染まり、幼い顔はその稚さにそぐわない恍惚の色に彩られていく。
美味しいのか、嬉しいのか。
あるいは、その両方か。
抱きかかえた男の二の腕。白い骨が覗く辺りまでを幸せそうに食べ進み、そこでティニーは動きを止める。
「だけど、食べたらまた動かなくなたカラ……。他の人間、食べに行タラ……みんな、動かなくなた」
しばらく放っておけば男のようにまた動き出すかとも思ったが、それらは引き千切られた男の腕のように、動かないままだった。
「なんで?」
抱きかかえたこの右腕は、もう彼女の頭を撫でてくれる事も、髪を洗ってくれる事もないのだろう。男の胸元で眠る時も、抱きしめてはくれないのだろう。
けれど、男の腕はまた生えてきた。
「わたし、悪いコト、した?」
眼下の隻腕の男に問う少女は、本当にそれを理解していないのだろう。
「ね、ブレゲ……」
気付くべきだったのだ。
一番最初に、彼女を目にした時に。
男が意識を取り戻すまで、彼女が男に何をしていたかを。
彼女が口を動かしていたのは、男に口移しで何かを食べさせようとしたからではなかった事を。
「あぁ……。それは……だな」
それは、男のもう一つの伝え忘れ。
否、伝えようとしなかったこと。
「それは……」
言い淀む男の代わりに、答えたのは。
「……不死身、だからだよねー」
少女の、声だった。
それは、少女の声。
ティニーではない。
無論、ブレゲでもない。
少し間延び気味の、血臭の中でも緊張感の感じられないその声は……。
「え、いや、あの…………え?」
「レ二!」
死んだはずの。ティニーに食い殺されたはずの、弓使いの娘の声だった。
「ブレゲンツ・ブレーマハーフェン……すっかり忘れちゃってた。不死身の法を完成させた、大魔道士じゃない」
「……なんで知ってる。つかお前、死んだんじゃなかったのか」
洞窟に横たわったレ二の躯は、泥濘と化した血溜まりの中で未だ腹を引き裂かれたまま。だが、内臓をティニーに引きずり出されてもなお、光を失っていた瞳は輝きを取り戻し、唇は言葉を紡ぎ始めていた。
「そんなの死ぬに決まってるでしょ。……もー、勝手に人の体食べたりしちゃ、ダメだってば。ティニー」
「うぅ……食べる、ダメ?」
天井に逆さまに立ったまま、蜘蛛脚の少女はしょぼんとうなだれている。
会話の内容を考えなければ、その様子はただの叱られた子供と変わりない。
「人間はだーめ」
「おいしノニ……」
「おいしくてもだめなの。ほら、食べ残しの内臓、ちゃんと戻してってばー。ないと再生に時間掛かっちゃうんだから」
叱られたティニーはうなだれたまま天井から降りてくると、食べかけの内臓をレ二の引き裂かれたお腹の中にちまちまと戻し始めた。
「あー肺まで食べてるじゃない! 片方残ってるからいいけど、結構息苦しいんだよこれー」
「お前……」
その光景を、かつての大魔道士は茫然と見守るだけでしかない。
ブレーマハーフェンの完全なる不死身の儀式を施された人間は、この世界では彼以外には一人だけ。しかし、彼女に施された儀式は……。
「そうそう。あたしの死んだ母さんの名前なんだけどさ。ルドブレクって言うの。……ま、儀式は失敗だったらしいんだけどさ」
ティニーに空っぽにされたお腹の中を満たされながら。もう一人の不死身の娘がさらりと口にした名に、男は思わず息を呑む。
「あ、覚えてるんだ」
「当たり前だ……」
その女こそが、かつて男が弟子と迎え、様々な事を教えられた娘の名。
男と同じく不死身の法の実験に臨み……。
失敗して、異形の姿に成り果てた娘。彼女は失敗を悟るや否やすぐに男の目の前から姿を消し、二度と男の前に現われる事はなかったが……。
「……そうか。あの儀式の時、もう……」
あの時の儀式に臨んだのは、一人ではなかったのだ。
お腹の中に、もう一人。
そしてそのお腹の中の赤子に施された儀式は、無事に成功していた。
「ったくもう。自分の研究なんだから知っといてよそのくらい」
「だがそれを、どこで……?」
「あたしを育ててくれた伯母さんが預かってた、父さんの手紙。……もう焼き捨てちゃったけどね」
そう言いながらも、呼吸が難しいのだろう。レ二は小さく息を吐いて……。
「こら、ティニー。つまみぐいはダメだってば! め!」
内臓の端っこを口に運ぼうとしていたティニーは、渋々それもレ二のお腹に戻していく。
「……ブレゲのも?」
寂しげに視線を向けるのは、引き千切られたまま放り出されていた男の腕だ。
「あ、ブレゲのなら食べて良いわよ」
「やた!」
「よくねえ。……ったくもう。俺のも返せ、繋ぐから」
抗議の声を上げるティニーから右腕を取り返し、切断面に押し付けた。
「ったくもう。ここまで食われてたら、しばらく動かせねえじゃねえか」
ぼやきながら再生能力を強化する術を唱え終えれば、切断面の組織が急速に活性化していく異様な感覚が伝わってくる。この違和感ばかりは、不死化して何十年経っても慣れるものではない。
「……あ! こないだ森で襲ってきたのも、ティニーでしょ!」
「森で食べた女の人? おいしカタ!」
「おいしかったじゃないよー! あのあと服は破れてるわ狼は寄ってくるわで大変だったんだからさー!」
一番最初に森に入ったはずなのに、そこでさらに再生に時間を取られ、結局まともに動けるようになったのはブレゲが動き出してから。
ブレゲ達にとってはありがたい話だったが、彼女としては迷惑もいい所だ。
「あー。あの時と女の人と、おなじ味だた」
「当たり前だよぅ……。もうお姉さんを食べちゃ、ダメだからね?」
「お姉……サン?」
聞き慣れない単語に、ティニーは首を傾げてみせる。
「そ。あたし、ティニーのお父さんとお母さんがティニーより先に産んだ子だからさ。……で、いいのよね? ブレゲ」
「ああ。それは俺が保証する」
傍らに置かれた剣は、見間違えるはずもない。
誰も辿り着けぬこの地にあり、ティニーが『お父サンの剣』と呼んだそれは……かつて不死の英雄と讃えられた、勇者の剣の勇者が手にしていた宝剣だ。
「お姉サン……レ二、わたしのお姉サン!!」
「そうだよー。だから、もう勝手に食べちゃダメだよ」
再生が始まったとしても、一瞬で健康体に戻れるわけではない。これだけのダメージを受けていれば、ブレゲが崖から落ちた時と同様、しばらく身体を動かす事は出来ないはずだ。
それでも、表情くらいは動かせるらしい。抱きついてくるティニーに、レ二は穏やかな笑顔を向けてみせる。
「ああもう、かわいいなぁ……。そんな顔されたら、腸くらいならちょっと食べられてもいいかなって思っちゃうじゃない」
「いいの? お姉サン食べる、ダメ……」
「可愛い妹のためなら、ちょっとくらいならいいわ」
「やた! お姉サン、大好き!」
「……おいおい」
ゆっくりと再生が始まっているのだろう。ふさがり始めたお腹の裂け目から内臓の切れ端を嬉しそうに取り出すティニーに、男は苦笑いを隠せない。
「美味しい?」
「おいしデス!」
蜘蛛脚の少女は口元を血まみれにしながらも、うっとりと幸せそうな表情を浮かべている。それは先程のようなどこか影のある様子は微塵もない、いつものあどけない表情だ。
「じゃあ、もちょっとなら食べていいわよー」
「やたー!」
次は、食べるならレ二かブレゲだけ、という事をしっかり教えないとな……と、男は改めて思い直すのだった。
そして、夜が明けた。
「ここが……あいつらの墓か」
三人が早々に訪れたのは、崖を登った少し先にある、小さな広場。
「お父サン、死んだらここに埋めて、言てマシタ。お母サン、ここに眠てるから……」
ティニーが指し示す大きな木の幹には、一対の指輪が半ば埋まるようにして填まっていた。恐らくは木の幹に引っかけていたものが、そのまま周りだけ成長してしまったのだろう。
あと数年もすれば、完全に呑み込まれてしまうはずだ。
一つは精緻な浮き彫りの掘られた翡翠の指輪。
そしてもう一つは……細い金の指輪。
「……ルドの指輪か」
それは間違いなく、あの不死の儀式を執り行った時、彼女の弟子が左手の薬指にはめていた指輪だった。
ならば対となる翡翠の指輪は、夫たるブールがはめていた物なのだろう。
「なあ……」
「なんデスか?」
「んー?」
ぼんやりと言葉を紡げば、帰ってきたのは傍らの蜘蛛脚の少女と、男に抱きかかえられた弓使いの娘の返答だ。
「俺、お前ら家族の仇なんだけどよ。仇討ち……する気、あるか?」
ルドに施した儀式や、当時ブールにした事が、間違っていたとは思わない。
けれど彼ら夫婦とその娘達に辛い宿命を背負わせてしまったのは、紛れもない事実。
「仇討ちって、あんた不死身じゃないのよ」
だが、男の言葉に娘は苦笑。
不死の相手にどれだけ剣を突き立てようと、その命までは奪えない。もちろん痛くないわけでは無いが、痛いだけだ。
「解呪の方法は、ある」
「……あるの?」
「ティニーの蜘蛛脚はどうなるか分からんけどな。少なくとも、俺とレニの不死身は解呪出来る」
「……?」
紡ぐ言葉を、蜘蛛脚の少女は理解出来ていないのだろう。
「……くっだらない」
だがもう一人の娘は、つまらなそうに吐き捨てるだけ。
「どゆこと、デスか?」
「ティニー。お父さん、友達の話ってしてなかった? 謝りたい友達って」
「あー。お父サン、お友達まだいたら、色々助かたのにて。よく言てマシた。でも、ごめんなさいできなかたから、もう会えない」
姉妹の言葉に、男は黙ったまま。
「それに、今不死解かれたら、あたし死んじゃうんだけどー? 逆に迷惑よ」
レ二の再生は途中のままで、男に抱き上げられなければ歩く事もままならない。そもそも不死の身体でなければ、昨晩どころか森に入った時点でティニーに食い殺されていたのだ。
説得力は、ある。
「……そっか。レ二」
ようやく口に出来たのは、友の遺した姉の名だ。
「何よ」
「俺の首飾りに、指輪が二つ付いてるだろ。ちょっと取ってくれないか?」
ブレゲの両手はレ二を抱えていて塞がっていた。弓使いの娘は言われるがままに男の水晶の首飾りをたぐり寄せ、金具を介してぶら下がっていた同じ意匠のリングを二つ、取り外してみせる。
「……この二つ?」
「ああ。それ、お前とティニーにやるわ」
「くれるデスか?」
「なんで? すごく高そうだけど」
揃いの指輪は、水晶のように透明のはずなのに、内側から金色の輝きが漏れ出すような……見た事もない色合いをしていた。そのうえ丁寧に彫り込まれた細やかな魔法文字は、強力な力が込められている事を容易に感じさせる物だ。
ただの指輪でないことは、魔法に疎い彼女でも一瞬で理解出来た。
「魔法金の指輪だから、高そうじゃなくて高いんだよ。多分、一つで城くらい買えると思うぞ」
魔法金の加工が出来る職人は、この指輪が作られた当時でも世界に何人もいなかった。この手の彫金師が減りつつある今は、その価値はさらに跳ね上がっている可能性さえある。
強力な守護の魔法がいくつも施されているとなれば、なおさらだ。
「はぁぁ!? ホントにいいの? 絶対返さないわよ?」
「二人の結婚指輪に用意した物だったんだよ。罪滅ぼしとは言わんが、娘のお前らが持ってた方があいつらも喜ぶだろ」
既に渡すべき友はいない。
随分と遠回りになってしまったし、悲しい思いもさせてしまったが……。少なくとも、二人は最期まで一緒にいて、その愛の形を二人も遺す事が出来たらしい。
「これと、儀式の解呪法を研究してたら……こんなにかかっちまったけどな」
「……あんた、旅の目的って」
それきり、男は答えない。
「あんたさ、これからどうするの?」
「どうするって……どうしようか」
旅の目的は果たした。友との再会も、謝罪も、忘れ形見とも出会うことが出来た。
赦されたとは思わないが、すべき事は、もはや無い。
不死の儀式を解いて、土に還るか……あるいは。
「ティニーはどうしたい?」
「わたし、ブレゲとレ二と、ずと……一緒にいたいデス」
「なんだって。だからさ」
「……何だよ」
盟友達の忘れ形見が育つまで、見守るのも悪くはない。
そう思った男だったが。
「つまり、こういうこと」
二人は揃って、魔法金の指輪を同じ指に……。
○
崖の中腹にある洞窟に生まれたのは、淡い光。
それが収まった時、代わりに立っていたのは……先刻まで村にいたはずの巨躯の男だった。
「帰ったぞ」
転移の魔法が封じられたペンダントを襟元に戻し、ついでに買い出しした荷物を入口近くに放り出す。
奥から漂ってきたのは……いい加減に嗅ぎ飽きた匂いである。
「あーもう、心臓は食べちゃだめだってばー! 生き返るのにだいぶかかるんだから! その間、ずっとお話も弓の練習も出来ないよ? いいの?」
「やー! じゃ、姉ちゃの心臓食べナイ!」
「……何やってんだ、お前ら」
じゃれ合っていた二人に声を掛ければ、蜘蛛脚の少女は男の顔を見るなり元気よく飛びついてきた。
「ブレゲー!」
柔らかい腕の力でそっと抱きしめてくる少女を抱き返しながら、まだ横になったままの娘を一瞥する。
「だって、ティニーが食べたいって」
「姉ちゃ、おいしデス」
「食べたいってお前、また腹開けて……」
前の傷も、まだ完全に再生が終わっていないはず。最近ようやく立ち上がれるようになって、手が掛からなくなったと思っていたのに。
「だってティニー可愛いんだもん。あの顔でおねだりされたら、腸ちょっとくらいならいいかなって思っちゃうでしょー。今日はブレゲも帰ってくるって言ってたし」
「肺もやっと再生したばっかだろうが。いい加減にしとけ」
「で、お土産は?」
だが、彼女の優先は自分の身体よりも買い物らしい。
近くのあの村ではなく、森の向こうの海沿いの街からの帰りだから、分からないでもないが……。
「起き上がれるようになってからテメエで見ろ」
まあ、内臓をおねだりされるのも嬉しい程度には仲が良いのだろう。姉妹の仲が良いのは、決して悪い事ではない……はずだ。たぶん。きっと。
「ティニーは……って、かじるんじゃない!」
そして改めて叱りつけるのは、男の肩口にかじりつき、肩肉に歯を立てていた少女へだ。
「だって、ブレゲおいしデス」
教える事は山ほどある。
それは、ひと月やふた月ではとても足りそうにない。
「俺達とずっと一緒で、いいんだな?」
「うん! ずと、一緒!」
男の改めての問いに蜘蛛脚の妹も弓使いの姉も、左手の薬指にはまった指輪を見せて、揃って花のような笑みを浮かべてくれた。
「ブレゲも姉ちゃも、優しいしおいしいし、大好きデス!」
最強の罠に絡め取られたのは、愚かな魔法使いなのか、それとも無邪気な魔物なのか。
その答えが分かるのは……まだまだ、ずっと、ずっと先の話。
続劇
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